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アニメ『けいおん!』(2009) をようやく観た



原作未読

3年前に8話くらいまで見て中断していた。決してつまらなかったわけではないが、めっちゃ面白くもなかったので。
それ以降も、流石に青春アニメ好きとしてはやく観なきゃな~~とは思っていたものの、食指が動かずズルズルとここまで……

そんな自分が満を持して『けいおん!』を観るきっかけになってくれたのは、一言でいえば『ぼっち・ざ・ろっく!』の存在だ。

とはいっても、当方まだ『ぼざろ』も最初の2話しか観ていない。最初の1話が放映/配信開始されたときに観て、あんまり自分好みじゃないなぁと思って放置しているうちに、あれよあれよと覇権アニメ、あるいはアニメ史(&音楽史?)を変えるほどの超話題作になっていて、ここで私の逆張り癖が発動し、いっさい観る気が失せてしまったためだ。

したがって、「逆に」『ぼざろ』全盛期のいま敢えて『けいおん』を初めて完走するのはどうだろう?というしょーもない方向性のモチベが次第に湧き上がっていた。

ただし、この度の『けいおん』視聴へと自分を駆り立てた直接の原因は、以下のオタク達によるアニメ感想会アーカイブを聴いたことである。

この30分くらいから『ぼざろ』の感想を4人のオタクが語り合っていて、そこで『けいおん』との違いについて、両作のバンドの元ネタ(アジカン/P-MODEL)の話や国内ロック史の二大潮流(はっぴぃえんど~アジカン/内田裕也〜ミッシェル)の解説などが挟まりながら、意見が交わされる。それをめっちゃ雑にまとめれば、「『ぼざろ』は努力がちゃんと報われる社会的成長を描いている点で文化系インテリ優等生的な「ちゃんとしている」ロック作品であるのに対して、『けいおん』はちゃらんぽらんに過ごしているありのままの女子高生がなぜかステージで輝く「パンク(不良)な」ロック作品なので、両作は全然異なる」というような話だった。(要約に自信がないので気になる人はぜひ本編を聴いてみて下さい)

論者の世代的な想い入れもあってか、『けいおん』への愛着が色濃く出ている語りだったのもあり、これを聴いて『けいおん!』にがぜん興味が出てきた。これが直接にして最大の「きっかけ」である。


で、3日間で1クール計12話(番外編も含めれば計14話)を観たので(2期や映画はまだ観てない)、簡単に感想を書く。なお、上記のようなきっかけで観ているために『ぼざろ』との比較もおこなうが、繰り返すようにわたしはまだ『ぼざろ』を2話までしか観ていないので、どの口が言っとるんじゃと一蹴してほしい。


とりあえず、一言目の感想としては「風格がすごかった」になる。3年前に途中まで観ていた頃はあんまり感じられなかったのだが、山田尚子の作家性がすごすぎる。京アニもすごすぎる。また、2023年のいま観ると、画質の粗さや4:3の画面比なども含めた絶妙な平成の空気感にノスタルジーが刺激される。こりゃあ「けいおんおじさん」になって新作アニメの感想で事あるごとに本作を持ち出すアラサーオタクになるのもわかるわ・・・。

わたしがいちばん直近で観た京アニ作品は『氷菓』(2012)であり、『けいおん!』(1期)が2009年なので約3年のギャップがあるが、どちらも学生生活・学校空間を見事にアニメ内で描いているのは共通している。(監督は別の人だけど)

やっぱり京アニは「青春」というか、「学校」という時空間をずっと追求しているアニメ制作会社なんだなぁと思い知らされた。『けいおん!』の主題は明らかにバンドや音楽ではなく、「高校生活」という有限な時空間の称揚である。ライブシーンで舞台とは直接関係のない学校校舎の素朴な風景(踊り場や水道など)の静止画がスライドショー的にじっくり映される演出は象徴的だ。こうした閉じられた「高校(生活)」の尊さを表現することが根本的な目標であると感じた。この姿勢は後の山田尚子の『リズと青い鳥』(2018)でさらにラディカル(過激)に推し進められることになる。

だから、学校という時空間に閉じられずに、他校の生徒とバンドを結成し、ライブハウスから物語が始まる『ぼっち・ざ・ろっく』とは決定的に異なる。あれは学校よりも広い「社会」へと開いていく作品であり、だからこそプロ志向が夢物語ではなく本気の(切実で悩ましい)問題系として立ち上がってくる。そもそも、バンドを組む前から主人公は押し入れの中でギタリストYouTuberとして世界へと発信して「開いて」おり、スタート地点からして違う。(2009年頃はまだYouTuber文化がほとんどないためこの辺りの時代性の違いも興味深い。)

