「雪山賛歌」(雪よ、岩よ、われらが宿り、おれたちゃ町には住めないからに、・・・)の作詞者と成立過程 米国民謡の「Oh My Darling, Crementain」の曲に乗せた半分パクリ精神の巧みさ

西堀栄三郎さん(京大理学部化学科卒無機化学専攻、京大助教授、東芝技術本部長、京大教授、第一次南極越冬隊長、原研理事)は、1927.1頃(推定年齢36歳、京大助教授)、京大山岳部メンバーとして、群馬県吾妻郡嬬恋村(高原キャベツの生産地として有名)に宿泊し、雪で身動きできないため、遠くの山(群馬と長野の県境の四阿山)を見ながら、遊び心で、仲間といっしょに、「山岳部の歌を作ろう」と言うことになり、作詞し、それを米国民謡の「Oh My Darling, Crementain」の曲に乗せ、できたのが、誰でも知っている「雪山賛歌」(雪よ、岩よ、われらが宿り、おれたちゃ町には住めないからに、・・・)です。しばらく作詞者不明でしたが、京大教授の桑原武夫さんが、作詞者を特定し、著作権手続きを行い、京大山岳部に作詞料が入り、山岳部は、それにより、潤ったという歴史があります。
西堀さんは、東芝時代、日本を代表する歴史的技術成果を生み、高く評価され、第一次南極越冬隊長に抜擢され、その2年後、岩波新書『南極越冬記』を発表、同時に、抜擢され、原研理事を6年半務めました(1960年代半ばから後半にかけて)。成果からすれば、原子力黎明期の指導者として、最高の人材だったと思います。『南極越冬記』の内容は、飾らず、真実のみを淡々と書き進み、様々な実験をするのに、機材がないので、手に入る材料を加工し、測定器などを手づくりしたことが記され、本当に手を汚して物を仕上げた人間しか表現できないことが多く記されており、いま、読んでも、学ぶべきことの多い内容です。


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