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中先代と信濃宮、諏訪神党が支えた敗れざる者たち その①

歴史好きのあいだでも、あまり取り上げられることのなかった人物ではあるものの、北条時行という人物の存在に、なぜだか心を動かされるという歴史好きは、昔からある一定数いたのではないかと思われる。
誰あろう、私もそのうちの一人であるからである。
昨今では、漫画の主人公に取り上げられる出世があって、流行物のような感じになってしまっているけれども、潜在的な北条時行ファンがそれを後押ししているような気がしてしまう。
歴史の授業でほんの一瞬だけ取り上げられる、中先代の乱の短い説明文に、よくは知らないながらもなぜだかわくわくしてしまう自分がいた。
根がひねくれているせいか、そもそも「残党」という言葉には、とても魅力を感じてしまう。
平家残党、北条残党、尼子残党、ジオン残党なんて単語は、もはや魔性の響きである。
北条時行が匿われていたのが諏訪であったということは、信州に入り浸るようになってから知ったことであったけれども、それを知ってからあとは坂道を転げ落ちるがごとしであった。
諏訪信仰をめぐる信州旅をしている途中、まるでロシアンフックのように、死角から一発殴りつけられた気分になった。
諏訪大社・上社前宮の片隅にある、諏訪照雲頼重の供養塔の説明板の中に、中先代の乱の記述があったからである。
諏訪照雲供養塔を発見するまでは、北条時行の存在はほとんど忘れかけていたようなものだったけれども、諏訪信仰と中先代の乱、まったく予想だにしないふたつの事柄が、諏訪照雲供養塔の説明板によって明らかになったとき、北条時行と諏訪照雲は、私の中で木曽義仲に並ぶ信州のヒーローに躍り出たというわけなのである。

諏訪上社前宮 諏訪照雲供養塔

平安末期、駒王丸こと木曽次郎義仲は、諏訪にほど近い木曽の地で中原氏に匿われて育ち、平氏政権打倒の挙兵をしたが、
鎌倉末期、勝寿丸こと相模次郎時行は、諏訪神党のもとに匿われて、鎌倉幕府再興の兵を起した。
駒王丸の件といい、勝寿丸の件といい、信州には、亡国の遺児を匿って、然るのちに担ぎ上げて挙兵するという得意技でもあるのであろうか。
似たようなことが二度も三度も行われれば、これはもしや、信州のお家芸なのかとさえも思えてくる。
信州は、大義名分や旗頭といったようなものを、特に必要としていた土地柄だったのかもしれない。
木曽義仲の没落が信州に大きな空隙をもたらし、そこに御家人として入ってきた新興勢力と、かつて義仲を指示した勢力との対立の構図が、その後200年間に渡って均衡し続けたことが、信州の類稀なる歴史を形作っていったようにも思う。
信州の中で絶妙に釣り合いがとれてしまったその均衡に、なんとか揺さぶりをかけるためにも、大義名分や旗頭を探し求めるところがあったのかもしれない。
抗い続ける限り敗けることはないという、諏訪神党の凄みのような気配も感じてしまう。
そして、その均衡は、諏訪氏が、信濃村上氏・甲斐武田氏と結んで、それまで諏訪氏と歩調をともにしてきたはずの滋野三氏を敵としてしまったことで崩壊するのだが、それだけ戦国時代は権力が分散した時代だったということであろう。
戦国時代は、それまでの、御家人と御内人・北朝と南朝という括りに当てはめられる、わかりやすい二項対立の時代ではなくなってしまっていた。
村上義清・武田信虎と結んで滋野三氏を攻撃し、海野氏を滅ぼしてしまった人物が、諏訪頼重と同姓同名であったというところは、歴史の皮肉とも言えるだろう。
 
だが、諏訪照雲頼重の方は、北条時行を、決して単に利用していただけというわけではなかったようだ。
鎌倉奪還に一度は成功はしたものの、足利方の軍勢に敗れた諏訪照雲頼重たちは、北条時行を逃がすために、全員が顔の皮を削いで自決するという壮絶な討死を見せている。
諏訪大祝家の人々は、その存在を現人神とされていたものの、北条得宗家の御内人として、北条時行を主君として仰いでいた様子である。
照雲頼重と嫡子・時継は、時行を逃がすために自決するわけであるが、嫡孫・頼継(直頼)もまた、後年、時行の大徳王寺城での挙兵に駆け付けた。
祖父と父とが顔の顔を削いでまで逃がした、北条時行のもとに参じた諏訪頼継。その思いは計り知れない。
ちなみに、戦国時代、諏訪氏総領の座を巡って、諏訪頼重と、杖突峠を挟んで干戈を交えた人物の名を高遠頼継というが、この紛らわしさはなんとかならないものだろうかと思う。
諏訪神党もまた、諏訪大祝家とともに中先代の乱を戦い、その後も北条時行と同じく南朝方の将として戦っていた。
時行を奉ずる軍勢には、上社大祝家である諏訪氏のほかにも、下社大祝家の金刺氏や、諏訪神党である滋野三氏もまた従っていたのであった。
海野氏では、海野幸康が、北条時行の最期の合戦となった武蔵野合戦をともに戦っている。
望月氏では、望月重隆が、尊氏方の小笠原氏との戦いにおいて、居城・望月城の落城と奪還を繰り返している。
祢津氏では、足利本陣に突入したという逸話の残る祢津行貞と、宗良親王を補佐して南朝の軍勢を指揮したとされる祢津宗貞の名が窺える。
また、滋野氏傍流としては、後述する香坂氏の存在も忘れてはならないであろう。

大徳王寺城址比定地の説明板

北条時行は、打倒足利尊氏に燃えて、南朝方とも足利直義とも時には手を組み、挙兵は四度、鎌倉奪還は三度、そして敗走は四度。
北条時行の都合四度の挙兵には、だいたい相棒となる個性的な味方が存在していた。
中先代の乱では、北条時行を諏訪の地に匿い、世に送り出す役割を担った諏訪照雲頼重、
南朝に身を寄せてからは、北畠顕家の軍に従い、青野原の戦い・粟津の戦いを潜り抜ける。
大徳王寺城における挙兵では、照雲の孫・諏訪頼継(直頼)が時行の元に馳せ参じ、
最後の相棒となったのは、武蔵野合戦での宗良親王である。
宗良親王は、時行亡きあとにも信濃宮として信州南朝方を支え続けることになる人物である。
武蔵野合戦での敗戦のあと、姿をくらましていた時行であったが、足利方に捕らえられ、ついにその反抗の生涯は終焉を迎える。
人生を一族の滅亡からスタートし、逃走と潜伏を繰り返し、決して城を枕の討ち死にはせず、不死鳥のように何度も立ち上がってきた男の、儚き最期であった。

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