見出し画像

あと一秒でも残業したら俺は過労死してしまう

 川のせせらぎのようなよどみない空調の音をバックに、乾いたキータイプの音が響いている。午後11時のオフィスに人気はない。佐々木はだらりとオフィスチェアに背を預け、顔を天井の方へ向けて、キョンシーのごとく突き出した腕の先でキーを叩いていた。

 だらしのない姿勢を見とがめる上司はおらず、ほかにオフィスにいるのは40代初頭の先輩社員串田だけだ。派遣社員の多良崎は5分前に便所に立ってまだ戻ってこない。串田のデスクは佐々木と背中合わせになっており、また多良崎の席も佐々木の隣なので、その周り以外は照明をつけておらず薄暗い。打ち捨てられた船団のような無人のデスク群を、窓から射すネオンの光がパステルカラーに染めていた。

「佐々木」

「なんですか」串田に呼ばれた佐々木が、指をキーボードに乗せたままの姿勢で気のない返事をした。

「俺に向かってやってくるあの光は何だ」

「光? 光って何ですか」突拍子のない言葉に、佐々木は曖昧な笑い声をあげながら振り返った。

 串田は暗いオフィスの方を向き、左肩をずり下げた姿勢でだらりと席に着いていた。痩身にスポーツ刈りの男で、よく佐々木と二人して遅くまで残っている。翌朝に疲れが残らないタイプらしく、目の下に慢性的にごってりとクマができている佐々木と比べると明らかに顔の色つやが良い。ただ体の深奥には疲労が溜まっていると見えて、近ごろは頭頂部にいくらか白いものが見える。

 日付も変わろうかという時間に彼のデスクに書類が山と積まれているのはいつものことだったが、その陰に置かれたPCはなぜかスクリーンセーバーを表示しているのだった。

「串田さん、休憩ですか」

「佐々木よ、おまえには光が見えるか」

「見えませんよ。光なんて」そうか、と串田は言った。佐々木には相変わらず背を向けたままだ。

「ならば教えよう。俺には赤色をしたレーザービームが見えている。部屋を横切って壁から壁に照射されているものと、天井から床に向けて照射されているものの二つだ。それらがだいたい20㎝ごとに並んでいて、賽の目を形成しながら俺のデスクへ向けてゆっくりと進んできている」

「なんですかそれ」

「わからん。だが恐らく過労死ラインだ。あの光が俺の体を通り過ぎた後、俺はまったく仕事ができなくなってしまう。なぜなら仕事をすると死んでしまうからだ」

「馬鹿言ってもらっちゃ困りますよ」佐々木は半笑いで言った。

「佐々木よ」串田は腕時計を外して脇に置いた。時刻はすでに真夜中近かった。「時間がない。レーザービームが接近している。45秒後には俺の体を通過するだろう。そうしたら俺は一切仕事に関連する機器には触れない。しゃべることもできない」

「ええっ? なんのためにこんな時間まで残ったと思ってるんですか」

「来るぞ……フーッ……フーッ……ふっ!」串田は目を見開き、息を大きく吸って止めた。水で戻した寒天のように身を小刻みに震わせながら、額にじっとりと脂汗を浮かべている。

「串田さん? えっ大丈夫なんですか」

 えっえっと言いながら狼狽する佐々木に串田は手を出すな、と目で訴えると、体を椅子の上でくの字に折り曲げ、首の力で猿ぐつわを外そうとするかのごとくかむりを振った。かけていたメガネが椅子の下に音を立てて落ちた。それからややあって顔をあげると、フーッと大きく息を吐いた。

「平気ですか」

 佐々木の問いかけに串田は答えず、椅子に深く腰掛けたまま、何か悟りを開いたような静かな面持ちをしていた。明らかに一仕事終えた男の顔だった。

「えっ本当に何もしゃべらないつもりなんですか?」

 串田はまだいたのか、とでも言いたげな顔で佐々木の方を見た。それからオフィスチェアをギシギシ言わせながら背もたれにもたれかかり、もはや業務を続ける意思がないことを態度で表した。

「今のは? 演技? 変な光の話も?」佐々木は愕然として尋ねた。「か、帰りたいなら最初からそう言えばいいのに……というかこれ私が片付けるんですか?」

 佐々木は串田のデスクに山積みになった書類を指さして言った。串田は緩慢な動作で頷いた。そばに猛獣がいて普通に動こうものなら飛びかかられるとでも思っているかのようだ。

「でも片付ける場所がわかりませんよ……変なとこしまったらコンプラ違反でしょう」

 串田はそんなものどうとでもしろ、と言いたげに顔をしかめた。そこへピーッというフロアロックの解除音とともに多良崎が戻って来た。多良崎は26歳の派遣社員で、幼い顔立ちに髪を茶髪に染めている。なんでも夜型らしく夜が更けるほど落ち着きをなくしていく男で、オフィスの暗がりを横切ってくる目がらんらんと輝いていた。串田の隣に立った佐々木を見て談笑の最中と思ったらしく、歩きながら声をかけてくる。

