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ぼくがいちばん好きなボカロ曲について語れるすべてのこと

或いはぼくが最初に好きになったボカロ曲について語れるほんの少しのこと




3年前、10月末。当時高校3年生だったぼくは、およそ18年生きてきて、最悪の精神状態で過ごしていた。

その年の春に大きな決断をして、親と担任の先生を説得し、あとはいよいよ自分が頑張るだけ、という段階に差し掛かった夏、ぼくは自分がしようとしていることと、自分にできることの間にある耐えがたい差に戸惑い、焦り、そして緩やかに全てを諦めた。

自分をひたすら責め続けて夏休みが終わり、担任に諦めの旨を伝えたころには、ぼくはもう自分という存在に我慢がならなかった。毎晩ベッドで布団をかぶり、目が覚めたらまた新しい1日が始まることをひたすらに呪った。

文面にすると大袈裟かもしれないが、その頃の自分に起こったことを最も的確に、端的に表す言葉は「緩やかな死」に尽きると3年経った今でも思う。ぼくはそれまでの自分を構成していた信念や価値観をひとつづつ丁寧に叩き壊し、自分の首を大切に締め上げていった。 “それまで”のぼくはこうした行為によって、夕焼け空がいつのまにか夜空に占領されてゆくように、死に絶えていった。

この曲に出会ったのはそんな頃だった。

それまでいわゆるオタク的な文化、コンテンツを毛嫌いしていたぼくは、この時期までニコニコ動画のアカウントを持っていなかった。これまでYouTubeしか触れていなかったぼくにとって、コメントが右から左に絶え間なく流れるその動画サイトは、目新しく魅力的に見えたが、それと同時に自分などは立ち入っていけないような猥雑さを感じた。

しばらくは上手くニコニコ動画を楽しむ方法が分からず、どちらかというと生放送の歌枠を彷徨っていた。そんなある日、ランキングの上位にある新着動画に目が留まった。「ニコニコ動画摩天楼」という、ニコニコ動画で流行した曲をメドレーにしたシリーズの新作だった。

アカウントを作ってまだ数週間だったぼくは、そのメドレーで次から次へと流れる「有名曲」を1つも分からなかったと思う。それでも、ひっきりなしに過ぎ去るコメントから、この動画サイトには脈々と受け継がれてきた伝統があることを感じ取った。こうしたメドレーに使われる曲はどれも、そうした伝統の確かな一部を成すものであり、自分がこの動画サイトを本当に楽しむにはある程度その文脈を知る必要があると感じた。

そんな中、十数分ものメドレーが終わろうかというときに流れたその曲だけは、コメントの雰囲気が明らかに違った。多くの視聴者が知らない、「伝統」としてまだ十分根付いていない曲のようだった。そのような曲を、よりによって動画のほぼ最後に持ってきたことに関して、多くの否定的なコメントが並んでいた。しかし、だからこそぼくはその曲に興味が湧いた。この曲からだったら、長くこのサイトを利用する人たちと同じ地点から楽しみ始めることができると思った。こうして画面下部に書かれていた曲名から、その元動画に渡った。

以上が、ぼくの「アスノヨゾラ哨戒班」との出会いである。


初めてこの曲を聴いたときの感想はもう覚えていない。ただ、「摩天楼から」というコメントで動画の始めの方が埋まっていたことから、自分と同じような経緯の人がたくさんいるんだな、と思った記憶はある。

それでも、数千ものボカロ曲を聴いてきた今日まで、自分にとってこの曲が特別な存在であり続けているということは、一聴してある程度心に響いたということなのだろう。正直なところ、まだボカロの声に慣れていないときは、歌い手のカバーをより頻繁に聴いていた。初めは「めっちゃ良い曲なのに、このボカロの声だけがなぁ…」と思ったものだった。しかし数週間すると機械によるボーカルにも慣れ、原曲を主に親しむようになった。

この3分弱の曲のどこが好きなのか、それは到底自分には計り知れないが、断片的な理由をすくい取ることはできる。

まず、冒頭の歌詞に当時の自分が強く共感したことは挙げられる。

「気分次第です僕は、敵を選んで戦う少年。叶えたい未来も無くって、夢に描かれるのを待ってた。そのくせ未来が怖くて、明日を嫌って、過去に願って、もうどうしようもなくなって叫ぶんだ、明日よ、明日よ、もう来ないでよって」

ぼくのことを歌っている、と思った。多分、この曲に魅力された人たちの少なくない割合が同じことを感じたと思う。でも、この曲に出会った当時のぼくにとってそんなことはどうでもよかった。この世界の中でこの曲だけが、自分を分かってくれている、寄り添っていてくれる、と思った。

心の底から明日が来るのが怖かった夜、こっそりベッドを抜け自室を出て、家の屋根に登ってイヤホンでこの曲を聴きながら星を見た。昔から親しんできた冬の星座たちも、この曲を聴きながらでは全く違った輝きを見せてくれた。今思えば笑ってしまうような話だけれど、たしかにあの時の自分は切実な気持ちに駆られてこうした行動をとっていた。こうするしかなかった。

