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君の想い出を、噛み締めてるだけ

あの頃ずっと頭に描いた夢も 大人になるほど時効になっていく


先日、とある離島に一泊二日でひとり旅に出かけた。フェリーで片道2時間、人口800人ほどの島だ。信号は島に1つだけあった。

それは徒歩での島の散策をひと通り終えて、海岸沿いの集落を歩いている夕暮れ時。5時を知らせる牧歌的なメロディが島に鳴り響いた、その数分後のことだった。

後ろから2台の自転車に乗る女子学生が近づいて来た。島に高校は無いので、おそらく中学生だろう。

今思い返すと、休日だったはずなのに運動ジャージのようなものを着ていたのはなぜだろう。部活帰りだったのだろうか。

しかしそんなことは全く頭に入らなかった。

正確に言うと、わざわざ振り返ったわけではないので、女学生2人組だと認識したのは彼女らが僕を追い抜いてからのことだ。しかしその前から自転車が来ると分かっていたのは、音が聞こえたからだ。

聞き覚えのある音楽が、なっていた。

はじめはそんな偶然が、そんな都合のいいことがあるわけがないと思った。

でも、彼女らが迫ってくるほど、スマートフォンという現代的な音源が近くに来れば来るほど、それが自分の思い違いでも妄想でもないことが疑いえなくなっていった。

彼女らがその曲を口ずさみながら僕の横を通り過ぎるのと、僕が確信に至るのは同時だった。


追いつけないまま大人になって 君のポケットに夜が咲く


僕は夕焼けに呑み込まれそうな海沿いの道で、「ただ君に晴れ」を口ずさみながら自転車を漕いでゆく2人の後ろ姿を、呆然として見つめていた。


この “体験” を、僕は時間をおいて2通りの受け止め方をした。

まず、言うまでもなく、僕はそのエモさにそれはもう仰天した。天を仰いだ。

小さな離島、夕暮れ時、すぐそこに海の見える道、自転車に乗った部活帰りの女子中学生2人組が、スマホのスピーカーで「ただ君に晴れ」(しかもちょうどサビ)を流して自分を追い抜いてゆく。

こんなにも “ナブナ的な” シチュエーションがあっただろうか。あまりにも出来すぎていて、周りの道から「はいカットー!今の良かったよ!」と大声で叫ぶ髭面の監督が出てこないかと疑ったほどだった。でも、彼女らは角を曲がって見えなくなるまで、ずっと口ずさみながら自転車を漕いでいった。なにかの撮影でも、ドッキリでもなかった。

あまりにもエモを過剰摂取したために、それから数分間というもの、僕の顔は他人に見せられるものではなかっただろう。興奮して、顔がほころぶのが抑えきれなかった。側から見たら完全に変質者だ。

それから急いで背負っていたリュックからイヤホンを出して、「ただ君に晴れ」を聞いて余韻に浸ったのは言うまでもない。そういえばこの曲が投稿された時も、僕は別の離島にいて、次の日ずっとリピートしながら島を歩いたなぁ、などと思い出しながら。

第一ヨルシカがこんな旅先で思いも寄らぬ形で聴ける時点でエモいのに、その上その選曲が「ただ君に晴れ」だった、というのも出来すぎている。

この曲のミュージックビデオは、ナブナとしてもヨルシカとしても、ナブナの書く詞に出て来るような田舎の実写風景を初めて全面的に取り上げた作品だ。(そのロケ地となった富山県雨晴に今年の夏訪れていたのも運命的だ)

たしかにこの離島と雨晴は別の場所だ。しかしある意味では、あのMVで映し出されていた風景は、間違いなく彼女たちの生活する、この島の風景に他ならない。僕にとっては非日常で、彼女らにとっては日常であるこの風景に他ならない。

自転車を漕いで「ただ君に晴れ」を聴きながら、彼女たちは何を考えているのだろう、と思った。MVでは、田舎の風景と、都会の夜の風景が断続的に入れ替わる。いつかこの島を出て、あそこに描き出される都会へ行ってみたいーーそう彼女たちが思いながらこの曲を聴いているのだろう、と想像するのは、どこまでも僕の身勝手で一方向的な行為でしかない。彼女らと自分との間の断絶は、いま遠ざかって広がるその距離以上に、耐えがたく大きい。

僕はこのようにも思った。

ヨルシカが、2ndアルバムを発表してから更にyoutubeで人気になっていることは、これまでも知っているつもりだった。何千万再生の大ヒット曲がいくつもあることを知っていた。しかしその一方で、あの、 “僕たちのナブナさん” がそこまで世間に名を馳せているということに、半ば実感が伴っていなかった。

しかし、「ヨルシカは有名アーティストである」という事実を、今回の事件で一気に実感を伴って理解した。

youtube上の数字ではなく、日本の端っこの、小さな島で暮らす中学生が部活帰りに自転車を漕ぎながら聴いているというその事実のほうが、明らかに大きな意味を持っていた。

