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平成の美術


春ね。 

 なんか泣いたり笑ったりしたい気分。

 見たものメモ。


梅津庸一さんの展示「平成の気分」を鑑賞。京都のギャラリー艸居にて、陶芸の展示。といっても、いわゆる壺とか皿とかそんなのは全く無く、手びねりでウネウネした形からフォルムを作っている。釉薬もドロドロでパレットのよう。
いつも梅津さんやパープルーム の展示を見て思うのだが、図画工作の徹底した実践に僕は感じる。それも小学校低学年の図画工作。言語になる前の感覚の世界。ただ絵の具を触ったり、粘土をこねたり、手遊びで何かを作るのだが、完成品が何かにならないよう、壁の端っこに展示されるように、不定形を求める姿勢。この図画工作の美学は、僕が思うに、小学校から美大まで、日本の美術の中を貫くものだと感じる。つまり、何者にもなろうとしない、理解されようとしない、わからんちゃん(©︎まどみちお)を作るのが美徳とされているのだ。わからんちゃんとは、中原浩大さんが美術教育をテーマにした個展で展示されていた、まどみちおさんの詩、童謡。読めばこの世のすべてのことが書かれている。わからんちゃんは、確かに愛おしい。パームツリーのシリーズはちょっと欲しくなった。あれって僕はアレにしか見えないのだけど、くたびれたミッキーを見るような気持ちにもなり、また飾るとカタストロフ的な世界観が広がり、パームツリーの作品は言語化できない奇妙な感覚を想起させる。それはわからんちゃんだからこそ可能なこと。前回の個展も面白く拝見し、パームツリーのシリーズはその時はペールピンクだったと思うが、今回は黒焦げの釉薬がかかったものもあり、さらに海原を模した気味の悪い色のシーツが広がるインスタレーションの中に置かれていた。シーツの上にはゴミが散らばり、寂しくZIMAのネオンが灯っている。なるほど、そういうものと繋げて見れば、手跡の痕跡を強く残した陶の作品は、多くが手のひらサイズであり、また壁面の絵画も、机の上で描けるもの。作品は生活の中をさまよう断片であり、一帯が現実の物悲しい風景に見えてくる。
しかし平成がテーマということだけど、僕にはその関連がピンと来なかった。なんか、あまりにも終わった時代として描き過ぎではないか?萎えたパームツリーが平成だと言うのなら、それも分かる気がするけど。僕にとって平成とは、幽白やモー娘。とか、漫画やアニメ、そんなサブカルでしかない。あえてそこをスカしてるんだろうけど、僕は欲求不満になる。京セラ美の平成美術展でも思ったけど、あんな暗いものを平成と言って欲しくはないわ。これは作品ディスでは決して無く、展示は僕なりに楽しんだ。しかしやはり、カオスラウンジのあの扱いは何なのだ?第一になぜ、作品が無いのか?おかしいではないか?僕は、必要だったと思う。それが出来ないのなら、何にしろ、説明する必要がある。のではないか?まぁ、元々ただ作品を陳列するような主旨の展示では無かったのだけど。僕は彼らのしたであろうことを擁護するつもりは一切ないけど、彼らの芸術は、センスの好みは置いといて、決して無視することができるものではありません。これまで全くの非芸術とされてきた、オタクアート未満の、何者にもなれないカオスな領域を、様々なチャレンジで記録し作品化してきたのは彼らであり、僕ですら彼らの影響を少なからず受けているくらい。
なぜこのタイミングで突然カオスラ上げをしているのか?今までそんなに触れてこなかったのに。僕にもわかりませんが、さっき書いた、サブカルが無いと欲求不満、ということなのかもしれません。つまり、キャラ絵がないと、僕はつまらない。いや、そんなことは無いのだけど、特に僕と同世代の作家に対して、キャラ絵が無いと、なぜ嘘をついているんだ?という気分になるんですね。短気すぎる。すごい特殊な見方かもしれない。これは結構前からそうで、僕はカッコつけたり、嘘をついている絵が一番嫌いなんです。芸術の真似して楽してる絵なんて一番つまらない。だから、カオスは関わりこそ一切無かったけど、そういう意味では昔からリスペクトしていたのです。だから、何が言いたいかと言うと、つまり、ある意味で僕はショックを受けているのかもしれません。残念です。


書くつもりのなかったことまで書いてしまった。後半。
 あと、僕の悪い癖として展示のステイトメントを読まないということがある。なぜかと言うと、美術作品の面白さは見かけの理解と創作意図の乖離にあると思っているから。それが作品が生きることに繋がると思うから。だから自分勝手に見ています。

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