見出し画像

「キャラクター絵画」回顧録5

これで本当に終わり!

2010年頃に起きた「キャラクター絵画」ビッグバン?がやがて収束した後、その後の風景、新しい動向について、僕が気になるものを付け足しでお話して終わりにしたいと思います。


「パープルーム」は、アーティスト梅津庸一氏が主宰する相模原市を拠点とした美術家集団です。
僕は2015年?2016年頃?からしかウォッチしていないのだけれど、当初は「パープルーム予備校」として、梅津庸一氏のアトリエ兼私塾のような形で始まったと記憶している。(間違っていたらごめんなさい。)

僕がなぜパープルームに気付いたのかというと、pixivで注目していた作家たちが、パープルームと交流を始め出したからである。
その作家たちは、「キャラクター絵画」というカテゴリーには属すことが出来ない者たちであった。理由はシンプルで、女の子のキャラ絵、を描いていなかったから。

前にもお話したように、2010年頃にSNSの整備をきっかけに起こったアートのジャンル越境的ムーブメントは、「キャラクター絵画」というカテゴライズには本来収まり切らないものであった。
しかし、どういうわけか、女の子のキャラクターを描いた絵、という視覚的類型のアピールが最も大きくなってしまい、個々の独自性が覆い隠されてしまっていた。

パープルームは、SNS(主にTwitter?)で活動していた未分類の作家たちに注目し、交流を重ねていった。
その時に連帯の要になっていたのは、「キャラクター絵画」ではなく、意外にも「美術」であったように思う。それは、SNSを土台にして、旧来的な芸大美大の権威による「美術」の信仰をリセットし、新しく紡ぎ上げようとする運動であったのではないか。
(僕にとっては、)2010年に盛り上がった「キャラクター絵画」と「パープルーム」は相関関係を持っている。「パープルーム」は「カオス*ラウンジ」的なる集合の裏、その膨大な外部を補う形でコミュニティを築いていったように思う。


2017年にワタリウム美術館で開催された「恋せよ乙女!パープルーム大学と梅津庸一の構想画」では、パープルームと交流のあったSNS出身の作家、美大芸大出身のアーティスト、パープルーム予備校生、等々、「美術」の名の下に無数の作品がアリの巣のように張り巡らされていた。
会場の一角で行われていた「ゲルゲル祭り」では、当時パープルーム予備校生だった智輝氏がTwitterを通じ声かけして集めた作家たちが、裏文化祭のような形でグループ展を開催していた。その薄暗い一室は、アートの言説では言語化されることのないもの、また、SNSの世界でも恐らく共感を集めることもない、まさに不定形な歪な作品たちの住処となっていた。
また、「パープルーム大学」と名付けられた展覧会の会期中、ほぼ毎日何らかの講義やディスカッション、ギャラリートークが尋常ではない濃密さで行われていた。その光景は、既存の芸大美大が、もはや形骸化し不要のものであることをはっきりと示していた。

「美術」はSNSによってアメーバのように拡張を続け、制御不能な交流と交配によって、言語化できない感覚を人々に伝播していく。そのような新しい「美術」のファンタジーを表現する展覧会であったと、僕は現場を実際に鑑賞して感じることができた。

追記)
そもそも、なぜこの記事を書こうと思ったかと言うと、正直に話せば、パープルームTVの対談動画を見たからである。
パープルームは近年ギャラリー企画展に力を入れており、その次回展は「キャラクター絵画」についてのものになるらしい。
動画では、展覧会の告知を兼ねて出展作家のペロンミ氏と梅津氏が対談を行なっている。
そのなかでペロンミ氏は、「キャラクター絵画」についてもっと色んな意見を聞きたいのに語ってくれる人が少ない、というようなことを話されていた。
僕は単純なのでじゃあ一度書いてみたくなった訳である。
しかしこれは全て僕の見方に過ぎないので、もっと別の視点や他に言及すべきこともたくさんあると思う。
だから、ペロンミ氏と同じように、話したい人がいれば話してくれたらいいのにな、と思っている次第です。


ここまで振り返ってみて、僕の所感を最後に・・・


はじめに、僕はアーティストという存在は基本的には社会に必要ではないと思っている。
ただ、僕にとって必要な人たちがアーティストの中に時々いる、というだけで。

2010年に起こったSNS発祥のアートのムーブメントは、ある意味で、既存のアート、美術を壊そうとするものであった。
僕が当時美大生だった頃、pixivに潜っていた時に感じていたこと、それは危機感であった。(そういえば「危機」というタイトルの展示もやった。)
なぜならば、美大の現場よりも、そこは遥かにユニークで、自由で、美しいもの、人々に溢れていたから。
あれから10年、今や美大芸大的な美術の権威は完全に形骸化した。
残ってはいるものの、ただのフォーマットに成り果ててしまった。
僕はそれを歓迎し、さらなる混沌を渇望する。

「アート」はどこにあるのか?
pixiv?Twitter?Instagram?
SNSプラットフォーム?
NFT?
それとも近所の絵画教室から?

それは未だ現実と仮想世界を彷徨い続けている。
ただ、この世から美大芸大が全部無くなってしまっても、それは消えることがない。
社会が大きく変わっても、人類にとってこの先がどんなに苦しい未来になっても、それは残り続ける。
人々が守っていたテリトリーが崩れ去った時、その中からこそ、面白いものは必ず生まれてくる。

新たな作品を通じて、僕らは時空を超えて繋がることができるはずだ。
これまでの「アート」による連帯でもなく「キャラクター絵画」という集合でもなく「美術」のファンタジーで無くても良い。
ファッションや音楽、ゲームや、スポーツ、好きなアイドル、好きな食べ物であってもいい。セクシャリティであってもいい。

僕らは無数のカテゴリーに属していて、その間を自由に行き来することが出来るのだから。



書けなかった個人的なこと↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?