美しい写真、、続

前回のつづき。

つまり、僕は「いい写真」について何も知らなすぎる。問題は、写真の「セオリー」を何もわかってないことにあるのかもしれない。考えてみると、写真についてわからないことだらけである。一つのスナップを撮るにしても、本当に何から何まで無限に選択肢はあって、無数に道が転がっているのだ。何をすべきか、そもそも、何が選べるのか、ほとんど全部の方法論について僕は知らない。これは、こんなにも世の中には「写真」(もしくは画像)があらゆるところに溢れ返っているというのに、何にも「いい写真」について話すことが出来ない、というのはちょっと駄目なのではないか?

写真についての僕のミステリーをちょっと書き出してみます。

その一。撮った写真をデジタル加工してもOKなのか?

まず最初の疑問でこんな愚かな問いをすること自体が、僕の写真についての無知をさらけ出している。

ちょっと調べてみてわかったことだけど、撮った写真をフォトショップなり何なりで加工して見栄えよく仕上げる、というのはプロのカメラマンでも程度の差はあれ、やるのは当たり前のようだ。ただ、アマチュアとの違いは撮影の段階でレタッチの段階まで考慮している、ということのようである。

つまり、結論としては、よりよい写真にするために撮影後に加工するのはOK。というよりも、より思い描くイメージに近づけるためには必須であるように思われる。仕事で商品撮影をする時なんかは、バック紙の汚れなどはフォトショで消している。これは行き過ぎているかもしれないけれど、実際やろうと思えばあらゆる編集は可能だ。結局は、表現したいものによって大きく違いが出てくるだろう。

僕の好きなティルマンスは、「作品は全て、光、写真材料、そして印画紙の効果と性能を駆使した結果、生まれたもので、デジタルは全く使っていません。」と言っている。人が目で見た感覚に近いものにしたい、とも言っている。だけど、近年はデジタルカメラを使って超高解像度プリントにも挑んでいるらしい。最近の写真集では、写真を重ね合わせて配置して見せている。

ということで、僕はあんまり加工しないようにしてる。インスタに上げる時なんかは無加工である。人が写る場合は加工することもあるけど。というか、アイフォンって賢いからシーンによって勝手によく写るようになっている。ありのままなんて、最早撮りようがないのだ。

その2。カメラの違い。フィルムカメラとデジタルカメラではどう違う?

カメラを通して撮影するのだから、何のカメラを使うかはかなり重要じゃないか?いいカメラを使えば高解像度な写真が撮れる。でも、そういう写真は普段僕らが見ている世界とはかけ離れたものになってしまう。それは拡大プリントをするとより顕著になる。

ティルマンスはコンパクトフィルムカメラを使っていて、今ではデジカメを使うこともあるそうだけど、重要な時期の作品は全部フィルムで撮られている。調べてみると、写真家はフィルムカメラを愛している人がすごく多いみたいだ。やはり、目で見た感動を一番自然に伝えやすいのがフィルムカメラなんだろうか。

僕の愛機はソニーのデジタル一眼NEX−5。5年前に作品撮影のために購入してから活躍しまくっている。(ほとんどオートで撮っている、という情けない状況ではあるが……。)最近スマホをアイフォンに変えたら、そのカメラの高い性能に驚かされた。まずその鮮やかさは以前の機種では敵いようがない。だから、ほとんどアイフォンで撮ってしまうようになってしまった。重いデジカメ(と、言ってもアイフォンに比べればの話だが。)を持って行くのは作品撮影と旅行のときだけになった。アイフォンが出てきてから、みんな「カメラ」のことを忘れがちになっている気がする。カメラを持ち歩かなくてもとっさにどこでも綺麗な写真が撮れるのは革命的だ。そして、写真はいつでもすぐに発信可能なものになった。

みんなが手軽に高解像度の撮影が出来るようになり、そして発表出来るようになった。

表現の選択肢が広がるのはよいことで、これまで以上に、見たこともない写真たちが思いもよらぬ場所から生み出されている。いまこの瞬間も!どこに美しい写真が潜んでいるかわからないので、僕らは自分の目を凝らしてよく探し出さなければならない。

そんな、写真のゴールドラッシュ?時代において、僕が特に心惹かれるのは、やはり、絶対に個人的な写真であり、彼、彼女らの写真たちのすべてが、かけがえのないものとして等価に見える瞬間である。これは不思議な感覚なのだけど、例えば一枚の写真のなかの光や色彩に感じ入りながらも、同時にまだ見ぬ他の写真について意識が繋がっているような感覚を覚えるときがあって、そういう写真こそが美しいと思う。つまり、揺らいでいるというか、一枚の写真として素晴らしいのだけれど、そこで完結しなくて、すぐに視点が別の写真へと飛んで行ってしまう。それで、全部がこの人の写真でしかあり得ない、という風に感じてしまう。

つまり、根本的には、撮りたいものがあって、自分でカメラを構えて撮影して、美しい写真が出来上がる。そんなものすべての写真に言えることではないか、と思われるかもしれないが、これがすごく難しい。

なぜなら、それって表現したいもの、自分の愛するものと、撮影された写真が一致してるってことだから。

本当に、いい写真について、なかなか言語化する術を持っていないのがもどかしいけれど!

さっきの話に戻ろう。

その3。写真はありのままを映すべき?

撮影後に加工したり、カメラを選択する必要があるのはわかった。じゃあ実際にいよいよ撮ってみようということで、被写体にカメラを向けてみる。例えば家の庭先を撮ってみよう。(庭なんて持っていないけれど。)なんとなく撮ろうとしてファインダーを覗き込むんだけど、木の枝が伸び過ぎていて画面の中に入ってくる。花が咲いているけれど、しおれてしまっているものが何個かあって、ここ最近暑かったせいか葉っぱも黄色くなってしまっている。もっとよく見ると、地面には枯れ落ちた葉があったり、雑草が生えている。なんとなく撮ってみようかと思ったけれど、興が削がれて、庭いじりから始めなければならなくなった。余分な枝をカットして、ゴミ拾いや、雑草抜きをする。綺麗にはなったけれど、さっきまでの風景とは全然違うものになってしまった。


。。。ここで文章が途切れている。ここから追記になります。

なんか、このテキストはあんまり良くないな。僕の写真コンプレックスがむき出しになっている!つづきは気が向いたらやりたいと思います。

奥田さちよさんのインスタグラム▶︎ http://instagram.com/sachiyoghost

インスタはやはり楽しい。その人の生活が丸見えになるのがいい。僕はアホだからなんでも上げてしまう。セレクトして上げ出すと何にも上げられなくなっちゃうからみんな考えずにどんどん上げまくればいい。写真ってかなり人となりが出ますよね。きれいな写真もいいけれど、その人らしい写真を見ていくのが楽しい。

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