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『快晴』に見るOrangestarの軌跡



【注】かなり長いです!!!



 おととい、初音ミク発売10周年記念日でもあった8月31日にOrangestarの待望の新曲「快晴」が公開された。

本楽曲は今年4月1日に行われた、Orangestar率いるバンド「Daydream Sky Orchestra」の初・解散ライブのアンコールにて初めて披露されて以来、その公開がファンの間では長らく待たれていた。


そして本楽曲のミク歌唱ver.は、初音ミク10周年記念コンピレーションアルバムにも収録されている。


VOCALOIDシーン全体にとって極めて重要な日に満を辞して投稿された「快晴」は、前述のライブにて披露されたバージョンからは詞もメロディもかなり変容を遂げており、またコンピアルバムに収録されたミクver.ではなく、Orangestarがもっとも愛用するボカロ、IAによる歌唱ver.であった。

この楽曲から見えてくる、Orangestarにとってのこの曲の意義、そしてボーカロイドシーンにとってのOrangestarという存在について、自分なりに思うところを少しばかり述べさせていただく。

あくまで1ファンの勝手な見解であることに注意して以下読み進めていただきたい。



そもそもこの曲「快晴」がただの一新曲以上の意味を持つ理由、それはOrangsetarが4月のライブ後に、しばらくの(具体的な年数は明言されていない)活動休止を匂わせる以下の発言をTwitterで行ったことに起因する。


「帰ってきたら」「そのために必要な過程を一つ踏みに行ってくる」などの部分から推察するに、活動休止(?)の理由は本人がどこかへ"行く"から、ということらしい。

正確な理由を探るのはプライベートに関わることであるし、ボカロPとしてのOrangestarを考察する上であまり重要ではないのでこれ以上は追求しない。

ともあれ、活動休止を匂わせている中で投稿されたこの「快晴」は、ただの新曲ではなく、活動休止前の最後の曲である可能性が高く、楽曲制作活動の一区切りとしての意味合いが嫌が応にも伴うだろう。

それは、動画サイトへの投稿者コメント欄に

ありがとうございました。 

という、一種の決別を表明するような一文だけを載せていることからも読み取れる。


「アスノヨゾラ哨戒班」「DAYBREAK FRONTLINE」に代表されるように、若者だからこそ書ける初々しくも潔い詞と爽快なメロディで、若者を中心にボーカロイドシーンで不動の地位を獲得してきたOrangestar。

そんな彼の一区切りの曲は、やはりどこまでもストレートに胸に響いてくる、夏を謳うロックチューンだった。

音楽の専門家ではないので大層なことは言えないが、筆者は徐々に盛り上がりながら終わるアウトロが特に好みであった。


詞に関しては、全体的にOrangestarらしさが溢れていると感じるが、特に取り上げたいのが以下の2番Aメロである。

そりゃ色々あっただろう今もあるだろうでも笑いながら生きていく
「それが人世だ」って / そんな単細胞になれたならどれだけ良いかって

(スラッシュは筆者注)

まず「笑いながら生きていくのが人世」として、それをスラッシュ以後で客観視・否定している。("人生"ではなく"人世"としている点については追及しない)

これは詩ではなく歌詞なので、視聴者はまずスラッシュ前までを聞いて一瞬、「笑ながら生きていくのが人世」というのが詞の主張であると理解(勘違い)して、その後すぐにそれが勘違いであることに気付かされる。少なくとも筆者はそうであった。

つまり、曲を聴いている中で視聴者側の思考に揺さぶりをかけてくるような構造になっているということだ。

もちろんこれが意図的になされているとは考えにくいが、彼の書く詞には「『〜〜』ではない」と、詞を部分的に括弧で囲ってそれを覆すようなパターンが時々見られる。

例えば彼の代表曲「アスノヨゾラ哨戒班」の1サビ後半

夢で終わってしまうのならば 昨日を変えさせて
/ なんて言わないから また明日も君とこうやって 笑わせて

(スラッシュは筆者注)

という詞は、「夢で終わって〜変えさせて」までを二重括弧で囲えば、「『〜〜』なんて言わないから」となり、前述のパターンに一致する。


また、「時ノ雨、最終戦争」には、このように局所的な詞ではないが、その応用ともいえる仕掛けがある。

1サビ後半の

正しさなんて誰にもわかんないから 君は何を願ってもいいの

という詞のあとに、動画上に<incorrect>という単語が一瞬映し出される。(これは是非MVで確認してみてほしい)