ひるがえって『けいおん!』は、どこまでも学園モノであり、部活モノであり、「高校生」という期限付きの特権的な身分が主要キャラクターたちの本質的なアイデンティティとして造形されている。主人公の平沢唯は、そんな「高校生」のイデアのようなキャラクターである。あのぽあぽあしたADHD気質の性格もさることながら、驚いたのは両親がほとんど家におらず、ふだんは1歳下の妹(平沢憂)に身の回りの世話をしてもらっていること。この憂が1年後(第8話)には同じ高校に入学してくることを踏まえると、ようするに平沢唯にとって「家庭」も(そして高校入学前のこれまでの人生全ても)「高校生活」へと包含されているといえる。平沢唯にとって(そして『けいおん!』という作品にとって)「学校」は単なる居場所のひとつではなく、世界そのもの、社会そのものであり、学校"外"の世界なんてものは実質的に存在していない。

『けいおん!』1期では、全12話のなかで二度も「合宿回」がある(4話,10話)。この合宿は、軽音部のメンバーである琴吹紬の親が所有する海辺の別荘でおこなわれ、たとえ学校の敷地内から飛び出したとしても、すべては「学校生活(部活動)」の範疇に収まっていくさまが上述した「学校=全世界」性を表している。この牧歌的な合宿を可能にしているのは紬のお嬢様設定であり、これは唯が第2話でギターを購入するときも効いている。足を運んだ楽器店が「偶然にも」紬の家の会社の傘下の系列店であり、本来なら25万円もするギターを5万円で(=「学生」の金銭感覚内で)手に入れることができる。(むろん、この「偶然」とは本作においては「必然」である。)
そもそも、ギター購入のための資金集めで軽音部の4人はアルバイト(交通量調査)をするのだが、ここでもバイト先の上司・同僚などはいっさい描かれず、軽音部の4人だけが(いつもの部活の延長みたいなノリで)のんびりと仕事をする様子が描かれる(それしか描かれない)。アルバイト・仕事とは、明確に学校空間の「外」の社会と接する場であるはずなのに、だからこそ、徹底して「部外者」をカメラに映さずに部活動の延長として描く。すべては、本作を学校(生活)という有限な時空間で完結させるためである。

このように徹底した作劇/演出によって描かれる本作の学校空間はとても美しい。わたしは学園青春モノが大好きなので、ドンピシャで胸をうたれる。しかし、『けいおん!』は、その「〈学校〉を、異物を排除してどこまでも純粋に描き切ってやるぞ!」という姿勢と完成度が高すぎるがゆえに、かえって、その試みの危うさ・残酷さに直面させられる。・・・平沢唯というこの「女子高生」は、どこまでも「女子高生」であり、高校生活3年間のあとでも存在できている姿があまり想像できないのである。もちろん、実際的には、唯はコミュニケーション能力が極めて高く、愛され気質で、やるときはやる人間なので、社会(=学校外)に出ても「なんやかんやで」うまく幸せにやっていけそうな気もする。でも、そういうことではないのだ。「実際に」平沢唯という人間の今後の人生がどうなるのか、という次元の話ではなく、この『けいおん!』というアニメ作品があまりに自己完結的で楽園的で幸福であり過ぎるがゆえに、その「完璧さ」を根底で保証しているのが、「彼女らは高校生である」という期限付きの身分であることに思いを馳せずにはいられず、彼女(ら)の輝かしく幸福な「日常」をこうして完璧に描いてしまうことそのものが、なにかとても恐ろしいものを感じてしまうのである。

このわたしの言いようのない不安感が、「番外編」である第13話「冬の日!」(絵コンテ:山田尚子)で唯がこぼす「みんなすごいよ。私をおいて大人にならないでよ?」という何気ない台詞に集約されているかもしれない。本編で聴けばわかるが、この台詞は本当に「何気なく」会話のなかで発せられるもので、字面で見て感じるような悲壮感はまったくない。こういう台詞をほんとうに何気なく、悲壮感なく言ってしまえるのが平沢唯というキャラクターであり、それが彼女の本質的な魅力であると同時に、『けいおん!』という作品の恐ろしさでもあると私は思う。

