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21世紀のインターネットにハムレットは降り立った。ウェブ小説『ニンジャスレイヤー』をシェイクスピア愛好家に薦めるわけ

 ウィリアム・シェイクスピア!

 その名を知らない者は恐らく地球上に存在しないでしょう。言わずと知れたイギリス出身の劇作家です。その作品は不朽の名声を勝ち得ており、『ハムレット』『オセロー』を始めとした四大悲劇のほか、『ロミオとジュリエット』などは傑作として知られています。また後世の作家に与えた影響も極めて大きく、その劇作を下敷きにして作られた作品は枚挙にいとまがありません。

 今回はそうしたシェイクスピアの因子を色濃く受け継いでいる作品の中から、近年話題を呼んでいる小説作品『ニンジャスレイヤー』を紹介したいと思います。作者はブラッドレー・ボンドフィリップ・ニンジャ・モーゼズ。彼らは映画やゲームなどにインスピレーションを得た自由な日本像の表現者であり、時として読者にショックを与える強力なブロークンジャパニーズの使い手でもあります。

 そんな彼らの代表作『ニンジャスレイヤー』の舞台は湾岸のメガロ都市ネオサイタマ。いにしえより生き永らえる超人ニンジャによって家族を奪われた男フジキド・ケンジは、自らも復讐の超人ニンジャスレイヤーとなって街をさ迷い歩くのでした。言わばこれは復讐の物語であり――読者の皆様にはもうお分かりかと思いますが――シェイクスピアの傑作悲劇『ハムレット』をこの現代に合わせて研ぎ澄まし、さらに先鋭化した作品なのです。キャラクターによる特徴的なかけ声「イヤーッ」と「グワーッ」による脚韻技法など、シェイクスピア作品全般との共通項も多々見られますが、今回の記事では『ハムレット』との関連に絞って見て行きたいと思います。

ハムレット:
雀が一羽落ちるのにも神の摂理がある。無常の風はいずれ吹く。
(コミカライズ『NINJA SLAYER』より)


・ニンジャスレイヤーとハムレット/復讐者の相似

『ハムレット』を劇場で見た事がないという人間が果たして存在するでしょうか。仮に実際に演じられているところをあなたが目にしたことがなくとも、その筋には誰もが一度は目を通しているはず。それほどの知名度を誇る『ハムレット』ではありますが、一方でシェイクスピアの著作の中でも最長の作品ですから、細部を忘れてしまっている方も多いのではないかと思います。ですので、以下に簡単にあらすじをまとめてみました。

『ハムレット』あらすじ

 デンマークの若き王子ハムレットは、ある夜に亡き父先王ハムレットの亡霊に出会う。父の言によれば、自身の死はハムレットの叔父であり今現在王位に就いているクローディアスに毒を盛られたことが原因だという。それを聞いたハムレットは叔父を殺して父の復讐を遂げるべきかどうか煩悶する。To be, or not to be.――生きるべきか死ぬべきか……。

 とうとう復讐を誓ったハムレット。宰相ポローニアスの娘であり思いあっていたオフィーリアを自分から遠ざけ、いざ敵討ちに挑まんとするも、うっかりポローニアスを殺してしまった。知らせを聞いたオフィーリアは発狂の末事故死。その兄レアティーズと自暴自棄と化したハムレットとで決闘となるも、両者は相打ちになる。ハムレットは死に際にクローディアスを斃し、全てが終わった後には貴人の屍が累々と並ぶのだった。

 はい。というわけで『ニンジャスレイヤー』においてはこの物語がどう置き換えられたか見て行きましょう。亡き妻子の仇討をせんとするフジキド・ケンジは当然ハムレットです。その復讐を促すのはナラク・ニンジャ。一体何者なのでしょうか? 先王ハムレットと同じく、ニンジャの霊です。ニンジャとは17世紀における貴族のことであると考えてもらえれば、この繋がりは容易に理解されましょう。先王の霊がいる限りハムレットは平穏に暮らすことを許されず、常に復讐へ向けて駆り立てられるのです。

『ハムレット』にはハムレットが現王クローディアスの前で先王が殺されるさまを劇にして見せて責めさいなむシーンがありますが、ナラク・ニンジャも同じことをします。フジキド・ケンジを空想の布団に寝かしつけ、妻子の命が奪われるさまを何度も見せつけるのです。どうも劇を見せられる側が逆ですが、それくらいはアレンジの範疇にあると言えましょう。些細なことです。