サビで強く「正しさなんて誰にもわかんないから君は何を願ってもいいの」と歌い上げたあとに、それは "incorrect" すなわち「間違って」いると動画上で示唆するという仕掛けも、前述の「一度主張した詞を括弧でくくって否定する」パターンの応用と言えるだろう。


では、なぜOrangestarの作品にはこのようなパターンがよく含まれるのだろうか。ここからは完全に妄想といっても差し支えない。

ただ筆者は、このように自分が「これだ」と正しいと思って訴えた言葉を、すぐに自分自身で客観視・否定していく行為は、思春期の若者が普遍的に持つアイデンティティ(自我)の確立の問題に関係しているのではないか、と考える。

このようなことをOrangestarが考えて詞を書いているのではない。彼は前に述べた通り、若者だからこそ書ける自分のもがきを、うまく彼の詩的感覚に落とし込んで一貫して表現しているのだと思う。

ただ、そのために結果的に「不安定な自我のもがき」を表現するときに、「『〜〜』ではない」という構造を持つ詞になっているということだ。

そしてそれが更に結果的に、曲を聴いている人間に対してリアルタイムで揺さぶりをかける効果を生んでいるのだと考える。


ちなみにこのような構造の詞はOrangestar特有のものではない。筆者がパッと思いついた別のアーティストの曲は、YUIの名曲「CHE.R.RY」の2番A・Bメロである。

サクラが咲いている この部屋から見えてる景色を全部
今キミが感じた世界と10秒取り替えてもらうより
ほんの1秒でも構わないんだ キミからの言葉が欲しいんだ

この部分を聴いている人はまず「この部屋から〜取り替えてもらう」という詞を理解するだろう。しかしすぐに「それよりも1秒でいいからキミからの言葉が欲しい」というのが真にこの唄い手が願っていることであると気付かされる。

これはOrangestarで例に挙げたような「前の詞の否定」ではなく「前の詞を比較」して、後の詞を引き立たせるパターンになっているが、かなり類似した例だと思われる。

筆者は今でもこの歌を聴くと、この部分で「その部屋の景色をキミと交換…したいんじゃないのかーい」と内心でツッコミを入れてしまう。(自分だけかもしれないが)

この「CHE.R.RY」は「自我の確立」ではなく「初々しい恋」にもがいている歌だが、思春期の悩みという点では共通しているだろう。

ともかく、Orangestarの詞にはこのようなパターンがたまに登場し、それは今回の新曲「快晴」も例に漏れていないということだ。



次に、「快晴」の最後のサビ

I know this sky loves you いずれ全て
変わってしまったって空は青いだろう!

の途中で起こるかなり派手な転調について思うことを書く。

正直、ここの転調を初めて聴いたときは強い違和感を覚えるどころか、単純に"びっくりした"。これは筆者だけではないようで、自分が観測した範囲だけでも「この転調はいささか乱雑に感じられる」等のリスナーの反応は複数見られた。

楽曲の終盤(主にラスサビ)で最高潮に盛り上げるために半音上がる転調はJ-POPでも珍しいことではないが、やはり使いこなせなければどこか違和感を感じたまま曲の終わりを迎えることになる。

この「快晴」の転調が"いいもの"なのか筆者には簡単に判断することはできない。今もこの部分を聴くときに伴う違和感・緊張感を拭うことはできていない。

しかし、そうしたことを踏まえて、筆者はこの転調を最大限に肯定的に捉えようと思う。(Orangestar信者なので)

Orangestarはこれまでも「濫觴生命」「牆壁」で見られるように、上へ上への転調をアクロバティックに用いて楽曲を彩ってきた。

基本的に歌モノのサビで音程が上がることが多いのは、もちろん「高い音程の歌ほど盛り上がる」という定式があるからだ。そして上への転調は、歌の途中で差し込まれることで更にピンポイントかつ強力に曲の盛り上がりを実現する技である。

しかしながら、「盛り上がり」とは「緊張感の高まり」と密接に結びついている。「高揚感」と言ってもいいかもしれない。

行き過ぎた高揚感は、安易に違和感へ転化する。Orangestarはこのギリギリのラインを模索することで、一貫して視聴者のメロディに対する感性に挑戦しているのではないだろうか。

