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インポッシブル・アーキテクチャー

この展覧会の「実現」を心待ちにしていた。

建築が実現できない理由(おもに社会的要因)を挙げればきりがないが、及ばなかったこととして、技術や予算に加えて、「理解」というのがかなりの比重を占めることは言うまでもない。コンペというのは一見フェアに見えるが相当曲者で、公共建築に関しては、強引にでもトップダウンで(センスあり癒着なし、が望ましい。残念ながら逆が多すぎだが)作ってしまうほうが 下手に「多数派」 に流されるより良いものが出来ると思っている。ザハ・ハディドのオリンピックスタジアムに関しては、挑戦的な選択をしたにも関わらず(そして実現の段階まで到達していたというのに)、結果として無責任な「民意」を前面に出しながら政治力に屈してしまったことは失策(失笑)に留まらず、日本建築界にとっての計り知れない損失となった。新しい技術への挑戦とそれを全世界にアピールする絶好の機会も、ザハの遺作が東京に残ることも、永久に失われた。その愚行に対して、この企画の根底を貫く美術館としての強い意思表明が読み取れたことにはひとつの大きな意義を感じた。

ザハ・ハディドの建築が長らくアンビルトであったのは、思想が技術の遥か先を行っていたからだ。ここにきてようやく技術が追いついただけの話で、リベスキンドやコールハースたちはある意味間に合った世代。展覧会前半の計画案たちは、ある意味「間に合わなかった」とも言える。磯崎新のように「敢えてアンビルト」案で社会に問題提起するという要素も多分にあるが。

会田誠と山口晃をこのテーマにおいて出品することにも唐突さはなく、この建築展を公立美術館で開催する意味と主催者の意図が十分感じられて良かった。というかこの二人の合作、「プラン」としても「作品」としても最高傑作というしかない。アートっていうのは一体どの段階で「実現した」となるのだろうか。

白井晟一の「原爆堂」が出品中止となったのは印象的である。「実現の可能性を捨てない」ために出品が「インポッシブル」となったとのこと。実に重要なことを示唆している。

埼玉県立近代美術館の建築も黒川紀章だが、あのカプセルタワー一室の完全レプリカ(同スケール)が敷地内の公園に存在する。こんな建築があの時代に実現されたことこそが現代の感覚では驚愕というしかない。「実現されてしまった」これ、果たして今後どうなるのだろうか。

インポッシブル・アーキテクチャー   もうひとつの建築史 :埼玉県立近代美術館  会期:2019年2月2日〜3月24日


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