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「キャラクター絵画」回顧録 番外編〜キャラ絵を描く意味〜

「キャラクター絵画」について僕なりにダラダラ書いたけれども、状況説明にスペースを割いてしまい、個人的な話をする余裕が無かったので、そういったことも書き足しておきたいと思う。


記事の中で、「キャラクター絵画」が孕む問題点として、僕は以下のことを挙げた。

キャラクターは多くの人々(あるいは特定のクラスタ)が知るイメージであり、そのイメージを引用すれば容易に広く多数の共感を集めることが出来た。
しかし、キャラクターを描いたりキャラっぽく描くということは、根本的には、他人の著作物に似せて描くということであり、イメージの盗用という負の側面を持っていた。
また、キャラ絵を描くことは(技術や創造性を無視すれば)子供から大人まで誰にでも可能なことであり、アーティストや作品の唯一無二性と矛盾する行為であった。
だから、「キャラクター絵画」はアートの特異点には最初からなり得ず、作家の表現の個性を覆い隠す無意味なカテゴライズだと、僕は否定的な見方をした。

しかし、では逆に、「キャラクター絵画」では無いこれまでの「絵画」は、どうだったのだろうか。
「キャラクター絵画」と違ってオールドスクールの「絵画」は、ユニークで、独自性があり、専門性のある分野、と言えるものだったのだろうか?
「絵画」は、良い「アート」だったのか?


その話をするために、10年前、僕がなぜpixivに夢中で潜っていたか、そしてなぜ、キャンバスにキャラ絵を描くようになったか、そこから話したい。
(僕にとってメリットのあまり無い話だからしたくないのだけど…。)


まず僕は当時美大生で、油絵科だったのだが、(もうすでにそこから言いたくない。)そこでは、僕は良い「アート」を見つけることがほとんど出来なかった。
特に「絵画」について言えば、死体弄りをしているような状況であった。

端的に言えば、絵画の絵画を描いていたからです。

はっきり言って、10年や20年も前に海外で流行ったような画風を模倣したものばかりが大手を振って横行していた。
しかも、不勉強なのか、元ネタを知らないばかりか、元ネタのパクりのパクりのような、自分でパクっていることすら気付いていない、無意識にスタイルを真似ただけの絵画がほとんどであった。

つまり、何も考えず、ただ絵画っぽい絵画になるように、なんとなく良い感じになるように、教授や学生たちの頭の中の絵に合わせて、絵の具をこねくり回して塗っているだけ、そんな創造性も何も無いのが、美大という現場であった。(と、当時の僕は感じていた。今は知らない。)

なぜそんな状況になるのかと言えば、簡単で、絵の中身の話をしないからです。
どう描くか、どんな下地にどう絵の具を重ねるか、そんな下らない話ばかりをするからです。人間の欲求から目を逸らし、いつまでもフォーマリズムに固執するからです。
絵画がオワコンになって久しいので仕方ないと言えばそうかもしれないが、僕はそんなものに興味は無い。


・・・・強い口調になってしまいました。
すみません。この辺りの話は前に何度か書いているので必要以上に饒舌になってしまいました。

しかし強い口調で書いたのには理由があり、僕は「キャラクター絵画」を愛しているからです。その愛を証明したかったのです。
記事の中では批判的なことばかりを書いたけれども、僕は「キャラクター絵画」は、当時の僕らアーティストの一つの態度として、正しいものであったと思うからです。そしてそれは今も変わらず、僕はその正しさをある意味では信じています。


絵を描くときに、皆さんは何を描きますか?
人物でしょうか。風景でしょうか。
何だって自由自在に頭の中に思い描くことが出来ると思います。
しかし、キャンバスを目の前にして、そのイメージを絵の具で描いてしまったら、それは「絵画」になってしまうのです。
つまり、たとえ自分だけの誰も見たこともない美しい風景を思い描けたとしても、実際に絵にした途端、それは既存の「風景画」になってしまうし、水彩なら水彩画、油絵なら油絵の風景画になってしまう。手垢まみれで、全く新鮮では無くなってしまうのです。

