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実は、シャワーを浴びながらいいアイデアが出たことがない話

魔女との出会い

前回、僕に気づきを与えてくれたデザイナーさんは、ロジカルに説明してくれるタイプの人だった。でも、社内を見ていると、発想の仕方が僕と全然違うんだろうな、という人も何人かいる。その人たちは、クライアントワークの多いデザイナーさんとは異なり、自分の感性をそのままビジネスにしてきた人たちだから、自分のアイデアを説明するにも、「私、こう感じたんで(ばーん)」、みたいな感じで、あんまりコッチへの歩み寄りがない。歩み寄りがないことで、余計に僕との発想の仕方が違っていそうなのがよくわかり、面白い。

彼女たちは、たとえるなら、ねるねるねるねのCMに出てくる魔女に似ている。頭の中の鍋に色んな材料を入れてグツグツ煮込んでいて、あるとき、シャワーを浴びながら、いいアイデアを思いつく。いや、もはや、シャワーを浴びる必要もないかもしれない。しかし、化学者として、どうなのかな、魔女のたとえは…

前回は、分解できる問題の形が違うかも、という話と、分解せずに解ける問題の大きさが違うかも、という考察をしたのだけど、魔女たちは、多くの問題を分解せずに解いているようにみえる。「ビビビッ」と閃いている。そして、特徴的なのが、いつかの何かの閃きに備えて、色んな材料を鍋に入れている。「なんでもインプットになるから、分かったこと全部教えて!」
と、よく言われる。
僕もソコソコ興味対象の領域は広い方だとは思うけど、それでも、解きたい問題があるから、それに沿って情報収集している色合いが強いのに対して、魔女たちは「その問題をあなたが解くのに、その関連情報も欲しいんだ」と、僕が驚くような興味の幅を持っている。

シャワーを浴びながらいいアイデアを思いついたことがない話

さて、タイトルに書いたように、これまで、ゼロからイチを生み出すことを志向している研究職に就いている中ではなかなか言い出せなかったけど、「良いアイデアは散歩中やシャワーを浴びているときのようなリラックスしたタイミングででてくる。(ただし、事前にすごくインプットしてすごく考えれば。)」っていう体験を、僕はこれまでにしたことがなかった。
一度、B4の卒論のための実験をする中で、トイレで「あ!この対照実験をすると僕の結果が際立つかもしれない!」というのを思いついたんだけど、そのアイデアを先輩に話したら「それなら、すでにこの結果で説明できているし、必要ないでしょ」と指摘されて、僕も納得して終了してしまった。しかも、思いついているのが対照実験のアイデアって、その時点でちょっとショボい。
前職の上司は、会社の代表的な反応を開発した人だったけど、そのアイデアを思いついたのは考え続けていた日の某私鉄の中だった、と言っていて、そういうアイデアを思いつく日が僕にも来るんだろうかと思ったりしていたけど、僕には来なかった。

これは、いったい何なのか

そして、僕がシャワーを浴びながらアイデアを閃かないのは、そういう閃き方を必要とする問題に取り組んでいないか、閃くだけの力がないか、閃く前に諦めているか、だと考えていた。
恐らく、それは99%くらい正しいと思う。実際のところ、僕は会社を代表するような反応を開発した訳ではないし、イノベーティブな事業構想を思いついたこともない。
魔女たちをみていると、僕にはインプットが圧倒的に足りていなかったのでは?という気もする。でも、実はここで考えたいのは、残念ながら「どうやったら(シャワーを浴びながら)イノベーティブなアイデアをおもいつけるか?」という問いではない。

シャワーを浴びながらアイデアを出せなかったからといって、僕は前職でも今でも、何のアイデアも出せない人間なのか?というと、そんなこともないと思っている。
大学を合わせれば10年くらい研究開発を楽しんだわけだし、特許もそれなりの数、出したし、我ながら、この分子設計いいじゃんと思い出すものもある。イノベーティブではないにしろ、自分が生き残るのに十分なレベルのアイデアは生み出してきた。
では、僕がどんな時にアイデアを思いつきやすいか、というと、それは、デスクについて、ノートを広げて自分の考えを文字なり図なりにしているとき。最近は、手書きだけじゃなくて、こうして、PCやスマホで文章を書いているときでも、思考が回るようになってきた。
文字や図で視覚的に捉えることが大事というよりも、多分、「書く」もしくは「描く」という行為が大事な気がする。どんなに小さくてもいいから、アクションがないと考えられないのかもしれない。もしくは、「今は考える時間だ」というのをしっかり確保するのが大事なのかもしれない。頭が、考えるモードになるためのスイッチを入れている感じ。
僕にとってアイデアとは、ビビビッと閃くもの、というより、「あー、これ繋がるなあ」と、割と遅い速度で意味をつなげていくもの、なんだろうな、と感じている。

このnoteを書けた意味

何が本題の記事なのか分からなくなってきたけど、まだ、続きます。
僕がここにきて、「シャワーを浴びながらアイデアを思いついたことがない」とnoteに書くだけの勇気を持てたのは、冒頭でご紹介した魔女と自分が「違うんだ」と実感して、そして、「別に優劣はなくて、ただ違うだけなんだ」って思えたから。適材適所、とか、役割分担、とか、そういうことなのかもしれないけど、どちらかというと、なんか、「ただ、違うだけ」。

研究職時代に、「シャワーを浴びながらアイデアを思いついたことがないんです」なんて、なんか研究者としてレベル低い感じを露呈しそうで怖かった。(自分で言わなくても、はたから見ていればいいアイデアを思いついたかどうかは一目瞭然だから、よく分からない自意識なのだけど)
僕は「みんな違ってみんないい教」の信者なのだけど、研究の世界では、「みんな違ってみんないい」を許容するだけの評価軸がなかったのかなあ、なんて思い出している。「みんな違ってみんないいって言いながら、すごい研究するやつが、すごいじゃん」と。まあ、すごい研究、のバリエーションは無数にあるのだが。

そして、次に興味を持っているのは、将来的に、今の会社に僕みたいなサイエンス寄りの人が新しく入ってきたときに、僕は、この「ただ、違うだけ」を楽しむマインドを持ち続けられるのかどうか。
いまは、いわゆる「理系」の人が少ない環境にいるから、自分の存在は周りとは際立って違うけど、自分と似たような軸で戦う人が現れたら、また、肘で相手を小突くような日々が始まってしまうのだろうか。なんか、そうはならなさそうな気がするけど、楽しみだ。

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