「お疲れ様でーす。さっきそこの廊下で5Fの古田さんと会ったんですけど5Fまだ全然人いるみたいですよ」

 やばいっすね、ありゃ絶対何かの障害対応だ、と笑いながら付け加えた多良崎はしかしオフィスの二人の間に漂う異様な雰囲気を感じとって足を止めた。どうかしたんですか、と聞くので佐々木が今しがたあったことを話してやった。その間諦めたように目を閉じて黙りこくった串田の姿はさながら即身仏のようだった。

「えっ串田さんしゃべらないんですか?」リアクション豊富な多良崎が呆然と尋ねた。

「しゃべれないらしいですよ。本人曰く」腕を組んだ佐々木が答える。

「身振り手振りで指示もできないんですか」

「悪いがそれも難しい」

「うーん困ったなあ」多良崎は天を仰いだ。フロアにおける天とはつまり頼りなげに点滅する蛍光灯だった。「それじゃこうしましょうよ」

 多良崎は串田のデスクの黄ばんだキーボードを取り上げ、自分の前に置いた。串田はそれを横目でちらりと見た。

「串田さん、この資料どこにしまったらいいですか。一文字目のある行で頷いてください」

 多良崎はキーボードの左上のQの字を指さした。串田は無反応だ。続いてその下にあるAの字をさしてみせる。

「ちょっとちょっと、何やってんの多良崎さん」

「資料しまう場所を教えてもらおうかと……文字のある行がわかったら今度はその行の文字を一個一個指さしていくんです。そうやって一文字ずつ拾って行ったら文章になるじゃないですか」

 納得が行っていなさそうな佐々木に対して多良崎は「これが一番早いですよ」と言い、再びキーボードを指さした。

 串田の一見してそうとは思えないような微かな頷きでH、Aの文字を突き止めた頃には、佐々木にもようやく多良崎のしたいことが飲み込めてきた。同時に佐々木はわざわざローマ字で指定させるより仮名文字の方が早そうだと思ったものの、とはいえわが身を顧みればキーボード上の仮名文字の配列など寸分たりとも覚えておらず、この入力方法ではキーの位置をあらかじめ把握しているローマ字の方が早いのかもしれなかった。

 零時を回る頃にはそれらしき文章ができたが、その内容たるや『ハチサンゼロゼロサン』という全て数字からなるもので、数字入力が一番手早く済んだこの結果には多良崎も佐々木も内心忸怩たる思いだった。しかしながらこのフロアで5桁の番号と言えばロッカーの割り当て番号であり、それが判明した以上書類の置き場はほぼ見つかったと見てよい。

「それじゃ串田さん、佐々木さん、行きましょうか」書類を一山抱えた多良崎が言った。

「串田さん、いつまでもそうしてないで行きますよ。ほら立って」佐々木が串田に声をかけると、串田はフルフルと身を震わせたが一向に立ち上がる気配がなかった。

「もう、せめて片付けるところは見ててくださいよ……」

 佐々木は串田のオフィスチェアをデスクから引き出し、転がして串田を運んだ。その後ろからは多良崎が慌ただしくついてきている。縦に長いロッカーはオフィスの隅の明かりを消した暗がりの中で棺桶の如くひっそりとたたずんでおり、提げられた『83003』の文字はさながら墓碑銘だった。そこまで来ると後は串田に聞くようなこともなく、多良崎がロッカー内の腰の高さにあるラックに粛々と書類を封じ込めていくだけだった。

 持って来た書類は串田のデスク上にある3分の1ほどだったので、多良崎はまたいそいそと残りの書類をとりに戻っていった。佐々木はと言えばブラインドを透かして見える窓の外の夜景に見入っていた。外の街は寝静まっているかのようでいて、その実そこかしこのオフィスビルには今も閉じこもって働いている者がいることを佐々木は知っており、建物の内と外ではまるで別の星のようだった。

 佐々木の背後では多良崎によってラックの上に雑に積み上げられた書類がばさりと音を立てて床に落ち、オフィスチェアから身を乗り出して右手でそれを拾い上げた串田が悲鳴を上げて手に持ったものを残らず取り落とした。

「ヒイイイイーーーーーーー」


 佐々木が振り返ると串田の手は内側から光を発しながらボロボロと崩れて青い砂に変わり始めていた。砂は空調の風に巻き上げられるほど軽く、タバコのけむりのように串田の白い顔を取り巻いて流れ去っていく。

