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ミニマルアートとしてのゲルハルト・リヒター

久しぶりに展覧会をいくつか見た。
一緒に見に行った弟が「展示はハシゴして見ると面白い」と言っていて、なるほどそうだとちょっとした知見を得た。
感想を書き留めておきたい。結構書くかも。もしかしたら記事が分かれるかも?


先日、友人に誘われてゲルハルト・リヒター展(エスパス ルイ・ヴィトン大阪)を見た。

リヒターは正直言って今興味がない。と言うより、否定的な見方すらしていた。

なぜなら絵に心を感じないから。

こう言ってしまうとただの感情論に聞こえるかもしれないけど、結局は思想とか性格、僕の個人的なイデオロギーの問題だと思う。
だから友達に誘われなければ見に行ってなかった。一生スルーしていたかもしれない。僕はアートが好きだけど、自分のアンテナに引っかかるものしか取り入れようとしない。悪いことだと思う。良い面もある気がするが。

実際にリヒターの絵を見てみると、意外にも画家のタッチを感じる部分も多くあった。つまり何かを描こうとしている筆跡が見て取れた。拭い去ることの出来ない画家の手垢。カラフルな絵の具をタッチやスキージで塗り重ねていく時、リヒター自身に絵を描くことへの没入感があったのか、それがどれ程のものだったのか、少し気になる。
僕が想像していたよりは、新鮮さ、つまり気分のムラを感じることが出来たが、しかし基本的には作品のシステムにノイズとして回収されてしまっているように思えた。

結局、リヒターの絵を見て僕の眼球が動くことはあっても、心が動かされることは無かった。
これは作品というより僕の心の問題である。

なせリヒターの絵には心を感じないのか?

端的に言うと、モチーフが無いからである。

例えばリヒターの作品で写真に絵の具をべったり塗った作品がある。写真は何かを写したものでありそこにはモチーフがあるはずだが、絵の具が塗られることで意味が消えて色彩と表面がひっくり返って前景化する。森林を映した写真にグレーの絵の具が塗られた作品がある。それは連作のように並べられ、徐々に絵の具の面積が大きくなっていく。本来なら森の中へと視線が入っていくはずなのだが、グレーの色面によってそれは遮断され、だんだん何を見ているのか分からなくなる。つまり知覚のバグを起こす騙し絵になっている。

その基本構造はスキージを使ったよく知られたシリーズでも変わらない。写真の光学的な遠近感=色彩のバルールと、絵の具の物質的なレイヤーの位相の違いが、知覚のバグを引き起こしている。

これが基本的なリヒター作品の構造だと理解している。ここまでの認識であれば、上手い絵、賢い絵、で普通賞賛されても良いのだが、僕はその構造に反感を覚える。知覚のバグを起こすという、絵画のイリュージョンそのものを描く作品は、絵画のモチーフであり内容、描くことの意味を疎外しているからだ。

もっとわかりやすく言ってみたい。
リヒターの絵を見ると目が釘付けになる。なぜならイリュージョンがあり知覚がバグを起こすから。でもそれって当然のことでは無いか?人間の目の認識のシステム上、仕方のないことなのだから。過激な言い方をすれば、ドラッグを服用すれば幻覚が見える。これが当たり前のことで、何ら不思議なことでは無いように。

絵画というのは人の認知のシステムによって見える幻影に過ぎない。これは明白な事実である。リヒターはこの事実をあらゆる方法を使ってフレームの中に見せ続ける。それはリヒターの哲学であるから良いとして、問題は我々の捉え方だ。

その幻影に没入することが、果たして我々の幸せなのだろうか?
僕の疑問点はここにある。
僕にとってはリヒターは絵画の墓場を作っているようにしかどうも思えないのだ。

近年制作された、プリントによって描かれたストライプの絵を見ると目が錯覚を起こして視線が絵から離せなくなる。まるで変化する現実の風景を見ているかのようで、その場からも動けなくなるほどだ。
この作品の前で、人はどう感じる?

