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「キャラクター絵画」回顧録4


最後に書き足し。
(終わらんかもしらんが。)


前回の記事では、2010年頃にSNSの発達を契機として一気に盛り上がったムーブメント、その最も大きな特徴とされた「キャラクター絵画」が孕んでいた問題を、僕なりの視点でお話しました。

キャラクターを描くことで、多くの人々と共鳴することが出来た反面、キャラクターはみんなのものであるが故に、作品のアイデンティティにはなり得ず、唯一無二のアートとして作品化させることは簡単ではありませんでした。

また、「キャラクター絵画」という外見的類型で作品やアーティストをカテゴライズして連帯させることは、このムーブメントが元々持っていた個々のジャンル越境的ユニークさを覆い隠して喪失させてしまう事態に繋がりました。

補足)
「キャラクター絵画」といっても、キャラクターにはドラえもんからエヴァ、CLANNADまで無数にある。しかし、その言葉が指すものは、何故か女の子の、いわゆる萌えキャラのような姿形をしているものがほとんどであった。(これについては、ふつうに、ジェンダーやフェミニズムの観点から批判や考察の余地があると思う。しかし、未だそのような視点で誰かが語っているのを聞いたことがない。アートをつまらなくしているのは僕ら自身ではないかと、つくづく思ってしまう。)
しかし、女の子のキャラクターだからといって、「キャラクター絵画」と一括りにして良いのだろうか?
例えば、ob氏の描く女の子と、藤城嘘氏の描く女の子、これらは「キャラクター絵画」という同じカテゴリーに属しているのだろうか?
AIだったら、大きくは同じ分類をするかもしれない。しかし僕らは人間であり、作品を描いたのも人間だ。二人は性別も違うし価値観もきっと異なっている。どちらも女の子をキャラクターっぽく描いているからといって、表現しようとしているものまで同じであるはずがない。明らかに、前者はキャラクターを依代にした自画像として描いたものであり、後者は既存のキャラクターを引用し画家の手振りを通じて絵画を脱構築するものである。
そんなことは感覚で分かる話なのだけど、当時はキャラクターを絵画にするというアピールがあまりにも大きく、個々の独自性が有耶無耶にされる雰囲気が確かにあったのだ。(それは今も大して変わらないかもしれないけれど。)


さて、もう一つ話したいのが、当時のムーブメントがSNSプラットフォームに依存していたという問題である。

かつて「キャラクター絵画」(あえてこの言葉を使うことにする。)をやっていたほぼ全員が、pixivやTwitterなどのSNSを拠点に作品を発表、お互いに交流していた。

そこからSNSを離れて、実際にギャラリーで展覧会をする時に障壁となったのが、アートの作法や業界の流儀だった。(日本のムラ的な)アートのフォーマットに自分を適合させる必要がどうしてもあったのだ。

例えば、SNSではほとんどの者がハンドルネームを使い本名では活動していなかった。他にも、居住地や年齢、学歴、そういったプライバシーが伏せられていた。多くの者にとって、創作活動は趣味(という名のライフワーク)であり、仕事や生活とは別の「裏アカ」的な存在だったからだ。

しかし、(日本のムラ的な)アートの世界では、どこの美大を卒業していて、誰々の先生に習っていて、どこのギャラリーと関係があって、、、、等々、実際は学歴と既得権益が強く支配していて、SNSの匿名世界なんて、ほとんど通用しない仕組みになっていた。(現在でも美術手帖などを開いてみるだけでも学歴社会であることがすぐに確認できるだろう。そんな世界が本当に面白い訳が無い!!)
あるいは、アートに限らず社会がまだまだ年功序列の世界であり、単純にみんなが若すぎたということも、きっとあるだろう。


そんな風に、SNSを活動拠点にしていた若くて青い創作勢の受け入れ先は、アートの世界ではまだまだ用意されていなかった。

反対に、SNS創作勢側から見れば、そのような自分たちの領分から離れた特殊な価値観の世界で生きていくことは、自らの生活を犠牲にするなど、かなりのエネルギーを要したし、それに見合ったデカいメリットが必ずある、というわけでも無かった。
だから、SNSで活動を続けていく方が、多くの場合は幸せになれたし、そこからアートでは無く、別の自由で開放感のある分野に進むことも出来た。
当時アートのギャラリーでアナログ絵を展示していた「絵師」たちの多くが、アートのコスパの悪さを見限るように、元々制作していたデジタル絵に戻り、SNSで活動を続けてイラストやゲーム業界で生き生きと輝いている。


そして、SNS自体にも次第に変化が訪れてしまった。

かつてTwitterで「ツイ飲み」「エアリプ」が仲間内で流行ったのは今は昔、今や政治家がTwitterで民衆を扇動するなど、僕らの隠れ家だった場所は、パブリックな公道になってしまった。いつの間にか大規模な森林伐採が起き、かつて暮らしていた小動物たちはいなくなってしまったようだ。それはpixivにおいてもだいたい同じに思える。

なんとか住処を見つけられた人々はそれぞれの「クラスタ」に分かれて暮らし始めるが、「クラスタ」を越えて互いに交流することは前ほどは起きていないと感じる。人口が増えたSNSは一見多様性に富んでいるように見えるが、実際はそれぞれが自分の領域を守り、知らない他人と関わることはほとんどなくなった。(そのように、僕には見える。)

また、SNSインフラの整備に伴い、そこに暮らす人々が増えると、自動的にシステムが構築されていく。ユーザーが好き勝手に投稿していたカオスは次第に消えていき、システムがユーザーの投稿をコントロールするようになる。(「バズる」ネタをみんなが探し出す。)

そうなってしまうと、僕がかつて夢中で探していたユニークな生き物は見えなくなり、どこに行けば彼らに会えるのか、分からなくなってしまった。よほど時間をかけて潜らない限り、レアものにはもはや出会えそうもない。


・・・と、ここまで現在から過去の風景を振り返ってみました。
先日、かつての仲間と語り合う機会がありその時出てきた例え話も盛り込んでみました。
懐古厨と言われるかもしれないけど、実は、僕は今の方が楽しかったりする。アートは基本的には要らないものだけど、そう簡単につまらなくなったりしない。

その辺をもう少し書いてみようかな。
続く・・・・・・

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