「ちょっと佐々木さん何やってんですかあ」多良崎が駆け寄ってきて大声を上げた。佐々木は急に怒鳴られてうろたえた。

「ち、違う。何もしてないのに書類が崩れて……」

 佐々木が言い訳する間に多良崎は串田を床に寝かせた。串田の手首から先は砂溜まりと化しており、まるでビーチで砂山に手を突っ込んだかのようだ。

「本当にごめんなさい。私、どうしたら……」

「備品置き場行って。ペーパーカッター持ってきてください。串田さん、それでいいですね?」

 多良崎は苦悶の表情を浮かべる串田の顔を見て問いかけた。串田は目を瞑って頷いた。「早く」佐々木は多良崎に促されるまま、弾かれたようにオフィスを飛び出していった。

 廊下は明かりが消えていてほとんど闇の中だ。辛うじて非常口の表示と、窓の擦りガラスに映る水彩画のような外の明かりが佐々木の行く手を照らしていた。

 倉庫室をめがけて駆ける佐々木の前で唐突に横手のドアが開き、かつて同じオフィスにいたが部署を異動になった古田が現れた。佐々木と顔を合わせるのは久しぶりの古田は「久しぶり」とも「元気?」とも言わず、おかしいと言えばドアの先はビルの非常階段なのだが、そこから明かりが漏れてくることはなく彼が真っ暗な階段を下って来たようなのもおかしいのだった。

 そして古田は佐々木の前で全身から光を放ち青い砂に変わった。佐々木はひぃと声を上げ、とっさに腕を顔の前に掲げこそしたものの頭から青い砂を被った。その手を眼前に持ってきて非常階段の照明で素肌が緑色に、付着物が空色に見えるのを視界に収めて絶叫し、半狂乱になって倉庫室へ駆け出した。

 ドア脇のスイッチで明かりをつけるとペーパーカッターはすぐ目の前にあるのが楽に見つかり、両手でそれを抱えてガシャガシャと先を急ぐ佐々木の頭にはいったいこれを何に使うのかと言う疑問は湧いてこない。

「持ってきました!」

 オフィスに舞い戻った佐々木を鬼気迫る顔つきの串田と多良崎が見た。串田は床に散乱した書類の束を口に咥えさせられ、右の二の腕に包帯を締めている。輝きは肘にまで達しようとしていて、始めほどの勢いはないが着実に串田を無に帰そうとしていた。

「けど古田さんが、古田さんが……」

「串田さん歯食いしばってください。佐々木さんは暴れないようにできるだけ手足を抑えて」

 多良崎は串田の右腕をペーパーカッターの台座に乗せた。佐々木は言われるがまま串田の両足に乗り、左腕を手で押さえた。最後に多良崎が台座の脇に斜めについた刃の取っ手を構えた。

「串田さん、いきます。カウントダウンはなしです」

 多良崎は渾身の力を込めて取っ手を振り下ろした。串田の肘から上にはまだ輝きが到達しておらず、刃が触れた生身の身体からは黒い血が溢れた。血だまりがピンク色のネオンを反射して妙に汚らしかった。ずぶずぶと肉に埋まっていった刃先はしかし骨に当たって止まった。串田は大声を上げようとしたが口に書類を詰め込まれて叶わず、代わりに行き場をなくした呼気が肺をブルブルと震わせ、串田と接触している佐々木と多良崎も一緒になって震えた。

「時間がない! 串田さん、佐々木さん、頑張ってください!」多良崎が言った。一時は刃がこれ以上降りるのかと心配した佐々木だったが、やがてごりり、と言う石同士を擦り合わせるような音がして、多良崎の手の中で刃の取っ手が台座の底まで下がり切った。ほぼ同時に断ち切った串田の右肘から先が光に包まれ、青い砂と化して消失した。

 多良崎は脇に置いた救急箱を開け、手早く止血を始めた。「大学病院で看護師をやってたことがあるんです」そう聞かされて人は見かけによらないものだな、と佐々木は思った。処置を終えた串田は意識朦朧としている様子が明らかで、「ありがとう」「すまない」とうわごとのように繰り返した。

「救急車を呼んでおきます」同じく疲労困憊の体でいた佐々木に向けて、多良崎が言った。「お疲れでしょうし、佐々木さんは先に帰ってください」

 佐々木は今こそ先輩社員としての威厳を取り戻すときだと思い、残って手伝うと申し出た。だがそれで今度は佐々木さんに過労死されてはたまらないから、と多良崎に説き伏せられすごすごと引き下がった。机上の荷物をまとめ、暗がりで倒れ伏した串田とそばについた多良崎を一瞥した佐々木は小声で「お疲れ様でした」と言ったものの、二人が聞き留めた様子もなく、自己満足だったな、と思いつつオフィスを後にした。

 外から今出てきたビルの方を振り返ると、多良崎の言う通り5Fには未だ煌々と明かりがついていた。いくつかある窓のうちの一つに人影があり、顔かたちは判然としないもののこちらを見下ろしていた。佐々木は背後にまとわりつく視線を意識しつつ、同僚の最期の名残である体についた青い砂をいささか乱暴に払いながら、疲れきった表情で駅へ向かう帰途を歩きだすのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?