絵を描いていく過程で、自分が今まで見てきた絵のデータの蓄積から表現が逃れることは出来ないし、また絵が誰かに見られる時には、もっと最悪で、他人の頭の中にある絵画のカテゴリーから作品が逃れることなど、決して出来ないのです。
自分が意識しようとしまいと、文化に従属する大人が絵を描けば、絵画の絵画になってしまう、それは避けがたい宿命なのです。
だから、美大では創造性から程遠い絵しか生まれないのは必然だったのかもしれない。(無自覚的なのは問題だと思うけれど。)


「キャラクター絵画」の問題として僕が挙げたこと。そんなものは、本当のことを突き詰めていけば、全部、絵画自身が抱え込んでいる問題だったのです。

僕はそういった絵画の宿命に抗う方法として、「キャラクター」というモチーフに注目した。
これは、一つの固有性を持っていた。
僕にとって「キャラクター」を描くことは、カテゴライズされない個別の愛を表すことであり、ある特定の時代における様式美への偏愛であり、自らのフェチズムを肯定する一つの生存戦略であった。

そもそも絵を描かない人にはちょっと意味が分かりにくいかもしれません。

たとえば、
自分だけが美しいと思う風景を描いても、それは結局、いわゆる風景画のイメージに回収され一般化されてカテゴライズされてしまう。
あなただけの風景というのは頭の中ではいくらでも存在できるけれど、あなただけの風景画というものは絵画のイメージとして外部に存在することが出来ない。
何を描いても、あらゆる類型に仕分けされてしまう。
僕はこれが無性に面白くない。
だから、僕は、自分が幼少期より偏愛し固執していたもの、「キャラクター」を描くことで、絵画という外面の衣服を脱ぎたかった。
「キャラクター」を通して、僕の頭の中にある生のイメージを共有させることが出来るのではないか、と考えた。

みんなが知っている「キャラクター」を描くことで何故それが独自性に繋がるの?と、普通は一見逆に思うかもしれない。
しかし、(僕が見る限りでは)それだけ絵画というものが煮詰まっており、何を描いても何かの絵画になってしまう状況があったのです。
そんな中で、自分だけの絵を探した結果、中学生の頃に落書きしていた何冊ものノートに隠れていた、愛しい生き物、「キャラクター」と呼ばれるモチーフを僕は発見することになる。
そして、それをキャンバスに生きたまま描くことで、僕の心は何かが救われ、本当に美しい絵画と触れ合っているような気分を味わうことが出来たのです。
その時、当時pixivの中で見ていた、ユニークな創作勢の作品たちが、強く僕の後押しをしてくれたのを今も覚えています。


10年前、僕にとって「キャラクター絵画」は、ある政治的態度であった。
それは「絵画」になることへの抵抗であり、もっと根本的には、個人的な偏愛を肯定する価値観の表明であった。
それは、SNSの「裏アカ」を生身の身体に入れ墨していくような行為であった。
もっと月並みな言葉を使えば、自分らしく生きること、自己実現の一つの追求であった。


あれから時が経ち、世の中も変わって、「キャラクター絵画」の思想的な側面、パッションをもはや皆忘れてしまったようだ。
(だけど、僕はまだ、念を感じていたりする。)

一つ、美大の現場での変化として、興味深い現象が起こっている。
かつての「キャラクター絵画」を彷彿とさせる作品が、ペインティングの堅牢さを持つ形で再現され、美大の中で評価され始めている。
僕はこれを「キャラクター絵画」の洋画化と勝手に呼んでいる。
つまり、10年前に流行ったスタイルをなんとなく模倣し踏襲する、かつて僕が美大で感じていた、絵画の絵画、が同じように「キャラクター絵画」においても行われるようになったのだ。
もちろん僕はこの傾向にも否定的です。
なぜならば、絵画の墓石を作り続ける行為だからです。
ただ、現象としては興味深い。


「キャラクター絵画」は一旦死んで、「絵画」になってしまったのかもしれない。
けれど、それは僕がそのように見ているからだ。
作品を一見して、スタイルを理解し、わかった気になっていても、その作者のことまでは誰も分かろうとはしない。
しかし、作者の身体や欲望を、僕はいくらでも想像することができるのだ。そして、その妄想によって、作品に新しい命を吹き込むことも出来るに違いない。
「キャラクター絵画」だって、まだまだ楽しめるぞ。

おわり。

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