みなはむさんの絵

みなはむさんの絵が気になる!!!!

現在東京で個展を開催されています。めちゃ行きたいが、今回は難しそうです。展示に行けないフラストレーションが溜まりに溜まって色々と考えてしまったのでブログにでも書きます。

なぜみなはむさんの絵が気になってしまうのか。

それは、僕らの世代がトライしたが失敗に終わってしまったことをみなはむさんの絵はやすやすとやってのけているからです。

それは、絵画で「キャラクター」ではなく「人間」を描くこと。

どういうことか説明すると、僕らが幼い頃から何より身近な「絵」として接してきたものは絵画=ペインティングよりも、マンガ・アニメ・ゲームだったんですね。しかしそういうものはサブカル的なものとして美術の世界では無視されていたんです。(未だにマンガっぽい絵は学校の図工・美術ではNGです。)しかし90年代からそういうサブカルを扱う作家たちが出てきて、だんだん空気が変わってきた。僕が美大にいた頃の2010年くらいには、学生はそういう作家達に普通に憧れていて、サブカルを扱うことはある種のブームになっていた。あるいはもっとナチュラルに、自分の表現物としてサブカル的なものが一気に表出し出していた。

乱暴に言えば要するに、キャンバスにアニメ絵を描く人たちが出てきた。

そんな中、美大の教授達ははっきり言って僕らの作品について正確に表現する術を持っていないように感じた。もしくは、拒絶されることが多かった。一瞥してイラストが描きたいなら大学やめなさいと言う先生もいた。そういう状況だったから、僕らの表現が向かう先は用意されていなかった。出口のなさに見切りをつける人も大勢いた。ただでさえアートで食っていくのは99.99%不可能である上に、褒めてもくれないのだから仕方がないことだった。

と言うごく狭い世界での状況的な問題と、実際問題として、アニメ絵をペインティングでやるには画面上で様々な困難が付きまとった。ただイラストレーションを大きくキャンバスに出力しただけでは、絵画はキャラクターの副産物にしかならなかった。またペインティングの画材の上では、出自の異なるアニメ絵は外から来たイメージとして見られてしまい、ぞんざいな扱いを受けることが多かった。例えば女の子を描いてもそれは人間を描いているとは見られず、女の子のキャラクターのイメージを引用していると見られてしまう。そうしたイメージの引用という側面に注目して既存のアニメキャラクターを描いた作品を制作する人たちもいた。対して、表現主義的な動機で作品制作をする個性的な人たちも確かにいた。一口にアニメ絵といっても、それぞれに個別の方向性を持っていたように思う。

とにかく色んなチャレンジをしている人たちがいたのだ。そんな未分化な状態が2010年くらい。それで今はと言うとあの頃のワクワクは消えちゃって、(僕の興味が変化したってこともあるけど、)ずいぶんと落ち着いちゃったって感じがする。イラストレーションと絵画が分断されてしまったように思う。というより、絵画がオワコン化して久しい感じになってしまった。希望も夢もあったもんじゃない。

と言う絶望の日常の中で生きていた僕に、みなはむさんの絵は一筋の光明のように差し込んできた。

みなはむさんの作品には、卓越した描写力、観察眼によって、生き生きとした世界の中にキャラクターが自然体で描かれていた。いや、「キャラクター」と呼ぶのはもはや不適切な気さえする。「キャラクター」という使い古された言葉を超えた、人間的なドラマを感じた。正確な色彩と筆致は、まさに現代のベラスケスのような・・・・非常に上手くて、、そのテクニックの全てが、逆光気味で描かれる人物の、瞳の奥にある感情のために捧げられているかのよう。本当にベラスケスの絵画のように見えてきます。絵を眺めていると、その絵が、デジタルか、アナログか、なんてどうでもいい問題とさえ思えてきます。版権絵だろうが、その核心は一切変わりがない。そこも、新世代という感じが強くしましたし、ペインティングの驚くべきテクニックは勉強にしかなりませんし、何より人物たちが皆愛おしくて、非常に人間的な「感じ」がしたのです。その「感じ」は僕らの世代がもがきながらも結局得ることの出来なかったものに思えてならなかった。そんな気がして、羨望と期待の眼差しを向けてしまっていたのでした。

だからこそ、今回の個展もチェックせざるを得なかった。タイトルからもデビュー戦のような印象を受け、その内容が楽しみで楽しみで仕方がなかった。実際に伺うことは出来なかったけど、どうしても見たくて、Twitterで拝見しました。

ノートに描かれている絵は今までのみなはむさんの絵という感じがしました。新鮮で、確かな絵。しかし、おそらく新作と思われるパネル作品やキャンバス作品のいくつかは、これまでの作品と何かが異なっているように見えました。人物の顔からは表情が消え定型化して、そこだけぽっかりと穴が空いたような空虚な感じが僕にはどうにもしてしまった。絵画の中の生きた人間は、再び「キャラクター」という記号へと引き戻されてしまったように、僕は感じてしまった。

その理由はなんだろう。僕は知りたくてずっと考え込んでた。

アートのごく狭い世界では「キャラクター」を描くこと自体が未だに問題になるのだろうか。そのことの是非に関心はあまりないけれども、みなはむさんの絵がそういう圧力によって、何かを背負わされてシンボリックなものへと変えられてしまったというのならば、僕は残念に思えてならない。机の上のノートやディスプレイから離れてキャンバスに向かえば、やはりそうならざるを得ないのだろうか?かつてはそうだったかもしれない。少なくとも、僕はそうだったから。しかし僕はそんなことは、もはやないと願いたい。そんな呪縛がもしあるのならば、一刻も早く飛び立ってほしい。加えて気になってしまったのは、出身の日本画科の慣習的な手法の影響を感じてしまうことだった。WEBで見ていたあの解放感と比較すると硬直した感じをどうしても受けてしまった。

あえて意図を推察するならば、記号のような誰でもない顔にすることで他者の共感を集めることができるという見方もできるかもしれない。それから一つのスタイルとして、作家のアイコン的な表現になるということも考えられる。しかし、果たしてそれがみなはむさんの表現の根本なのだろうか?生き生きとしたみなはむさんの絵を見ていると、もっと全然別のところ、しかしど真ん中を走っている力強さを感じる。それは生を謳歌する人間たちの、いつも揺れ動くドラマティックな感情そのもの。海のように、林のように、蠢いている人間の感情。それこそが僕の見たかったものだった。ホームページの「南の島」というタイトルに全てが表されているじゃないか!!

僕は批判がしたいわけではない。自分が何を見て何を感じているのか、しっかりと考えたいだけで。なんとなくいいね!だけで見るのじゃ物足りない。自分の頭で考えて、納得して絵を見ていたいから。納得できると、それまで流し見だったものが突然よく見えてきたり、逆のことも起こる。それが面白いし、何かに特別さを感じたいって欲求なのかも。

まあそれはさておき、、、、みなはむさんの今回の個展は、僕にとってはとても興味を惹かれるものでした。みなはむさんの絵が好きだしごく個人的な変な期待みたいなものもあるから、必要以上に熱くなってしまったかもしれません。こんな風に僕の勝手な気持ちを書いてしまったけれど、作家は自分の欲望に忠実に生きるのが一番だと思います。それが作家のためになるし、何より作品のためになるし、オマケで僕らのためにもなる。

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