 生きるべきか死ぬべきか――有名なこの言葉もまた、『ニンジャスレイヤー』においては多少の婉曲を加えて、タマゴのスシかマグロのスシかという二択に置き換わります。このクエスチョンを口にするのは、放逐されたグロスターのごとく落ちぶれた墨絵師シガキ・サイゼン。彼は初期のエピソード『レイジ・アゲンスト・トーフ』に登場します。どん底において口に出されたこの言葉ですが、生命の源であるタマゴと立ち止まったマグロ、どちらが生(to be)でどちらが死(not to be)なのか、それは言うまでもないことでしょう。

ハムレット:
ああ、可哀そうなヨリック(……)お前の嘲笑いはどこへ行った、お前の跳ね回る姿、いつも食卓を爆笑させたあの陽気な冗談はどうした、にやりと笑ったお前のこのドクロの出っ歯をあざ笑うものはないのか。
(コミカライズ『NINJA SLAYER』より)


・「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」

 ……という一言で、彼らの悲惨な末路を思い起こされる方も多いのではないでしょうか。二人はハムレットの友人でしたが、クローディアスに良い様に使われた挙句、最後にはハムレットの書いた自分たちの処刑を嘆願する手紙を持ってイギリスへと出かけていきます。『ニンジャスレイヤー』において彼らはイクエイションとミニットマンとして読者の前に姿を現しますが、その末路はやはり飛んで火にいる夏の虫といった体のものでした。

 なぜ彼らがローゼンクランツとギルデンスターンだと知れるのか? それはハムレットが二人を指して「自分にとってマムシだ」と漏らす下りがあるからです。『ゼロ・トレラント・サンスイ』にはミニットマンが目にもとまらぬ速さで匍匐前進を行う場面がありますが、これは彼が蛇(=ローゼンクランツとギルデンスターン)であることを示しているのです。また、謎めいた"イクエイション"の名が"シェイクスピア"のアナグラムであることも見逃せません。

 それでは『サプライズド・ドージョー』に出てくるアースクエイクヒュージシュリケンはどうでしょう。朋輩であるヘルカイトに切り捨てられ、あわれ核爆弾の露と消えたあの二人は? さよう。もちろんあの二人もローゼンクランツとギルデンスターンです。アレンジがなされている以上、その出番が一度きりである必要はどこにもないのですから。それでも納得がいかないというのなら、ヒュージシュリケンが蛇じみた毒の使い手であることも申し添えておきましょう……。

ミニットマンとイクエイション


・物語はハムレットを更新していく

 復讐者といえど復讐を受けないいわれはありません。ハムレットがポローニアスを手にかけたことでその息子であるレアティーズと決闘せざるを得なくなったように、フジキド・ケンジもまたネオサイタマを根を下ろすニンジャ組織ソウカイヤの構成員を殺めたことで、終わりなき報復の渦の中へと身を落としていきます。ミュルミドンダークニンジャアルビオン……彼の行く手には様々な敵が立ちはだかり、戦うたびにやはりその周囲には屍が積み重なっていきます。

 過ぎ去ったはずの亡霊がなおも復讐を促してくるとすれば、今を生きる人間はどこに決着を見出せばいいのか? 復讐だけが生きる道であるなら、その後にはもう死しか残っていないのか? 『ニンジャスレイヤー』は『ハムレット』が悲劇であるがゆえに敢えて素通りしていったそれらのクエスチョンに改めて向き合い、選択肢を提示してくれる作品でもあります。

 また一見『ハムレット』を完全に踏襲しているように見えますが、他にも様々な作品の要素を野心的に取り込んでいます(どちらかというと17世紀の悲劇よりも近年の映画などの方からとることの方が多いようだ)。人物の仕草が目に浮かぶような動きのある地の文は、ある種脚本のト書きのように演劇的、映像的であると言えましょう。想像の余地を残すようなほどよい描写の密度もまた良し。というわけで世のシェイクスピア愛好家の皆様は、是非一度『ニンジャスレイヤー』をお試しあれ。

(文・マツモトキヨシ)

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