ヒトとは?人間とは(32)

 フェニキア人のあとに台頭し、都市国家を築いていたのが古代ギリシア人たちです。彼らは、地中海全域にその活動範囲を広げていきます。ギリシアの都市国家は、それぞれがある程度独立していて、交易でつながっていました。もちろん、都市間のいざこざもあり、時には都市どうしが、敵対することもありましたが、基本は交易で結びついていたようです。

 ギリシア人達は、物資のやり取りをしながら、他の人種とアイディアや情報も交換していました。交易相手が万単位まで増えると知識の構築が始まり、加速していきます。ギリシアで数学や哲学などの学問が生まれます。ピタゴラスやソクラテスなど後世に名を残した人間がギリシアやローマに生まれたのには、こうした知識の異種交配があったからなのです。

 ギリシアの都市国家は、紀元前338年にマケドニアによって一度、帝国として統一されます。しかし、2代目の帝王アレクサンドロスの死によって帝国が分裂したため、その一部が独立国家としてまた復活し、交易が盛んとなります。全盛期には自由市民と呼ばれた富裕層が33万人にまで膨れ上がりました。

 同じころ、インドでも繁栄が見られました。マウリヤ王朝の第3代目の王、アショーカは、インド亜大陸のほとんどを制圧し納めていました。アショーカは、インド全域に仏教を普及するかたわら、交易が盛んになるように、道路や水路の整備を行い、共通の通貨を作り出しました。また、中国や東南アジア、そして中東に向かう海洋交易路も拓いています。扱った商品は、主に綿と絹の織物でした。注目すべきは、この時期に数値のゼロと十進法が発明され、正確な円周率が計算できるようになりました。

 アショーカの死後も、繁栄は続き、その後2~3世紀にわたって、インド亜大陸は、世界人口の3分の1を維持し、GDPも世界の3分の1を占めていました。当時、中国やローマをしのぐ経済大国だったことは間違いありません。

 カースト制度が出来上がり、インドの商業が保守化していくのはもっとあとのグプタ朝の時代です。

 一方、地中海では、都市国家ローマが、地中海全域を統一していきます。このローマ帝国の経済を支えていたのは、レヴァント人であり、アラム人であり、シリア人であり、そしてギリシア人でした。といういのもローマ帝国の中心は、人口が多く、栄えていたギリシア語圏だったイタリア南部、シチリア島、そして東方各地の都市だったからです。

 現在のイタリア、テヴェレ川河口部のティレニア海沿いにあるオスティアは、ローマ帝国時代は、香港のような交易都市でした。オスティアには、60あまりの会社の本社が並ぶ広大な広場があったそうです。そして、カンパニアの田園地帯では、輸出用のワインと油を生産する農園がいくつもありました。そこでは、奴隷が働かせられていました。

 ローマ帝国を支えた繁栄の源のひとつは、季節風を利用した航海術の発明であり、その発明を利用して、短期間でアラビア海からインドまで行き来するすべを身につけたことにありました。この辺の海洋では、夏に強い東風が吹き、冬にその風は西へと方向を変えます。夏に季節風に乗って船を進めインドへ向かい、冬にまた逆に吹く季節風を利用してアラビア海にもどってくる。こうすることで、2~3年かかっていたインドへの航海が半年足らずに短縮されました。

 インドからは、綿や絹の織物が、ローマに渡り、ローマからはワインやローマで発明された質が高く、安価なガラス容器などがインドや中国へ渡っていきました。歴史上では、戦士たちの武勇伝がはびこっていますが、こうしたグローバルな商取引がローマ帝国を繁栄を支えていたのは間違いないでしょう。

 次回は、アラビア人の台頭について述べたいと思います。

 エッセイ集Ⅱ もくじ

 参考文献は、ヒトとは?人間とは?(1)に記載してあります。そちらを参照して下さい。

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