歌詞はこのように続く。

「そんな僕を置いて、月は沈み日は登る。けどその夜は違ったんだ。君が、僕の手を」

冒頭部からすっかり歌詞中の「僕」に自己投影していたぼくは、ここからサビへの一連の歌詞に失望していた。いくら明日が来ないでと叫んでも、ぼくのもとには「君」は来ない。所詮この詞は都合よく救われる夢物語だ、と。

「夢で終わってしまうのならば、昨日を変えさせて、なんて言わないから、また明日も君とこうやって笑わせて」

夜が明けて、絶望感を湛えて学校へ向かいながらぼくは、この曲の「僕」はなんて羨ましいのだろう、自分とは何が違うのだろう、と祈りに似た羨望で頭の中をいっぱいにしていた。

「あれから未来は変わったって、本気で思ったって、期待したって変えようとしたって、未来は残酷で。それでもいつだって君と見ていた世界は本当に綺麗だった。忘れてないさ、思い出せるように仕舞ってるの」


数日後、ぼくは衝撃的な事実を知った。この曲を作った人は、自分とまさに同い年の青年だった。それだけではない。彼が一時的に住んでいるという海外の国は、奇しくも自分が決断し、諦めたその地に他ならなかった。

運命だと思った。顔も名前も知らないその人は、地球上の全ての人間のなかで、この瞬間もっとも自分に近く、もっとも遠い人に思えた。ぼくは彼を崇拝し、妬み、呪い、愛した。どうしようもなく執着した。同じ世界に、ぼくの望む全てを持っている彼と、自分の何もかもが嫌いでたまらないぼくが同時に存在していることに我慢がならなかった。ぼくと彼との、太平洋を隔てた物理的な距離以上の距離が耐えがたかった。

そうして、その空白を埋めるかのように、自らをもっと傷つけるかのように、ぼくはこの曲を聴き続け、ますます好きになっていった。もはや、この曲なしにぼくの生活は形を成し得なかった。

「願ったんなら叶えてしまえや って、君は言って」

この詞を反芻するたびに、ぼくは救われたような気持ちになり、また身勝手にも救われた気になっている自分に嫌気がさす。自分の夢、それまでの自分そのものとさえ思っていた「願い」を失った先で、ぼくはこの曲に出会った。

この曲以外にも、数えきれないほど多くの好きだと胸を張れるボカロ曲に出会ってきた。この先も大好きな曲に数多く出会うだろう。それでも、これら多くの「好き」の始まりにはこの曲がある。

「最初に好きになった曲だからいつまでも特別な存在にしているだけ、本当に1番好きなわけではない」と言われれば、その通りのような気がするし、そうではないような気もする。ぼくは出会った頃も、数年経った今でも、この曲についてよく分かっていない。

歌詞の意味についても、後から聞いた話によるとこの曲は、彼が海外へ渡るときに、日本の友人との別れを謳ったものであるようだ。自分に絶望した人間の救いの歌ではない。

それでも、やっぱりぼくはこの曲がたまらなく好きだ。どんなにこの曲が多くの人に聞かれようとも、ぼくとこの曲の出会いはぼくだけのものだ。

あのような精神状態でなければ、特にいい曲とも思わなかったかもしれない。ボカロには別の曲から出会ったかもしれないし、ボカロとは無縁の人生を送ることになっていたかもしれない。

それでも、やっぱりぼくはこの曲が好きだ。どんな出会い方だろうと、この曲とこのような出会いをしたぼくの過去は変わらない。いつか思い出すための今日の日は、この曲に出会って好きになった日から地続きの一日だ。

ぼくはこの曲の音楽的な魅力について、語るべき言葉を持たない。この曲のコード進行も知らないし、何の楽器が使われているのか、そもそも初めは打ち込みという概念すら知らなかった。一般的な音楽に比べて、この曲のMIXと呼ばれる面の質が極めて低いことも全く知らなかったし、安物のイヤホンまたはスマホの内臓スピーカーで聞いていたぼくは、言われるまでそのことにずっと気がつかなかっただろう。

それでも、やっぱりぼくはこの曲が大好きだ。この曲の歌詞が、この曲のメロディが、音が、映像が、作者が、この曲がぼくにもたらしてくれた全ての出会いが好きだ。この曲が好きな自分が好きだ。

自分なんて無くなればいいと思っていた自分をこんなにも救ってくれたこの曲が好きだ。

これからも、ずっと。





以上が、ぼくのいちばん好きなボカロ曲「アスノヨゾラ哨戒班」について語れる全てのことである。


あなたの好きなボカロ曲も教えてほしい。ある人のように、自分の「好き」の理由をこれでもかってくらい分析して語ってくれてもいい。それが難しくても、自分がその曲を聴いたときに感じることなんかを少しでも書き留めてくれたらいい。「好き」に理由を求めない人は、ぼくのようにその曲との出会いを語ってくれてもいい。楽器やダンスができる人なら、語らなくたって自分の好きを表現できるかもしれない。

好きな曲への向き合いかたは人それぞれでいい。ぼくは、その十人十色な「好き」を知りたいし、見たいし、聞きたいし、読みたいし、感じたい。昨年、Andedさんが始めてくれたここ、 #vocanote は、そのための大切な場所のひとつだと思う。


それではまた。



かくしか



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