僕は、自分の体がこの絵によって支配されているようで、かなり嫌悪を感じた。しかし同じ現場にいた友人は、眺めていると気持ちが良いと言っていた。僕は友人の気持ちもすごく理解できる。理解はできるが、僕はそんなただの現象には身を預けようとは思わない。

捉え方は人それぞれだ。
しかし作品には意図がある。リヒターの意図を僕なりに汲み取るヒントが、思いがけず別の展示にあった。
兵庫県立美術館で開催中のミニマルアート展。正式タイトルは、「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」。
実はリヒター展の前に同じ日に行ったのだが、ここにもリヒターの絵が偶然あった。

その展示はミニマルアートからコンセプチャルアートへの繋がりを描いたもので、カール・アンドレから河原温、ギルバート&ジョージなど、網羅的に紹介するような展示で、兵庫県美の空間との相性は良かったけど、ちょっと取り留めのない印象をうけた。

しかし、美術の教科書に書いてあるような作品を今現物として眺めてみると、なにか奇妙なものとして映ってきた。

まず、全体として、僕は何か病んだ心の異常のようなものを感じた。
個性や人間的な実存を、なぜここまで排除しようとするのか、現代に暮らす僕からしたら作る動機が理解できなかった。もちろん美術史的な意味があると言えばそうだろう。しかし作家も一人の人間であり、その時代を生きた心の結果として作品は残される。そういった個の目線で見た時、何か僕は社会に対する反動を感じた。
つまり人間的な芸術性みたいなものを消すことが、彼らにとっての社会批判だったのではないか?という妄想が湧いてきた。

カール・アンドレの工場で作らせた鉄板を床にただ並べる作品、河原温の日付をタイプ文字で刻印する作品、ロバート・ライマンの白い塗料を塗っただけの画面。そのようなミニマル〜コンセプチャルアートの作品群の中に、ゲルハルト・リヒターの初期作品も一点紹介されていた。
その作品はチラシの広告写真をボカして描いたような絵で、丁寧に広告の文字なども描かれていた。リヒターの説明文には絵画の可能性を掘り下げる、的なことしか書いていなかったが、僕にはやはりこれも他の作家の作品と同様に、同じ時代を生きた人々の病んだ心の投影を感じた。

人間の暮らしが大きなシステム、資本主義が構築する生活空間に飲み込まれていく流れの中で、人間の創造力に対する意識が変わっていったのかもしれない。
システムの中では人間の創造力の源=感情は単なるバグとして見なされかねない。
そういった目線で見ると、多くの作品が、システムに対するバグ、ヒューマンエラーを顕在化させるようなものに思えてくる。

カール・アンドレの鉄板は本来の用途を外れることで物質の捉え方がいかに人間の恣意的な見方であったかを意識させるし、河原温の日付絵画は本来何の意味もないただの日付=データに人の目を向けさせる。ロバート・ライマンの白い塗料の塗りムラは絵画の本筋とは関係のない細部の手垢を気付かせる。リヒターの初期の絵は、印刷物を描いたもので、人が描いたものでありながら描く意味が消失しており、何を見ているのか分からなくなる。

伝えたい内容物ではなく、作品を成立させるシステムのバグやエラーにこそ、何か意味がある。
そういった視点が、当時の社会の中での、人間の創造力に対する絶望から来ていたのか、それとも可能性から来ていたのか、そこは各作家で分からないところだ。
ただ現代に生きる僕が感じることは、そんなバグやエラーがそれほど大事なものにはやはり思えないということだ。
なぜならシステムを無視するという態度が、僕らにはもはや許されている気がするから。あるいはもう完全にシステムに取り込まれてしまっていて、その枠組みに気付くことすら出来ないのかもしれない。そうだとしたら僕が彼らのことを病んだ心と言ったのは、甚だ勘違いで、僕の方こそシステムに薬漬けにされていて、そこに無自覚なまま、「自己表現」をさせられているロボットみたいな存在なのかもしれない。なんだか寂しいね。

リヒターの話に戻ろう。

ミニマル・コンセプチャルアートの文脈からリヒターの絵を眺めるということは、新鮮な体験だった。しかし思えば、ごく自然な見方でもある。キャリアが長過ぎて、作品も多種多様なので捉え所が無い印象があったが、兵庫県美のミニマル展と合わせてリヒター展を見られたことで、僕の中で理解がより深まった。リヒターが表現しているものは、河原温の日付絵画と実はそんなに変わりがないようにも思える。両者の作品を貫くシステムは実に明快で、しかしそれは個々の作品の差異=データのバグ、を浮き上がらせるのみであり、そこには固有の意味など見当たらないからだ。

「デュシャン以来、つくられるものはレディメイドだけである、たとえ自分でつくったとしても」
リヒターが語った僕の大好きな言葉だ。
画家の苦悩が濃縮された言葉であり、ずっと僕の心に残り続けている。

ゲルハルト・リヒターの作品をどう見る?
好きか、嫌いか、それが何よりも重要だ。

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