これは転調だけの話ではなく、「Alice in 冷凍庫」などのVOCALOIDでしか表現できないような超高音程のメロディにも当てはまる。

確かに「快晴」のラスサビの転調は不安定に聞こえるかもしれない。しかしその危うさに、筆者はただ耳当たりの良い消費される音楽とは一線を画す、Orangestarの挑戦的な感性を見出したいと思う。

その姿勢は、彼の代名詞となっている「未完成」というテーマに通ずるかもしれない。

振り返ってみれば、前述の「括弧で囲って否定する詞の構造」も視聴者の感性にリアルタイムで動揺を与えるものだった。

彼の音楽の魅力。それは、類稀なるメロディメイクのセンスや詞の潔さだけでは割り切れない、リスナーの感性に問いかける一筋縄ではいかないダイナミクスにこそ潜んでいるのではないだろうか。


と、さすがにこれは「行き過ぎ」だと自分でも感じるが、しかしOrangestarの音楽を考察する上で決して無視できない要素がそこにあると筆者は考えずにはいられない。

これからも「快晴」を何度も聞き込んでいく中で、少しでも彼の持つ音への感性を汲み取れたらいいな、と思っている。



さて、新曲「快晴」自体について思ったことはひとまず以上である。

最後に、「快晴」の投稿日について少し思うことを述べる。


はじめに書いたようにこの曲が投稿された8月31日は、名実ともにVOCALOIDのトップに君臨する「初音ミク」の誕生日。しかも2007年から数えて10周年の記念すべき日である。

もちろんこの歴史的なアニバーサリーに、有名無名問わず多くのボカロPが初音ミクによる楽曲を投稿した。ニコニコ動画のVOCALOIDカテゴリは、そんなミク10周年を祝う曲たちで埋まった。この「快晴」以外は。


「快晴」はミクとは異なるVOCALOIDライブラリ「IA」の曲として投稿された。

IAはOrangestarが最初に手に入れたボカロであり、多くの曲をこのIAに歌わせてきた。

「Orangestarが使うボカロは?」と聞けば、ほぼ間違いなく「IA」と返ってくるだろう。
それだけでなく、「IAを使う代表的なボカロPは?」という問いにも、カゲロウプロジェクトのじん(自然の敵P)に並んで、「Orangestar」と答えるリスナーは決して少なくないだろう。

それほど「伝説のIAマスター」として広く認知されているOrangestarが、自身の節目となる曲をIAに歌わせるのは極めて自然なことである。

しかし、ミク10周年の記念日に投稿されたこと、そして10周年記念アルバム「Re:Start」にミク版の「快晴」を書き下ろしていながら、わざわざIAに変えて投稿したことに対して、多少の不満や憤りを覚えるボカロファンがいることは否定できない。

この2点について自分なりの意見を述べる。


まずミク10周年の日に投稿したことについては、Orangestarの絶大な人気を考えると「空気を読めない」と思われることは仕方ないかもしれないが、しかし決して間違ったことではないと考える。

前提として、当たり前ながら誰がどのボカロを使っていつ投稿しても自由である。また、そもそも8月31日は初音ミクの誕生日(発売日)かもしれないが、その前に独立した一つの日である。

Orangestarがこれまで夏という季節にこだわって曲やアルバムを製作してきたことを踏まえると、この日に「快晴」を投稿したのは、わざわざミクの10周年にぶつけたのではなく、8月という「夏の終わり」をもっとも象徴する31日に出したかったから、と考えるのが妥当だろう。

むしろ、たまたまミクの誕生日が8月31日という「夏(休み)の終わり」に被ってしまったと考えたほうがいい。


このことから言えるのは、Orangestarは「初音ミク」という文脈とは独立した文脈でこれまで動いてきたということだ。

もちろんIAの文脈とも違う。(流石にIAには一定の愛着はあるようで、IAの誕生日を祝うツイートをしたことはあるが)


ボカロシーンの始まりはもちろん、2007年8月31日の「初音ミクの誕生」だろう。そのミクを使う、多くのボカロPが生まれ、さらに様々なボーカロイドが誕生しボカロシーンはここまで10年間続いてきた。

ryoの「メルト」がまだ投稿されていないような黎明期は、多くのボカロ曲はミクを前面に押し出した、いわゆる初音ミクのキャラクターソングだった。

その後、「メルト」などの楽曲により、ボーカロイドイメージソング以外の「普通の」曲が生まれるようになり、ボカロシーンは豊かに育っていった。

ここでいう「豊か」とは、言い換えれば「多様な文脈がある」ということである。

ミクを一種の「萌えキャラ」として愛でる人々、ミク(ボカロ)へ向けた曲を作る人々。自分の表現したいことを、ボカロに代替させて歌わせている人。それらの数多くの曲を聞き、作り手(ボカロPや絵師・動画師)に心酔する人々。3DCGソフト「MMD」などで二次創作の輪はさらに広がった。

