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アートに集う人々 ベンジー/惑星ザムザ/Chim↑Pom

展示メモをもう少し書いてみたいな。


東京編。
ベンジーの個展、惑星ザムザ、Chim↑Pom@森美術館をハシゴした。
この三つを網羅したアートウォッチャーはおそらく僕だけではないか?
それぞれ全く違う作品だったのだが、作品が違えばそこに集まる人々も違っていたのが印象に残った。
作品に集う人々、そういった視点で振り返ってみたい。


ベンジーこと浅井健一さんの個展に伺うのは2回目で、前回は確か5年前くらいだった。ベンジーは昔からたくさん絵を描いていて、今回の個展ではマンションのワンルームを改装した会場に絵がぎっしりと詰まっていた。壁に飾りきれないから、床にも絵を立てかけている。部屋の真ん中にはグッズスペースがあって、画集やSHERBETSのCDが置かれている。バックにはベンジーの歌が流れている。

ベンジーの絵は水彩画で、架空の街や人々の暮らし、大好きな車やポスタービジュアルのようなものまで、柔らかなタッチで描かれている。今回は室内画が多いような気がした。ベンジーが思い描く幸せな暮らし、人々が安心できるホームを表現しているようだった。

個展のタイトルは「Beauty of Decayed Trans Am」。
腐ったトランザムの美しさという意味。トランザムとはベンジーが好きなアメ車の名前らしい。ベンジーがよく言っていることなのだけど、ピカピカなものか、ボロボロのものか、人はどちらが好きかに分かれる。で、ベンジーはボロボロのものが美しいと思うタイプ。僕もどっちかといえばそう。

ベンジーの世界観をもっと語りたいけれど、まぁ、わかる人にだけわかればいいのかなとも思う。

とにかくベンジーという人は芸術家で、音楽も言葉も絵も美学が貫いている。どんな美学かというと、手作りだから光があるってこと。あたたかくて、さみしい光みたいなものを大事にしている人物。皆がベンジーの歌を聞いたり、絵を見にきたりしているのは、そんな気分になりたいからだと思う。色んな世代の人たちがベンジーの絵を見にきていて、なんだか嬉しくなった。


つぎです。
「惑星ザムザ」は東京芸大出身のアーティスト布施琳太郎さんによるキュレーション展。
廃ビルを一棟丸々使って若手作家を集めた展示が話題になっていた。偶然にもベンジーの個展会場から徒歩5分くらいの所でやっていた。

会場には人が結構いて、まずそこに驚いた。しかも若い人がすごく多い。20代前半か10代くらいの人が多い印象。東京中の美大生が集結しているようだった。
会場は元製本工場だった廃ビルで、薄暗く壁や天井が剥がれている箇所もあり、いかにも廃墟といった雰囲気だ。しかし街中にあるので、不思議と不気味さはそれほど感じない。建物は6階建で、冊子を頼りに、惑星サムザの内部を探検していく。

興味を惹かれる作品もあったが、全体的に素材として弱いものが多い。弱々しく、バラバラで、遍在しており、何も構成しないような。まとまったシルエットが見えないのだ。断片から風景が想像できるか、と言われれば、そんな気もしないでもないが、かなり難しい。ひとつの作品になること自体を拒んでいるようだ。少なくとも僕にはここから何かを思い描いたり、物語を語り出すことがほとんど出来なかった。

だから、なぜ惑星ザムザにここまでアート系の若者たちが集まるのか、ここで何を感じ、何によって連帯しているのか、内容ではなくそこに不気味さを感じた。


対して、森美術館で開催中のChim↑Pom展は、全然違った客層だった。

一時間ほど入場待ちが発生するほどの盛況ぶりだったのだが、こちらも若者がすごく多い。しかも、何というか、絶対お前ら美術には興味ないだろう!!笑。というファッションの若者もたくさんいた。渋谷のハロウィンみたいな雰囲気。どうやらTikTokで作品を撮影した動画がバズっていてその影響があったらしい。

そして会場内の施工も、なんというカオス!
あるエリアでは天井を新たに作って空間を上と下に分け、地下の暗闇には作品やプロジェクト展示をネズミの巣のようにびっしりと並べ、地上は「道」と題して即席の公共空間が作り出されていた。

僕が行った時「道」ではChim↑Pomとは全く関係のない建築の討論会が行われていて、壁の隅に座り込んでしばし聞き入った。たぶんあの人たちをChim↑Pomだと思ってた人たちもいるんじゃないか?その状況自体が通常の美術館ではあり得ない、さらにいうならコロナ禍では長らく禁止されていた超・密な集会であり、様々な身分階級の人々が交わり合う、ある種の祝祭空間になっていた。もうそれだけで僕の心は何か解放されていくような感じがあり、大変たのしい気分にさせてくれた。