それと同時に、「ヨルシカを聞くべきは、まさしくこんな片田舎の青春真っ盛りの中高生だよなぁ」という思いが、自然とこみ上げてきた。

ここから、僕のなかでこの体験が、違った意味を持ち始める。

これはもちろん、「片田舎の中高生以外はヨルシカを聴いてはいけない」ということでは断じてない。「ヨルシカの良さが本当の意味で分かるのは、中高生だけ」ということでもない。

ないのだけれど、それとは別の次元、別の位相で、やはりヨルシカを真に享受するべきは、彼女らしかいないという思いが頭にこびりついて離れない。これは理屈でもなければ正論でもない。ある種の啓示といっていいかもしれない。

ただ、僕にこの啓示が降りてきた発端、というか伏線は、もっと前からあったのだと思う。


ここはどこまでも正直に書いていい場所であると信じているから、どこまでも正直に書く。


僕はここ最近、ヨルシカに対して、ナブナに対して、以前持っていたような有無を言わさぬ情熱、 “好き” という気持ちが持てなくなっていた。


何か特定のきっかけがあったわけではない。2ndアルバムの頃はまだ、すぐに長いレビューを書くほどの情熱があったと思う。でも、なぜだか、次第に自分のなかのそれが少しずつしぼんでいることに薄々は気づいていた。

「はっ、どうせヨルシカがどんどん有名になっていくことに『自分のそばから離れてゆくような気がして寂しい〜』とかいうよくあるヤツだろその程度なら元々本当のファンじゃなかったってことだ勘違い野郎乙」

そうではない、と信じたい。

僕の心がヨルシカから離れていっているのは、彼らの世間的な知名度、売り上げといった外面的なことよりも、むしろ彼らの作るもの、内面的なことに寄ると思う。

ナブナはボカロ曲の頃からずっと、思春期の若者に刺さるような繊細で美しい詞を書いてきた。1,2年前にそれに関する数万字の文章を同人誌で出したほどだ、僕は彼の書く詞や曲の良さを、まさしく思春期の若者として享受してきたつもりだ。

いつからだろう、「またこんな感じの詞か」と、彼の綴る閉塞的な小宇宙に成長を感じられなくなったのは。

今まさしく彼の作品の魅力を全身で享受しているものたちは、「ナブナさんの詞のどこが成長していないんだ、お前はよく読んでないだけだ」と言うかもしれないし、それは正しいのかもしれない。僕が、独りよがりに思い込んでいて、その良さを汲み取れていないのかもしれない。

少し冷静になって、彼の作品の良さが分からなくなった原因を考えると、そのうちのひとつとして「文学を読むようになった」ことが挙げられる気がする。

ナブナの詞は文学的だと昔から今まで言われ続けているし、僕自身もそう強く主張してきた。

ただ、その文学性は、あくまで「他のボカロ曲に比べたら」の話であって、実際の文学作品と比肩したときに見劣りをしないかと言われると、それはまた別の話であると思う。

少しではあるが文学に触れ始めたここ数年で、僕の文学性への基準が無意識のうちに上がってしまったのかもしれない。

あるいは、いつまでも若者の共感を得やすい鬱屈した青春のメッセージを綴り続けているナブナに違和感を感じ始めているのは、僕のほうが何らかの意味で成長、変容して、彼らの “メインターゲット” から外れただけかもしれない。というか、これがおそらくもっとも単純かつ妥当な答えだと思う。

もっとも単純な答えを最後まで言わなかったのは、言いたくなかったからだ。

僕は、ナブナの曲に手を引かれて、ボカロを好きになったと言ってよい。高3のあの頃、学校が終わって、近所の神社の境内で、ずっと「夜明けと蛍」を聞いていた。休日、かつて自分の通っていた小学校のグラウンドを横目に「始発とカフカ」を聞きながら歩いた。住んでいる地区を流れるそれほど綺麗でない川沿いを歩きながら「メリュー」を口ずさんだ。

ナブナが、彼の描く世界が、大好きだった。

大好きだったのかな。

今は、違うのかな。

怖い。認めるのが怖い。自分が、もう彼の作る物語について行けないと認めるのが怖い。それとも追い越したのか?認めたくない。怖い。いやだ。

まだ、ずっと、ずっと僕はナブナさんの音楽が好きだと、思っていたのになぁ。思ってすらなかった。疑う余地がないほどに信じきっていたから。

悲しい。とても悲しい。

あの頃持っていた感情は、あの女子中学生らが今まさに持っていて今の僕にない、大きな大きな “好き” は、どこに行っちゃったんだろうな。

もう自分の番は終わりなのかな。遠ざかっていく彼女らの背中に昔の自分の情熱を託して、「次は君たちの番だよ」って、それではいおしまい。なのかな

そんなこと出来るわけない。まだ、ずっと僕も、自分の番でいたい。いたいよ。

“好き” じゃなきゃだめなのかな、好きは他人の好きと繋がって、この世界を豊かにしていくけど、好きを言い続ける人のところに人は集まるけど、僕だってそういう人の近くで生きたいけど、でも、それじゃあ好きを持てなくなった人はどうすればいいのかな。このかつて “好き” だったはずの、今はもうよく分からないものを抱えて、これから僕はどこに行けばいいのかな


分からない


もう、彼女らはずっと遠くに行ってしまって、見えない




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