ボカロシーンはこれらの多様性を最大の武器として、これまで脈々と続いてきたのではないだろうか。

そして、2014年4月1日にデビューし、2015年辺りから人気を博し現在のボカロシーンにとって大きな存在となったOrangestar。

彼もまた、ボーカロイドという多様な文脈の束の一つを紡いできた担い手であり、その文脈は他の何ものでもない彼自身のものだ。

Orangestarとして4年間活動してきて、一度その歩みを止めボカロシーンを後にする。そんな彼の文脈の最後の1ピースとしての新曲の投稿は、やはり夏を愛し、多くのリスナーに彼の描く夏を好きにさせたOrangestarだからこそ、8月31日以外ありえなかったのだと思う。

そしてそれが非常に面白く運命的なことに、初音ミクの10周年記念日を重なったのである。

筆者は、8月31日のボーカロイドカテゴリのランキングにて、IAオリジナル曲「快晴」と、同じく現在絶大な人気を誇るボカロP・ナユタン星人がミクへ愛を込めて書いた「リバースユニバース」が並んでいるのを見て、「これこそがボカロの面白く愛すべきところだ」と思った。

ボカロシーンを生み出し、ここまで発展させた初音ミクの文脈もあるし、その隣には、高校1年から曲を作り始め、その才能が評価されてきた1人の青年、Orangestarの文脈だって存在しているのである。そこに貴賎・優劣の差はないし、まさにその多様性こそがボカロシーンの本質ではないだろうか。


尚、ミク10周年コンピ「Re:Start」にミク歌唱で「快晴」を書き下ろしたのに、IAに変えて投稿したことについては、物申したくなるミクファンがいるのは仕方のないことだと思う。

このことから言えるのは、「快晴」は「Re:Start」に収録されてはいるが、言ってしまえばミクのための曲ではないということだろう。

同じくアルバムに書き下ろしたwowakaやナユタン星人、ピノキオピーなどは完全にミクを意識した曲を提供している。しかしn-bunaや和田たけあき(くらげP)、れるりりの書き下ろし曲は、筆者には一見ミクとは関係がなさそうに思える。

もちろん、ミク10周年アルバムだからといってミクのキャラクターソングを書き下ろす必要はないだろう。前述の「メルト」の通りである。

言うなれば、この「Re:Start」も、ボカロシーンの多様性を象徴するかのような曲の顔ぶれになっているということだ。


ここまでボカロシーン云々と偉そうに書いてきたが、実は筆者のボカロとの出会いはOrangestarの「アスノヨゾラ哨戒班」だった。

2年前にこの曲を聴いて以来、彼の作る曲に魅せられ続けてきた身としては、今回の「快晴」でOrangestarが活動を休止してしまうことは本当に寂しいし悲しい。

Orangestarの一時的なボカロシーンからの引退は、ボカロを聴く自分にとっても一区切りという意味を持つ。

しかしながら、どうだろう。彼が去り際に残していった「快晴」は清々しいまでに前向きな詞に、王道をゆくギターロック。

いずれ全て変わってしまったって空は青いだろう!
忘れないさ でもまた出逢えますようにって生きて征くよ
君は笑っていて

「君は笑っていて」なんて言われて去られたら、もう、前を向くしかなくなる。本当に、この最後の詞の通り、「また出逢えますように」と願って、自分は彼に連れてこられたこの豊かなボカロシーンを楽しみ続けたいと思ってしまう。





さて、深夜にここまで一気に書き連ねたので、所々見苦しい点があるだろう。とにかく最後まで読んでくれた人には感謝を。


最後に、この文章を書いている間、2017年9月2日23時45分あたりで「快晴」がニコニコ動画において10万再生突破、いわゆる「殿堂入り」をした。

この先も「快晴」を始め、Orangestarの全ての楽曲がますます多くの人々にききづけられ、彼がいつか帰ってきたときにみんなで「おかえりなさい」と言えることを願いつつ、筆を置きたい。






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