Chim↑Pomの活動自体には賛否があるが、僕はただ尊敬する他ない。
「美術」を信奉する奴らがゴチャゴチャ言う度に、彼らのパワーは増強されていくような気がしている。そう、彼らにはパワーがあり、力が人々を惹きつけている。その力とは感情であり、ポピュリズムだ。一緒に行った弟もほぼ全ての作品で釘付けになり解説を熱心に読んでいた。これは他のアート展ではあり得ないことだ。


惑星ザムザの話に戻ってみる。
もう少し考えてみたい。
本展キュレーターの布施琳太郎さんのコメントを引用してみます。

「匿名の人々によって際限なく拡散する言葉とイメージによる織物は、それぞれの状況において、あまりに自由に、虚実を超えた言説を作り出していく」「この展覧会で僕が垣間見たいのは、編まれた糸がひとつの布地になることに失敗し続ける物語である。 その失敗から未来について考えたい。いくつものマテリアルが、見たこともない異形を形作る惑星で、私たちの生きる社会の未来について考えたい。そこでどんなテキストが書かれることができるのか、何を物語ることができるのか、どんな夢を見ることができるのか。 そのための旅路として、ここに『惑星ザムザ』を開催する」「これら物質が、安定したテキストやコンテキストに到達することなく、身勝手な生命活動を開始した状況を観測することこそ『惑星ザムザ』の目的」 「この展覧会の観測は、私たちが、なにものともつなげられていない孤独な存在だった記憶を回復させるだろう。 」

これを読んで改めて振り返ると、布施さんの思いというのが、僕にはあるコミュニケーションの渇望のように思える。

兵庫県美のミニマル展からリヒター展の時にも感じたことだが、美術作品を単に美術の流れとして見てもつまらない。作家の実存だったり欲望、価値観を社会と関連付けて見る必要を感じる。僕の場合知識不足がありそれが妄想的になりがちなんだけど。でも、人間の心を妄想するのはおもしろいから。

ある妄想をしてみよう。

急速にテクノロジーが発展し、自由な個人、自由な市場、資本主義による社会システムが完成してしまった現代社会で、美大生たちは、もはや作る動機を失っている。迷える美大生たちは、個としての自分がわざわざ作品を作る意義が見出せない。
近年アートの市場は活性化しているが、資本主義のために皆に求められる商品を工房のようには作りたくはない。なぜならそれが本当に良いものにはとても思えないから。それに、美大ではそんなことに役立つ技術は一つも教えてくれない。
かと言って、素朴な「美術」の良さみたいなものに人生を捧げる気にもなれない。なぜならここでの「美術」というのはイコール「美大」であり権威でしかないのだから。「良さ」とは大なり小なり権威であり、ただの組織であり、相対的なものであることがもうバレてしまっているから。
ではそんな社会そのものと対峙していく態度はどうか?いや、それには多くの傷が伴うし、敵と味方に分かれた分断を生む。何より人々の感情的なパワーに自分自身が飲み込まれてしまう。「炎上」を眺めつつも、自分は離れたところにいたい。
つまり、自分は自分でただいたい。
ただそこに居ることはできないだろうか?何者にもなれない、なりたくない自分たちの居場所が欲しい。そんな若者の思いが、惑星ザムザを夢想した。
その夢幻世界に、さらに多くの若者が吸い寄せられていく。

個々がバラバラに、欲望を抱く前の姿のまま、お互いに同化せず、それぞれが不定形のままで存在できる空間。

さてその先に何があるのだろうか。
それで暮らしの満足感や生きる喜びを彼らは得ることができるのか、友達と何が美しいかについて、分かち合うことができるのだろうか。

会場で会話している者がほとんど居なかったのが気になった。
僕は弟と行ったのだけど、あれこれ考察を言い合いながら会場を回った。僕は誰かと展覧会に行った時は結構喋る。リヒター展でも友達と20分くらい作品を見ながら喋っていた。もちろん他の鑑賞者の邪魔にならないように状況に応じてであるが。そうすることで価値観を共有したり、自分の考えがまとまっていくからだ。

僕はもう30代になってしまって、10個下の若者の考え方なんて正直わからなくなってきている。
惑星ザムザに集っていた若者たちは、お互いの感覚について理解し合えているのだろうか?
僕には彼らのことはもはや分からない。


アートって人を信じることで一瞬繋がることができる夢のようなものだと思う。
ベンジーの個展を楽しみに見に行く人もいれば、Chim↑Pom展に仲間と自撮りしにいく人々もいる。惑星ザムザに居場所を求めて集まる若者もいる。
僕は偶然にも3つのコミュニティを渡り歩くことが出来たが、彼らは本来それぞれ交わることはないのかもしれない。
僕は人見知りでシャイだけど、アートを通じて間接的にでも色んな人と繋がっていたいから、やっぱり展覧会に行くのは面白く、意味があると感じた。

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