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popについて思うこと 安宅さんの「風の谷」構想を読んで

安宅さんの「風の谷」構想を読んで、popについての考えが深まった気がするのでブログの感想文としてnoteに書いてみる。

源さんについて

ここで、唐突ですが、考える題材は今のJ-popの帝王、星野源さん。妻が大ファン。我が家では子供たちからも「源さん」の愛称で親しまれる。僕も妻につられて源さんの曲をよく聴くし、インタビューを見ることも多い。ずっと聴いてるからもはや僕もけっこう好き。

源さんは、ここ1,2年でアイドルグループを除けば日本で最も売れている音楽アーティストの1人だと思う。僕は音楽を聴くのは好きだけど自分でやる訳ではないから、特集とかスペシャで源さんが音楽について語っていることを鵜呑みにして言うんだけど、源さんはpopの看板を掲げながら、音楽に対してマニアックでこだわっていて、多分、ものすごく「高度」な音楽を作っていると思う。

ここでもpop virusと源さんの変態さについて客観的に語られていたから、変態的なのは間違いないんだと思う。

ある1人の人が、こだわりにこだわり抜いて、しかもそのこだわりを全開にして作ったものが、日本で一番売れる、という現象を、ずっと不思議に思っていた。そんなに高い山に登ってしまったら、他の人はついてこれないじゃんと思っていた。酸素薄いしそこまで行くの疲れるし。

そんな中、安宅さんの「風の谷」構想を読んで、源さんが爆売れしていることの説明が自分の中でついた。安宅さんの提唱する「オルタナティブ」を読んで、逆に、popであるってこういうことか、と。

popとはなにか

popは語源的にはpopularの略のはずで、大衆的、とか、人気の、とかいう意味なので、最大公約数的で平均的なものが、popである、と思っていた。 ある意味では、「レベルを調整する」作業が含まれているものなのかな、と。例えるなら、エベレストに登れる人が、登山を得意としない人のために、3合目とか5合目とかに、お土産を置いていくイメージ。「ほら、ここまでだったら登れるでしょ?」と。
こう考えると、道を極めることと、多くの人に受け入れられることが、相関しないことが多くなる。つまり、5合目まで登れさえすれば誰でもお土産を置いてこれるのなら、高い山に登れる必要はないし、逆にお土産をもらう多くの人にとって高い山に登っている人に興味も持てない。

でも、源さんがやっているのは5合目にお土産を置くことではないと思った。彼がやっているのは、人が山に登ろうが登るまいが、「俺が頂上から見た景色はこんなに素晴らしかった」というのを伝えるということなんではないだろうか。これ、なんかうまく言い過ぎている気がする。多分昔どこかで偉い人が言っていたことを自分の意見として書いている気がする・・・元ネタは全く思い出せないが。ごめんなさい。

それはさておき、つまり、popであるということは、発信者のアウトプットのレベルを引き下げることに限らなくて、受け手のインプットの受信レベルを引き上げることなのではないか。とはいえ、あくまでも受け手のレベルを上げるわけではない。単に感度を上げているイメージ。

具体的にどうやると受信レベルを引き上げられるのかは、よく知らないけど、源さんは、その引き上げが上手くできていて、変態的なpopが作れて、爆売れしている、ということなのかな、と。

でも、これってケースによっては当たり前の姿勢かもしれない。プロスポーツなんてだいたいそう。お客さんはダンクできないからNBAでもダンク禁止、とかなったらつまらない。スーパープレイをすることで聴衆をひきつけて、popularになっている。

ということは、popというのは、ジャンルがどうこう、とかレベルがどうこう、じゃなくて、このメッセージは大衆=みんなに届けたいんだ、というターゲットの話なのかもしれない。

「風の谷」構想のはなし

さて、ここまで、安宅さんの「風の谷」構想と全然関係ない話だったが、ここからちょっと関係する感想文になる。

ブログ中にこんなフレーズがある。

結局のところ、僕らが目指しているのは「都市集中型の未来に対するオルタナティブ」を作ろうということなんだ

安宅さんが「オルタナティブ」と書いているのは、シンプルに「代替案」の英語訳として書いているとは思うのだけど、その根底には、モノゴトに対するスタイルも表されているのではないか、と感じた。

つまり、安宅さんのスタイルは、punkではない。僕がここでいうpunkは、「そんな山登ったってくだらねえ」とか、「辛いだろうけど俺たちがいるぜ」というような、現状に対する否定が含まれていて、体制に中指立てているイメージ。

「風の谷」構想はこれとはちょっと違う。popのときに使った登山の比喩をそのまま使うと、ひたすらに高い山を登るのもいいし、替わりに、低いけどこっちの山は紅葉が綺麗、とか、車で登ってもいいよね、とか、いっそ、海もいいよね、という話をしている。

でも、こう書いてみると、なんだか「多様な価値観を認めよう」みたいな話になっていて、なんだか薄っぺらいし、僕が「風の谷」構想を読んだ時に感じたワクワクをうまく表現できていなくて、違和感が残っている。僕は基本的には「みんな違ってみんないい教」の信者なので、多様な価値観は認めたいんだけどなんかしっくり来ていない。

違和感の正体の掘り下げ

そういえば、greendayはpoppunkというジャンルに位置付けられることがある。そして、なんならWikipediaのalternative rock bandの例にgreen dayが載っているから、greendayは、popでpunkでalternativeな存在としてあり得ている。全部内包できるんだ。(単に音楽のジャンル分けがアヤフヤなだけ問題は無視する)

考えてみると、「風の谷」構想のブログも、受け手のインプットを引き上げるために書かれている。「イシューからはじめよ」大好き人間の僕からすれば、安宅さんは一貫して、「大衆」のインプットの引き上げに力を尽くしてくれていると感じる。

上で述べたように、popが「みんな」をターゲットにしていることだとするなら、安宅さんはpopを志向していると思われる。そして日本を変えようという話をしているのに、「既存じゃないもの」という位置づけであり続けられるはずがない。

あ、そうか。popとオルタナティブは両立できるんだった。「みんな」をターゲットにしたときに、最大公約数を狙う必要はなくて、「みんな」をターゲットにしながら、各々の山に登ればいいし、海にいったっていい、というのは上にも書いたとおり。でも、そのときに、隣の山に登っている人にも、自分の山の良さを伝えられるはずだよね。そして、その良さが伝わったら最高だよね、ということなのか。

「みんな違ってみんないい教」にはすごくバラバラなイメージを持っていたけど、何らかの手段で共感はうまれるんだ。源さんくらいスーパーにならないといけないのかもしれないけど。しかし、うまくやれれば、「みんな違ってみんないい教」の信者の僕にとって、popとalternativeが共存している世界はとてもいいかもしれない、と思えた。

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