ルドンと色彩

突然ですが僕はルドンの絵が好きです。

画家:オディロン・ルドン。初期の黒い絵と、後半のパステルや油彩の絵。僕は断然、色彩の絵です。中学生の頃から好きです。今また好きになってきました。今まさに好きな気持ちが燃え上がってきてます。

ルドンの絵は、「瞳を閉じて」。↓この絵に集約されています。

瞳を閉じて、耳をすます。僕がよく思うこと。見えるもの、手にするものを、何もアテにしない。何にもない、まっさらな地平の上、ただひとり佇んでいる。完璧に自由な存在になって、ただ、「いま」を感じること。身を委ねること。心を預けること。過去や未来、土地、時間からジャンプして、ルドンの絵は現実ではないどこかへと、心を連れ去ってしまいます。

要するに、瞬間的であること、それは色彩そのものに表れています。色は「何か」の色にはなっていません。色は可能な限り色のままでいられるように、注意深く、擦り付けられ、顔料の輝きそのままに塗り込められています。

人の横顔の絵、というよりも先に、色彩がそのまま目に飛び込んできます。それは瞬間的であるということです。色彩の力は何よりも支配的です。僕から言えば、何が描かれているか、細かい線描はほとんど重要ではない。そこはむしろ、ただの「輪郭」に過ぎない。だからルドンも極力弱々しく描いている。モデルはダンテの恋い焦がれた「ベアトリーチェ」ということだけれど、そんなの知らなくても全く問題はない。知っていても意味はない。これは瞬間的な色彩の官能です。だからこそ、中学生の僕も一瞬で恋に落ちるように魅了されたのです。

大好きな絵。これなんかほとんど何を描いているかわからないでしょう。僕もわかりませんでした。マリア様が船に乗っている絵です。いやそれよりも、何と美しい青なのだ。その中に息づく暗闇。明滅する黄金。マゼンタ色の雲。色彩が僕の頭をクラクラさせるのです。

神話を題材にはしていますが、それは借り物に過ぎません。画家の興味、テンションを上げるフックです。必然的に時代と画家によって選択されるモチーフ、そこから、色彩の力によって過去も未来も超えて、上下左右無重力の宇宙へとジャンプすること。一番始めの「瞳を閉じて」は夢想する画家自身の自画像になっている。そういう意味では他の絵とは意味が違います。

僕の「瞳を閉じて」。2013年の「夜」@ユビフルのための絵。夜に明かりを消して月明かりの下で絵画の鑑賞が行われました。僕は暗闇で描いた油彩画を出品しました。闇の中では不思議に色彩をより強く感じます。ダイレクトに、心の中へ入ってきます。

ルドンは僕のマスターの一人でした。中高生の頃の僕は図書館にある画集を片っ端から見漁ってました。その中で最も僕に影響を与えた画家の一人がルドンです。まず何よりも、色彩です。色彩の魅惑。色彩そのものが持つ官能的な力を引き出すこと。色が色だけの姿でいられるように、注意を払うこと。主題のために色があるわけではない、決して色を「使って」しまわないこと。僕がルドンから学んだことです。今も守れていないことばかりです。僕が色をかなり絞って絵を描くのはそういう理由からです。美しい色しか使いません。ある色のために他の色を用意することもしたくありません。ですから背景、バックの色、という見方は持たずに白場のままにしています。

僕は瞬間的な色の力を完全に信頼しています。青一色で画面を塗れば、それだけで他のどの絵よりも印象的な絵になるでしょう。誰の心にも瞬間的に焼きつきます。けれども、そこには「画家」の姿はありません。ですから、僕は例えば、「瞳」を描くのです。僕が描く「瞳」はこの時代に生まれた僕の必然であって、それ以上も以下もありません。今この瞬間に僕が描いた、たったそれだけの結果です。しかしそのたったそれだけの必然が、何より愛しいものなのです。「出会い」と言い換えてもいい。僕の選択ではあるけど、同時に運命付けられた出会いでもあるわけだ。ルドンの絵が素晴らしいのは、ルドンと出会えたから、決して僕が選別したわけではない。

ちょっと、話が違う方向へ行ってしまいました。定期的にこんな思考に陥ります。要するに、愛国心のようなこと。いや、愛国心というとあまりに政治色が強いけれど、もっと何か、土地や出会った世界に対する絶対的な信頼感、安心感のようなもの。またこの辺については今度。。。。とにかくそのように、僕は色彩について、絶対的な信頼を置いています。

画像出典:http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/redon.html

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