ヒトとは?人間とは?(34)

 長い間、続いた自給自足生活からヨーロッパは、ようやく脱します。アラブ人たちが繁栄させた交易の影響を大きく受けていますが、実質それを支えたのは、ユダヤ人の交易者たちでした。

 彼らは、圧政が進むバグダッドのアッパーズ朝から異教徒に寛容なエジプトのファティーマ朝に移ります。そして、独自の交易ルールを作り、それに逸脱したものに対しては、政府の罰則とはまったく違った、自分たち独自で作った罰則で対応していました。政府や宗教の干渉を受けないかたちで交易をしていたのです。

 ユダヤ人は、まずイタリアの港と交易を始めます。イタリアの北部は、神聖ローマ帝国(ドイツを主体とするゲルマン民族主体の帝国、古代ローマ帝国とは異なる。1800年代まで続く)と教皇それぞれの支配の狭間だったため、比較的自由に交易をすることができました。

 フィレンツェのあるトスカーナとミラノがあるロンバルディアでは、比較的自由に政府をつくることができ、商人の利益で左右される政府が樹立されました。アマルフィ、ピサ、そしてジェノヴァなどもユダヤ人との交易を始めます。

 ちょうどこの頃、ピサで生まれたレオナルド・フィボナッチは、貿易商人の職を求めてアフリカの渡った父に連れられ、現在のアルジェリアに渡りました。そこで、アラビア数字を学びます。このころのヨーロッパでは、まだローマ数字が普通に使われていました。そこで、フィボナッチは、アラビア数字の使い方を説明した「算盤の書」をヨーロッパで出版します。これが、きっかけになってヨーロッパでもアラビア数字が使われるようになり、小数、分数、そして利益計算など、交易のための数学が普及していきます。

 1161年に商人保護の協定が結ばれます。そのおかげで、1293年までにジェノヴァの交易額はフランス王国の全収入を超えました。ルッカは絹の売買と銀行業で、フィレンツェは羊毛と絹織物で、財をなしました。アルプス山脈の玄関口であるミラノは各地から訪れる人たちのための市場として栄え、長く独立を保ってきたヴェネチアは交易国の典型となっていきました。ヴェネチアでは、商人のために政府が船を建造して賃貸しして、護衛艦も手配していました。

 イタリアの商人は、銀を求めてヨーロッパ北部にも出没していました。やはり王国の狭間だったフランドルにあるシャンパーニュの定期市に顔を出していたのです。イタリア出身の商人たちがヨーロッパ北部に出没していた姿は、有名な画であるファン・アイクの描いたアルノルフィーニ夫妻に描かれています。絵の中にいる夫、ジョヴァンニ・アルノルフィーニは、イタリアの商人だった人です。

 と、ここまで書いてきて、ふと疑問が浮かびました。現在、マット・リドレー著「繁栄」をもとに書いているのですが、中世ヨーロッパに入ってきた辺から何か抜けているように思えてならないのです。

 それは、キリスト教の影響です。中世のヨーロッパでは、ローマ教皇の力が強く、その権力は絶大だったはずです。それなのに、この本ではイスラム教こそ少し出てきましたが、ローマ教皇のはなしがまったくと言っていいほど、出てきていません。

 ここに登場してきた、ヴェネチアにしても、十字軍との関わりがあったはずなのに、そこにはまったくふれられていません。そんなわけで、ちょっと違う文献もあたりながら、ここからルネサンスに至るまでの部分を考え直したいいと思います。

 次回の話では、文献紹介も含めてその話を進めたいと思っています。

 エッセイ集Ⅱ もくじ

 参考文献は、ヒトとは?人間とは?(1)に記載してあります。そちらを参照して下さい。

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