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『スプリット』を見た。シャマランの語る童話、それから多重人格の意味するところとは。

 5月12日公開の映画『スプリット』を見たので簡単な紹介ののちネタバレ有りの感想を垂れ流したいと思います。監督であるM・ナイト・シャマランの過去作『ヴィジット』(2015)、『シックス・センス』(1999)、『アンブレイカブル』(2000)にも触れつつ、シナリオ全体について考察めいたものもできればいいなといった感じです。

・あらすじと見どころ

 お話の核心に繋がりそうな感想は後にして、まずはあらすじから。物語は女子高生クレアの誕生日会の会場で幕を開けます。彼女が父親と友人のマルシアとで話しているのは、日頃クラスで浮いている同級生ケイシーのことでした。言わばお義理でパーティーに呼ばれたケイシーは、隅の方でつまらなそうに携帯をいじっています。後に詳しく触れますが、この場面からはさっそく本作の重要な要素である彼女の孤独の一端を読み取る事ができます。

 そのうちただ突っ立っていることにも嫌気が差したのか、パーティーを中座して帰ると言い出したケイシー。ついさっきまで彼女の陰口を叩いていたクレア親子ですが、ここではケイシーを車で送ると言って聞きません。車の後部座席に陣取ったクレアとマルシアに対して、ケイシーは一人助手席。運転手を務めるのはクレアの父親ですが、こちらは車に乗り込む前にトランクに荷物を詰めこんでいます。

 さて、ここでは何やら視点がおかしい。ゆらゆらと手ぶれしながら後ろからクレア父に近づくカメラ。監督の前作でありPOVホラーの『ヴィジット』を見た方であれば、この時点ですぐピンと来るものがあるはず。案の定クレアの父親がカメラの方を向いて声をかけたかと思うと、画面は暗転。ケイシーたちの待つ車にはクレアの父親でなく、見知らぬ男が乗り込んできたのでした。先ほどのカメラは見知らぬ男の視点だったのです。

 謎の男がスプレーを吹きかけてケイシーたちを昏倒させた後で、画面にタイトルである"SPLIT"の字が大写しになります。スプリット。語義は「縦に裂く/割る」といったところでしょうか。というわけで注目してもらいたいのが次のケイシーらが見知らぬ小部屋で目を覚ますシーン。二台あるベッドの片方にはケイシー一人が、もう片方にはクレアとマルシアが寝かされています。

 以後はずっとこの二人と一人の組み合わせで話が進むのですが、自ずと画面の構成もそれに合わせて半分はケイシーを映し、半分はクレアとマルシアを映し、といったようにスプリットされていきます。これがケイシーの孤立を示すものでなくてなんでありましょう。出世作『シックス・センス』において顕著ですが、シャマランの画面構成は洗練された推理小説の文体のように含意に富んでいるのです。

 あらすじを続けましょう。やがて部屋を訪れたのは、彼女らを監禁した張本人デニス。仕草の端々に病的な潔癖を感じさせる、眼鏡をかけた大柄な男です。彼はまず部屋からマルシアを連れ出そうとしますが、案外頭の冷えていたケイシーの案によるマルシアの密着失禁作戦を前に敗北。改めて三人を部屋に閉じ込め、そこから長い膠着状態に入るのでした。

 さて、ソリッド・シチュエーションホラーかと思われた本作は、ここで一見無関係な精神医学の権威フレッチャー博士のオフィスに舞台を移します。唐突に後の展開への布石を置くのはシャマランの手癖と言っちゃあそうなんですが、この映画に限って言えばシナリオをスプリットさせる演出と取るのが正しいのかも。モノは言いようですね。そのうちオフィスへ一人の男がやって来ます。彼の名はバリー。口ぶりからすると彼は服飾のデザイナーで、同時に博士の患者でもある模様。しかしこのシーンはちょっとおかしい。なぜなら彼の容貌はどう見てもケイシーたちを監禁したデニスその人なのです。

 続けて視点がケイシーたちの元に戻ると、今度はデニスがエレガントなドレス姿で姿を現し、自分をパトリシアと名乗ります。そう、彼の正体は多重人格者。ケイシーらをさらったのはデニスですが、計画自体は彼の中の複数の人格の共謀だったのでした。この先はケイシー、クレア、マルシアの三人と、男の中に潜む闇の人格たちとの頭脳戦とあと時々肉弾戦が繰り広げられます。果たしてケイシーらをさらった人格の目的とは? そして三人で直面した危機を通して、ケイシーが達成した精神的成長とは? 以下ネタバレを交えつつ延々と語ります。