そもそも、この「番外編」は本編とは明らかに少し佇まいを変えている。端的に言えば、本編よりも「学校外の社会」を意識的に描いているのだ。第13話で紬が始めるハンバーガー店のアルバイトでは、第2話でのバイトと異なり、ちゃんと店の同僚(大人)が描かれる。(紬は、その特権階級の出自から、かえって庶民的なものへ強い憧れのあるキャラクターであり、軽音部メンバーのなかで開かれた「社会」への志向が最も強い人物であるだろう。前述したように、本作の「学校=世界」性の実現に大きく貢献しているのが紬の家庭の事情であることを鑑みると、自身の特権性(および本作が創造する〈学校空間〉)の有限性/虚構性に鋭く自覚的だからこその行動、という気がして考えさせられる。) 紬以外の軽音部メンバーも、それぞれに「部活動」外の社会へと踏み出してゆき、摩耗するさまが描かれる(そこで唯だけがいつも通りに妹と買い物に出掛けており、上記の台詞を吐く)。

また、もう一つの番外編である第14話「ライブハウス!」では、決定的なことに、一般のライブハウスでの初ライブ参加が描かれる。1クール内での文化祭ステージとライブハウスステージを描く「順番」の逆転を指摘して『けいおん!』と『ぼっち・ざ・ろっく!』の比較論に持っていくのが流行っているそうだが、そもそも『けいおん!』1期では学校外のバンド活動がTV放映の本編ではなく「番外編」として位置付けられているところが重要だろう。(第13話はTV放送したらしいが、第14話は未放送のままDVD円盤にOVAとして収録されたようである。) おそらく第2期や映画では、この番外編の延長で、より学校外の活動も描かれることが予想されるが、少なくともこの第1期は、とことん自己完結的な〈学生生活〉を主題として徹底して追求していることがわかる。TV放映分の最終話である第13話で主人公に「私をおいて大人にならないでよ?」と言わせていることを踏まえると、確実に、本作が描こうとして、完璧に描き切ってしまった学生生活および学校空間が本質的に有限で儚いものであることに本作はどこまでも深く自覚的であり、その楽園的な空間がほころびを見せ始めるさまを「番外編」として置いて幕を閉じる、という、やはり完璧であるがゆえにきわめて残酷な作品だなぁと思う。ここに囚われてしまうのはわかるが、ここに囚われたままではいけない。そう思わざるを得ない。第2期で主題をどう変えてくるのか楽しみである。

ちなみに、わたしは原作マンガもまったく読んだことがないが、どうやら原作では大学生編もあるらしいと噂にきいていて、がぜん興味が沸いている。繰り返すように、アニメ1期にわたしが読み取った主題は「〈高校生活〉という有限な時空間の尊さ」であり、各キャラクター(とくに唯)は何よりもまず「高校生」として定義され存在していると思えるために、高校という時空間から出たあとでも彼女らの日常が続いていくことがにわかには信じられず、だからこそ読んでみたい。ただ、その大学生編は今のところアニメ化されていない、という事実にもやはり深く納得する。


そのほか思ったこと

・原作は4コマ漫画であるから、ミクロなシーンごとに「オチ」を作らなければいけない。そこで、前半(1年生編)では主に秋山澪が、後半(2年生編)では中野梓が「いじられ役」として頻繁にオチのために使われるのだが、このへんのノリは正直キツイものが多かった。特に第6話「学園祭!」のライブの大オチとして、澪が舞台上で転んで下着を衆目に晒すアクシデントを笑いのネタにするさま(かつ、それをその後もしばしば擦るさま)はふつうに引く。澪はかわいくて魅力的なキャラクターだが、だからこそ、そのかわいさを多くの場合、このような「かわいそう」経由で引き出そうとしているのは残念に思う。また、後輩部員として入ってきた梓に、唯や律がパワハラまがいのいじりや命令をするのも厳しい。(唯も律も好きなキャラだからこそ、そう思う。)

・キャラでいうと、顧問のさわ子先生はあまり好きになれていない。まぁ、本作でほぼ唯一の「大人」キャラなので、〈学生〉の雰囲気を壊さないために、わざとあのような子供っぽい性格になっているのは理解できるが……。

・第7話までで1年間を消化するスピード感には驚いた。そんなに大ヒットする目論見ではなかったことが伺えてなんか良い。

・第11話で律と澪が一瞬険悪な感じになる脚本は明らかに浮いていて謎。個人的には青春ギスギスドロドロ系は大好物なので「いいぞもっとやれ」とは思うが、とはいえ『けいおん!』でここにきてそれをやられるのは不自然だし、追求する方向性に合っていないのは確かだからこれくらいが許容範囲ギリギリだろう。



『けいおん』2期・映画と、あと『ぼっち・ざ・ろっく!』もとっとと観て、またいろいろと考えたいです・・・(バンド青春アニメとしては小林治『BECK』(2004)も観たい)

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