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骨董市

一か月前、富岡八幡宮の骨董市に行った。東京に来ていた母が行きたいというので同行したのだが、予想以上に楽しく随分と長居してしまった。そこでなんとなく梅の柄の皿(冒頭の写真)を一枚買った。

似たような染付がずらり並んでる中だと気づかないのだが、家に帰って見れば見るほど良い。イッタラみたいな無機質でシンプルな洋食器と並ぶと際立つ。かといって小鹿田焼きややちむんのぼってりとした温もりの横でも引けを取らない。印判だし、凄く古いとか所謂一般的な価値がある訳ではない400円の安皿だが(だからこそ)、あーなんで一枚しか買わなかったんだ!? 姉(趣味:窯元巡り)がいつも言っていたじゃないか「皿は二枚買え」と。

ということで再び出かけた第二日曜日。こういうのはスタート勝負だと(目利きは朝6時くらいから現れるそうな)知っていながら不覚にも午前10時、お参りを済ませて例の店に向かうも、あの梅の皿は朝早く五枚まとめて売れてしまったとのこと。やはり…と落胆するわたしに「一枚、張り付きがあって売り物にならなかったのがあるのであげますよ」(鑢で削ると良い)と包んでくれるおじさん。感謝とともに微塵唐草の猪口を二つ購入(800円→600円)。

今に始まったことではないが、モノを買う、という行為そのものが、大きな転換期にあると実感する。世の中にはモノが溢れかえっていて、一方でモノを所有するだけではもはや満足感は得られないと「断捨離」がブームとなり、それでも「作る→売る」「買う→捨てる→買う」に依存したサイクルに終わりは見えず(見えてるんだけど本当は)、経済状況も激変する中で、どう考えても「健全じゃない価格」が罷り通る現実を「安くて便利」だからと享受し続けることは、単にその裏側で起きている惨状から目を背けているに過ぎない。かといって「すべての手仕事」に「正当な価格」が付けられているかというと、うーむ。そもそも「正当な価格」ってなんだ?

…と思考は堂々巡りつつ、「誰かにとってのゴミは他の誰かにとっての宝」ということも、付加価値という意味でこれからのキーワードとなってなっていくのだろうなと。とにかく骨董市はいろんな意味で面白い。

本日の買い物。豆皿が欲しかったので、この蛸唐草はまさに探していたもので嬉しい。… あれっ!?またしても一枚しか買ってないじゃないか…!(また来月…)

(本日の一冊) 『値段と価値』ラジ・パテル (作品社 2019)

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