・三人娘の持つ寓意

 映画を見た方はとっくにご存知かと思いますが、危機に直面した三人娘のうちクレアとマルシアは終盤でグロ死を遂げてしまいました。この展開はある意味では規定路線でありまして、ホラー映画においてはスクールカーストの上の方から順に雪崩のように死ぬものと相場が決まっております。とはいえ決してそれだけということはなく、彼女らの死をより印象深くしているのが物語に織り込まれた童話のオマージュなのです。

 三人姉妹、あるいは三人兄弟というのは西洋の童話に多く現れるモチーフです。そして日ごろ何かと馬鹿にされる末っ子が内に秘めた資質を発揮して皆を見返すとなれば、『シンデレラ』や『三匹の子豚』を始め当てはまる作品は数知れず、もはやお伽噺の王道と言っても良いでしょう。もちろん『スプリット』の三人娘もその類型の一つ。他に開かずの間を開けて死体を発見してしまうシチュエーションから、『青髭』を連想された方も多くおられましょう。

 思えばシャマランは過去幾度となくその作品に童話の要素を加えてきました。それが顕著に現れたのが『ヴィレッジ』(2004)であり、「ヘンゼルとグレーテル」を換骨奪胎した『ヴィジット』だったように思います。こうも長年に渡って顔を出すのだから、きっとシャマランは童話の引用に作家的なこだわりを持っているはず。また彼のトリッキーな作風が、お伽噺と高い親和性を持っている点も見逃せません。

・ケビンとは何者だったのか

 とまあ、軽い与太話を済ませたところでいよいよ本題です。ここからはデニスでもバリーでもパトリシアでもなく、ケビンという男に思いを巡らせていきたいと思います。といっても作中ではついぞ語られなかった彼の出自やその後について、僕が想像で語ってみたところで仕方がありません。なのでなぜケビンというキャラが形づくられたのか、その辺りを探ってみるつもりです。

『スプリット』を見た後、僕が1日2日頭を捻って辿り着いた説は、「これってアメコミヒーローのパロディなんじゃないか?」というものでした。それは何も前作『アンブレイカブル』がリアルなタッチで現代に生きるヒーローを描いていたから、というだけのことではなく、ケビンの中に余りにも見慣れた人物が揃っているためでもあります。

 そこには使命感に燃える男女がいれば、彼らを助けるサイドキックじみた9歳児がいます。そして彼らが一心不乱に呼び掛け、最後には変身を遂げたヒーロー。それが即ちビーストだったのではないでしょうか。さらに守られる弱い人々すらケビンの中にいるとすれば、『スプリット』という作品がどこか見慣れたような人物配置を残らず一人の男に負わせてしまった、そのスゴさがおわかりいただけるはずです。実際にここに挙げたキャラが一人一人存在するものと思って筋をなぞってみるのも面白い。

・ケイシーに訪れた報い

 "Split"が引き裂くという意味なら、こちらは逆に繋がる話。ビーストとケイシーのことです。作中でいくどとなく過去を回想していたケイシー。その記憶は自らを奮い立たせる類いのものと見せかけて、実際は不条理で辛い体験が極限下で蘇ったものにすぎませんでした。

 そして回想という形で描かれる弱者の声なき声は、実はシャマランの過去の作品においても重要なファクターを占めていました。というかブルース・ウィリスが勝手に人のをよく見ていた。であれば、本作もまたケイシーが自らの声なき悲鳴に耳を傾ける話と取れるのではないでしょうか。

 作中のケイシーは孤独でした。クレアやマルシアのように自分を失うこともできず、さりとて完全にブッ壊れているデニスやヘドウィグとのやりとりに音を上げようともしない彼女は、あくまでも『賢い末っ子』として自分の身を守るために戦い抜きます。そんなケイシーを徹底的に追い詰めるビーストですが、彼女の全身に残る痛ましい傷痕を見て、ついに矛を納めるのでした。

 この時彼が見出だしたのは、かつての自分と同じ守られるべきもの、そして同時に理不尽と戦ってきたものの姿だったのでしょう。それと同時にケイシーは自分が報われてもいい者、救いを求めてもいい者だと気がついた。最後のパトカーのシーンで彼女の見せた儚げな表情は、そういう意味だったのだと僕は思います。

 いい加減まとめに入りましょう。『スプリット』について、僕はアメコミヒーローものの登場人物を多重人格というギミックを交えてシャッフルしたものであり、またケイシーについて言えば『アンブレイカブル』でダンが自分がヒーローであることに気づいたように、彼女もまた自分が救いを求める人間であることに気がつく話であると考えています。これを日ごろ自分の考えていることに絡めて言うと、他人に知られまい、知られまいとしている弱さを通じてが人と人とが繋がる『スプリット』は、とても現代的なお話だと僕は感じます。というわけで今後も相変わらずシャマランを注視していくし、2019年公開の『Glass』には僕は大いに期待を寄せているのでした。

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