ルーツを辿る③

気が遠くなるような昔の記録。

数年前,父親の実家の蔵に曽祖父が残した書籍や手帳の類を引き取り自室の本棚にしまっていた。先日,何気なく一冊の手帳を手に取りパラパラとめくっていた。するとそのうちの1ページに紅葉の一葉が挟まっており,曽祖父のメモが残っていた。

大正拾年十壱月十九日 秋深クシテ紅葉燃ユルが如し。

約100年前のメモだった。100年前のこの日,曽祖父は日本のどこかで紅葉に触れ,そのときの感情をそのまま文字にして書き残していた。

巡り巡って,そのメモはひ孫の僕の目にとまったのだ。記憶,記録,文字,一葉の紅葉。大正という近いようで遠い時代の風景が目に浮かぶようだった。

曽祖父はその時代のいわゆるエリートだったらしい。先祖自慢になってしまうが,当時の帝国大学を卒業し日立航空機に入社。飛行機の研究をしていたらしい。何かのプロジェクトでアメリカに渡り研鑽を重ねていたが,第二次世界大戦の影響で志半ばで日本に引き戻されたと聞いている。

帰国してからは,郷里の中村に戻り,某老舗企業の立ち上げ人となった。今,その会社はもうない。

その当時,どのような思いで研究に励んでいたかは,推し量ることしかできないが,それこそ「お国のため」であったと思う。世のため人のため,ひいてはお国のため。なぜそう思うかと言うと,祖父がその当時,典型的な軍国少年であったと聞いているからだ。しかし,曽祖父と祖父との間で「お国のため」の捉え方は全く違うものであったと思う。

戦後,祖父はいわゆる左派の立場を取った。戦中と戦後は価値観が180度変わった異常な時代。祖父だけではなく,多くの戦争体験者が通った道なのではないか。根拠に乏しいが,僕の思う当時の人々の混乱に思いを馳せる。

今更,お国のためなど古いし,下手したら戦争賛美者のレッテルを張られそうだ。言ったが最後,極端な愛国者として危険視されかれない。そのような意味で,今もこの時代は極端な時代だなと実感する。そんなことだから,自分のため,自己研鑽,自分磨きとでも言っておけば角は立たない。

しかし,木っ端役人の僕としては,最初は世のため人のためという動機はわずかながらあった。多くは安定という言葉に惹かれていたということは否定できないが。国民の福祉の増進に努めることは世のため人のためと同義だ。それならば,僕は「お国のため」に働く必要がある。

安定と引き換えに,いざとなったら我が身を捨てて職務にあたらなければならない。特に高知では,南海トラフの危機が迫っている。はっきり言うと,想定通りの規模のものが来たら,危機管理という言葉では対処のしようがない。必要なのは覚悟だけなのかもしれない。

かっこいいことを言っているような気がしているが,もちろん詭弁に近いものだ。正直そのように思ってはいない。毎日そんなことを考えていたら,自分自身が危機に陥いる。でも,頭の片隅に置いておく必要はある。

結局は「お国のため」に働く境遇にある。それは行政のみならず,どのような仕事でもそうではないか。世のため人のため。インフルエンサーと言われている人たちも,よくよく観察していると自分のためとは言いながらも,行動は世のため人のためである人が多いように思う。

何の話だったか。我々一族は代々公務員である者が多い。ルーツを辿れば,望む望まないに限らず,今の僕が出来上がってしまっていることが良くわかる。では,与えられた運命の中で,僕は何ができるか。

僕も手帳に様々なことを書き残している。どうでも良いくだらないことでも。詩を書き溜めたノートも。そして今書き綴っているnoteも。子ども,孫,ひ孫と運よく続いてくれるのであれば,時を越えて僕の手帳も彼らの目に触れるかもしれない。曽祖父みたいにではなく,僕の手帳を見て,「バカな先祖がいたもんだ」と思ってくれたらこれ幸い。自分なんかまだマシだと自信をつけてくれるかもしれない。

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(*- -)(*_ _)ペコリ
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ジロー

家族と自然と弓と歌と喫茶店。妻1人子ども3人。地元高知の自然が大好き。作詞作曲なんかも少し。喫茶店は僕の大切な隠れ家。 30代に入り目まぐるしい日常を過ごす中、湧き上がる直感にロジックを与えて記録に残す。 サブの肩書 エコピープル。緑サポーター 。防災士。弓道四段。

FAITH FOR FIXING

思索の日々 思いついたこと,考え込んだこと。脳内でぐるぐる回していると気が滅入るので,とりあえず文字にしてみる。散らかった自分に言葉を与えて整理整頓。でもやっぱり散らかっている混沌と混乱・・・しないようにすこしづつ記事を積み上げていきます。解決のための信念。
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