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地方と絵の関係

国立国際美術館の「抽象世界」が酷すぎる!!

1980年代の抽象芸術を紹介する展覧会なのですが、あまりにも空虚な空間になっていました。田舎の潰れかけのショッピングセンターみたいな。。いや、それだとまだ少しでも味わいを見出せるかもしれないから、もっと言うなら、、田舎のマクドナルドみたいな。。それか、田舎のニトリ、田舎のスーツの春山。これかな、田舎のジョーシン。田舎に住んでない人はイメージがしにくいと思いますが、淡路島に住んでた僕は、はっきりと思い描くことができます。大きな道路を車で運転していると、周りには田畑が広がり小さな家や商店、ずっと向こうにはなだらかな山々、島ののどかな風景が見えてくる。しかし、まさにその間に、突如現れるのは、マクドナルドや、家電量販店の大きな看板、ニトリなどの、無駄に大きい簡素な店舗。バカでかい駐車場。こんなものは、要らないわけです。景観上は。しかし余った使い道のない土地に売れるからという理由だけで立っている。そして田舎の人間はそこへ行くしかないのだ。実際あったら便利よ、でもぶっ壊してもいいなとは思う、僕はね。そういうものを見た時の虚しさと似ていました。「抽象世界」の感想です。まったく同じ構造じゃないか?本当に。

新たな作物が育たない死んだ畑には、ゴミを遺棄される。すでに消費され尽くした旧時代の産業廃棄物。しかしそのゴミですら、頭を使えばまだ売ることができる。特に地方の人間相手には。それと同じことよ。目を覚ましな。

モーリス・ルイスをキラキラにデコった作品は、単に不愉快でした。リ・ウーファンをデジタル化したような作品も、何もかも、全てが、はっきり言ってくだらないと感じました。抽象表現主義を文字のプリントで嘲った作品も、しょうもない、ちょっと期待していたけど、見た瞬間にしょうもない、それ以外の「感情」が出てきませんでした。

面白くないけど、売れるから。というのは分かります。理解できる。じゃあそれなら種明かしをきっちりして下さい。そういう展覧会なら分かります。でもこの展示のやり方では、ああいうあまりにもフラットな場で、「抽象芸術」で語ろうとするならば、虚無しか残らんだろうに。いや、虚無「だけ」ならまだクールになれる可能性があるけど、悪いことにこれは、きっと誤解を生むんじゃないか?しかも大量に。アートは良いものと信じる素朴な人たちによって、これを良いアートとして、この良いアートをモチーフにしてレプリカが量産されるんじゃないか?そして、もはや何を描いていたのかすらわからなくなるまで、二次創作の二次創作が延々と止まらなくなるまで。世界の隅々を覆うまで?まぁでも、売れたらええんか。

もうそういうのやめにしませんか?

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