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学校の作品展

京都造形芸術大学の卒展に出かけてきました。

広い構内にたくさんの学科の作品が展示されてました。学生数の多さにびっくりしました。京都市立芸大の何倍もいるんじゃないか?日本画だけで卒業生30人くらいいる印象です。いや、もっとかな。全部回れなかったけど、久振りの卒展の雰囲気味わいながら、いろいろと楽しく見ることができました。

いくつか気になった作品⇩

(すみません、思わず撮ったものでお名前メモしてません。)

結構みんな好きにやっている感じがしておもしろかったです。僕も卒展に出したい・・・・。みんなと一緒に展示するというのが、やっぱ面白い。


それはそれとして、、うちの学校でも、今度作品展があります。下京渉成小学校作品展。

↓ご案内です。

渉成小学校は、3年くらい前からレジデンスしていて、空き教室をアトリエとして使用させて頂いています。そしてこの展示は、毎年やっていて、子どもたちが図工の時間に取り組んだ作品を展示する作品展です。そこに、京都芸大の作家と、下京中学校の生徒さんも展示します。興味のある方はよかったら見にきてください。普通の小学校の校内でやってます。場所は京都駅近く。すごくきれいな小学校です。

図画工作の時間に作った作品だから、課題なわけで、基本的にみんな同じ紙のサイズで、画材も一緒で、展示の仕方もただ均等に並べられます。そこはやっぱ小学校的に仕方がないのだけど、その中でどうやって隅っこに突っ走れるか、面白くなれるか、バトルを見ることができます。卒展同様に、それが意図的かどうかなんて関係なく、無意識に皆戦ってる。学校のいいところ?こっちの見方の問題でもある。これが個展だとこうはいかない。守りに入った方がうまくいく場合もあると思う。やりすぎないことが大事だったりする。相手の気持ちを考えたりしなきゃならないし。自分がどうありたいか、なんて考えちゃって、お利口になってしまう。でも学校の展示なら、突っ走った方が絶対目立つ。目立ちたいという意思が作品に強く出る場合もあれば、好きにやったことが結果的にみんなと違う作品になっていることもある。

ただ、そういう戦いとして見ることが本当に正解なのだろうか?「作品」として考えればそうなるだろう。けど、絵を描いたり作ることはもっと本当は単純なんじゃないかな。一本の線を引いて、何が描けるか自分で確かめる。粘土を握って、出来た形を確かめる。自分自身のためのトレーニングとして、何かをつくることは続いていくものなんじゃないか?僕は、一度だっていい絵が描けた!と思ったことはない。すぐにまた次の絵を描かなければと思う。それは「作品」をつくっているからではなく、ただ自分自身の欲求の問題のような気がする。次に何ができるか確かめたい、というただその気持ち。「作品」なんて作ってしまったら終わりなんじゃないか?こんなことを言えば、ちょっと鬱陶しい気分になるかもしれないけど。でもそういう態度で僕はやってる気がする。だからダメなのかもしれないけど、、。

「作品」主義の否定。最近、絵画教室をやっているとそういう気持ちになってきた。ただ、何か面白い作品が出来上がれば、それでいいのか?全然よくない。たまたまいい絵が描けたからって、本人にとって何か得るものがあるとは限らない。こっちがいくら褒めたって、本人がわかってなきゃ意味がない。良い作品を作ることよりも、結果を確かめることの方が大事ではないか?本人が、現場で何を試しているか明確に理解し、着実に実践すること。その結果、何かが出来る。大事なのは過程であって、結果である作品の見た目なんて大した問題ではない。そこを、間違えてはならない。だから作品を見る者は見た目ではなくスピリットを感じなければ。声を聞かなければならない。何が出来たかではなく、何をやったか、を見なければいけない。

本当は。だけど、そういう世界ではないから。世界は優しくないから。見させる力も必要だけど。ただ、学校では、思いっきりトレーニングしていいのだ。結果なんて考えずに。上手いとか下手とか、作品には100パーセント関係がないんだよ。それを伝えていけたらいいのに。

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