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宝のありかに足跡なんかない

MAIDO beingで、野中郁次郎先生の記事をシェアした。

中に暗黙知、形式知というワードがあり、どこかで読んだよなあ、と思ってた。
自分の著作だった。

それにしてもMAIDO塾生たち、「初めて聞く言葉です」って・・・・講師の著作、読んでないんかいっ!(笑)

知には「明の知」「暗の知」「黙の知」がある。

「明の知」というのは、言葉や文字、数値、図表などによって明示できる。SNSで交わされるメッセージやコメント、あるいはインスタ投稿、You Tube動画などはすべて明の知だ。データベースもこれに入る。
テレワークで動かしているのはすべて「明の知」と言って良い。ZOOM画面越しに飛び交う。

「暗の知」は言語化できないが確実に人の身体に入っている知だ。伝えにくい。

ただ、仕事の現場でナマに人と人が交流するとき、「なんとなく」伝わっていたりする。製造現場で、「そこんとこのいい具合」という「いい具合」が暗の知。テレワークでは存在し得ない。

あるいは、「二日酔いだからそっとしておきましょう」と今朝、うちの奥さんのぼくへの態度などは確実に暗の知だ。

「黙の知」は、黙ってそこに置いてある知。暗の知の更に奥にある。会社でいうと、企業文化とか、風土とか、集団に属する知のこと。

料理を例に取ってみよう。

ぼくが名シェフから料理の手ほどきを受けるとする。シェフがレシピを紙に書いてくれた。レシピは「明の知」だ。visible、目に見える。言葉にして、人に伝えることができる。そして、シェフがこうするんだと料理してみせてくれた。これは「暗の知」だ。シェフ個人の身体の中にある知であって、ぼくには転換不可能だ。invisible。見えない。言葉にできない。

料理人の「修行」というのは、師匠であるシェフの「明の知」と「暗の知」とのやり取りを時間かけて重ねてゆくことで、シェフの身体内にある「暗の知」を「明の知」へと転換していくプロセスといえる。

では、「料理の腕」とは一体何だろうか。
「暗の知」だけではなく、シェフがこれまでの人生を歩んで蓄積してきた「黙の知」が滲み出てきたものだ。だから、同じ食材を使って、同じレシピで調理しても、ぼくの料理とシェフの料理の味が違って当たり前なのである。

世の中、明の知だらけ。

チェーンレストランではセントラルキッチンであらかじめ切ったり焼いたり調理したものが急速冷凍され、各店へ運ばれる。店のキッチンには人が一人。電子レンジでチンしたものを皿に盛る。暗黙知なんてものはそこには存在しない。

客も、明だけを味わう。

スーパーやコンビニで客との交流する場はゼロ。レジすら、「自分で精算せい」と、突き放す。セルフレジは明の知のみだ。「創意工夫」して暗黙知で操作してみたりすると、エラーが出て、いつまでたっても精算できない。

社会から「味わい」が消えた。生きづらさが増えているのは、これが原因だろう。

宝のありかに足跡なんかない

素敵な歌詞だ。
明の知だらけの世界では、みんな足跡ばかり探す。足跡というのは明だから。

暗黙知こそが、求められる。

MAIDO being昨日の土曜日コースに参加してくれた塾生たちの姿勢が、「足跡のない場所を切り拓く」もので、とっても気持ち良かった。

あまりの気持ちの良さに、つい懇親会で飲み過ぎ、本日二日酔いであります(笑)

でも、気持ちは快晴です。ありがとう。みんな。

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