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#248 「関ヶ原の戦いには実は本当の裏切り者がいる」

2月7日 水曜日
皆様、こんばんは、mizumayuukiです。

本日もpodcastの配信が遅くなってしまいました。
昨日の最後にもお話させていただきましたが、岐阜県の関ヶ原という地にやってきております。
この関ヶ原とは、小学生の社会の授業で習った、関ヶ原の戦いの地なんです。
名前の通りですけど、関ヶ原に来た感想としては、入って来た瞬間に関ヶ原の戦いの跡地がいっぱいあります。
一般の方が知っている情報としては、小早川氏の裏切りによって石田軍が敗れ、徳川家が勝利したとされています。
しかし、実は本当の裏切り者がいたとされています。
小早川氏自身も裏切る決断を最後まで迷い続けていて、最終的に判断をするキッカケを作ったある武将がいたんです。
関ヶ原の戦いがあった年は1600年(慶長5)9月15日です。
1598年に豊臣秀吉の死後に台頭する徳川家康に対して石田三成は密かに家康の排除を目論みます。
このタイミングで会津の上杉景勝(かげかつ)の謀反(むほん)が報じられ家康は討伐の為に大阪城を出陣していました。
三成は、この家康の不在を狙って蹶起(けっき)し、全国の大名に参加を呼びかけます。
これが後に起こる天下分け目の戦いへと発展します。
ちなみに関ヶ原の戦いは、現在に至るまで日本史上最大の野戦と言われています。
関ヶ原の場所は冒頭にお話せて頂いた岐阜と滋賀の山間になります。
現在では東海道新幹線や東名高速道路などが通っている道で、古くは、北國街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わる関所が置かれていました。
戦いには、徳川家康軍率いる東軍、主に東軍の大名を中心に豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長成(ながしげ)など含む総勢7万4000人
西軍に石田三成率いる、西國の大名が中心で宇喜田秀家、小西行長、小早川秀秋の総勢8万2000人、ちなみに西軍の名目上である総大将は、三成ではなく毛利輝元(てるもと)です。
一説では、剣豪の宮本武蔵が西軍の宇喜田家勢の一兵士として戦ったという逸話もありますが、事実かどうかはわかりません。
三成による巧妙な采配によって合戦当日は西軍が有利に布陣します。これによって家康率いる東軍に周囲を囲まれる苦しい戦いを余儀なくされます。
しかし、西軍には家康に内応して戦闘に加わらない大名も多く、やがてよく知られる小早川秀秋の裏切りによって均衡(きんこう)が破られると、わずか1日で東軍の勝利に終わります。
こちらも一説によると半日で終わったとも言われています。
西軍を裏切った小早川氏とはどんな実物かと言うと、秀吉の妻である、おね、の兄、木下家の五男です。
幼時に子供に恵まれなかった秀吉の養子となり、周囲からは後継者と見られていました。
しかし、秀吉に実子、秀頼が誕生したため、毛利家と同族である名門、小早川家の養子となって、その家督(かとく)を継ぎました。関ヶ原の戦い、当時彼は19歳の若さでした。
小早川氏は家康にも恩があったとされて、小早川家の当主となった秀秋は、秀吉の晩年、筑前・筑後33万石から越前12万石へと転封されて失意に暮れます。これを救ったとれているのが家康です。秀吉の死後、家康のとりなしによって彼は再び筑前・筑後の旧領を取り戻したんです。
なぜ西軍への裏切りを躊躇したのか、それは石田三成が提示した好条件に心が揺れ動いたからです。
秀頼はまだ幼く、三成は彼が成長するまでの期間、秀秋に関白就任を約束し、秀吉の緑者でありながら、秀頼の誕生後不遇だった秀秋には非常に魅力的な好条件に感じられたんでしょう。
そして、なぜ最終的に裏切ったのか
戦いの趨勢が東軍に有利と見たからです。
家康は戦いの途中に自らの本陣をより前線に近い場所へと前線させ、これを見た秀秋が、戦局は東軍優勢と判断して西軍への裏切りを決断されたと考えられています。
いやーたまたま岐阜の関ヶ原に行って関ヶ原の戦いについて調べ出したのですが、歴史っておもしろいですね。
子供の頃から、今の私みたいにいろんな事に対して好奇心があれば。。。。と心から思います。
まだまだ話は長くなりますので後日お話しさせていただきます。
それでは、また明日。


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