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目の焦点

 この間、春風亭昇太さんが落語のまくらで、定年したあとの男をネタにしていた。ほとんどの昭和生まれの男は、仕事一辺倒だったから趣味などという高尚なものを持ち合わせていない。その上、昭和の男は人と話をするのが苦手ときている。そんな男が、定年で仕事がなくなると、奥さんには相手にされず、時間をどうつぶせばいいかわからず、思わずカメラに走るというのだ。

 それなりに金を持っているからプロが持っているような高級なものをつい買ってしまう。今のカメラは、非常によく出来ているので、素人が撮ってもそれなりにピントが合い、それなりのものが撮れる。そうなると、カメラがおもしろくて仕方なくなるというわけだ。人と話すのが苦手だから、何も文句を言わない風景や花なんかを撮影し悦に入っている。

 思わず苦笑してしまった。金持ちうんぬんは別として、話が苦手だから、人物を撮らないというところは、まったくもって自分に当てはまるではないか。ちなみに、まだ働いていて、仕事のほかに趣味がないという人間でもない。しかも、カメラは、ミラーレス一眼レフだが、高級品ではない。

 翔太師匠が話すとおり、昭和生まれの僕も、撮影ターゲットは、風景もしくは花が主体だ。しかも、極力ズームレンズを使用しないで写真を撮っている。現在使用しているレンズは、12㎜広角レンズ、17㎜スナップ写真用レンズ、45㎜望遠レンズ、60㎜マクロレンズだ。

 各レンズごとに、イメージできる構図があって、ターゲットを見て、まずどんな構図で撮りたいのかを大まかに決めてから、レンズを変え、ピントを合わしてみる。イメージが合わなければ、体を動かして位置を変え、イメージに合う構図を探す。それでも、イメージが合わない場合は、別のレンズを使ってみる。こうして、試行錯誤したあとに撮影するのだ。

 なぜ、ズームレンズを使わないかというと、ズームレンズを使ってしまうと体を動かして構図を変えるという作業をおろそかにしてしまうからだ。そうすると構図がパターン化してしまい、いつも同じような構図になってしまう。常に新しい構図を探すためには、単焦点レンズを使用したほうがいいと思っている。

 さて、こうして単焦点レンズを使用して風景を撮影していると、人間の目とカメラのレンズとではピントの合わし方が違っていることに気づく。なんどやってもレンズを通さずに見た絵とレンズを通した絵が違っているのだ。

 例えば、沈む間際の月を肉眼で見ると、月がかなり大きく見える。しかし、レンズを通してみると望遠レンズを使用しても、沈むまわりの景色は大きくなっても、月の大きさは大きくならない。肉眼で見た月よりも小さく見える。

 まわりの地球上の景色にくらべて沈む月は、比較にならないほど遠い宇宙にあるのだから、ちょっとやそっとの望遠レンズで月を大きくしようとしても大きくならないのは当たり前だ。まわりの景色が大きくなっても、月が大きくならない方が普通なのだ。ということは、目による焦点の合わし方に何か細工があるのだろうか。

 去年、緑内障の検査を受けた。診察結果は、定期的検査と言うことだから、それほど、ひどくはないということだ。この検査では、盲点がどれだけ増えているかを測定する。そして、見えない部分がかなりあると要注意ということになる。

 もともと、誰でも盲点はあるので、肉眼で見ている場合、必ず見えていない部分が必ずあるはずだ。しかし、ぼくらは、普段の生活で目で見た景色の一部が見えていないという自覚はない。それでは、どうしているのかというと、脳がその部分を補正しているのだ。脳に蓄積されているデータをもとに補正している。だから、その部分は、精密にはその瞬間に見た景色ではない。

 人間の目は、結構いい加減なところがあって、どこかに焦点を合わせると、それ以外の部分は、脳が以前記憶していた画像で埋めてしまうことが多いらしい。目の焦点が合っているところ以外は、リアルタイムで見ているわけではないらしいのだ。

 もともと、ほ乳類の目は、獲物を確実に捕らえるために進化してきた。したがって、焦点を合わせたものからの入力データ(光)に絞って見ることが得意なのだ。そう考えると、沈む前の月に焦点を合わせれば、月だけがクローズアップされる。つまり月が大きく見えるのである。レンズは、物理的な道具でしかないが、目は目に入ってくる光と脳から送り出される情報を合成している。したがって、沈む前の月が大きく見えるのは、ターゲットだけを強調しようとする脳による目の錯覚なのだ。

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