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神保町・お茶の水②

 本を読み出したきっかけは、何だったんだろうと思い返してみる。確か、通っていた塾で、レコードに納められた、宮沢 賢治の「オッペルと象」(現在の題名は「オツベルと象」らしいが、記憶のまま前の題名で記載した)を聴かされたことだったと思う。そう言えば、あの頃、カセットテープというものも、めずらしく録音されたものといえば、レコードだった。

 塾といっても、そのころ帝京高校で数学を教えられていた先生が開いていた小さな塾で、先生は、一人きり。算数だけでなく、他の科目も習っていたと思うのだが、何を教えてもらっていたのか、思い出すことができない。ただ、算数が好きになったきっかけは、間違いなくこの塾に通っていたからだと思う。今のような、受験のための塾ではなく、遊びの延長線上にある勉強補完のための塾といったところだったような気がする。

 そんな塾で、聞かされた朗読レコードが面白かったのだ。話の内容をまったく覚えていないことから考えると、朗読していた人の擬音語の発音が面白かったので興味を持ったのだろう。風の音だったり、森の中で響く音、そんな実際にどう聞こえるかわからない音をユニークな言い回しで、それまで、聞いたことのない擬音語を使って語っていたのがひっかかったのだと思う。子どもには、よくある引っかかり方だ。

 誰が、こんな表現を考えたのだろうと思って、作者を訪ねると、宮沢 賢治だという。それじゃ、この人が書いた本を読んでみようと単純に思った。今思い返してみると、これが本を読み出すきっかけとなった。

 ぼくらの子ども時代、もう貸本屋というものは、なかった。少なくともうちの近くにはなかった。本を読むためには本屋さんで買うか、それとも図書館で借りて読むしかなかった。

 近くにあったこの頃の図書館というのは、あまり蔵書の数が多くなく、まして、小学生高学年から中学性ぐらいが読みたいと思う本は、ほとんどなかった。近くの図書館で借りた本で覚えているのは、「十五少年漂流記」ぐらいで、後は、推理小説のシャーロック・ホームズを何冊か借りた覚えがある程度だった。

 つまり読みたいと思う本があまりなかったのだ。明智小五郎シリーズやルパンなどもあったが、表紙の絵が暗くて、なんだか怖く感じてしまい、読む気がしなかった。基本的に怖い話は子どものころから好きではなかった。

 神保町自体を知ったのは、おそらく、父が話した話に地名が出てきたからだと思う。お茶の水の近くに、古本を売る店がたくさんある。そんな話だったと思う。

 中学校に上がったころから、ひとりでどこかへ出かけたいという欲求が徐々に強くなってくる。何か理由をつけて、ひとりで遠出してみたい。その格好の的となったのが、神保町だ。親をどう説得したのかは、もう覚えていない。どうにか、神保町まで行くチャンスを作った。

 初めは、本を買おうとは思っていなかった。古本がどのくらいの値段で売られているかがわからなかったからだ。町の本屋さんと同じくらいの値段だと、自分のお小遣いでは買うことができない。なので、どんな町なのかを見学するつもりで出かけた。

 地下鉄のお茶の水の駅から、神田川を渡って、坂を下っていったところに、神保町がある。この坂道には、楽器屋さんが並んでいて、ギターなどの楽器が多く並んでいた。大人になった今では、ここが、学生の街であることにすぐ気づくのだが、その頃は、お兄さんやお姉さんがやたらに多い町だなという印象しかなかった。

 坂を下りきったところに、今でもあるのだが三省堂書店がある。ここは五差路になっていて、ここが神保町の入り口となる。三省堂書店から靖国通りを九段下方面に向かうと古本屋街がある。

 通りの片側にしか古本屋さんは並んでいない。これは、もう有名な話だが、日差しが入ってこない北側を向いた店舗しかないためだ。当時は、まだ、店の前に本が山積みになっていたり、棚自体が店の外にあったりしたので、日の光は本にとって大敵だったのだと思う。

 中学性だった僕の目に入ってきたのは、そうした店の外で売られていた文庫本たちだった。どれも、50円から100円で売られている。子どもでも手に出せる金額だ。思わず目が釘付けになってしまうのもしかたがない。さんざん迷ったあげく、ようやく一冊だけ本を買った覚えがある。それが、宮沢賢治の「注文の多い料理店」だった。こうして、僕の読書人生が始まったのだ。

 今でも、時々、神保町には顔を出している。行きつけの店があるわけではない。しかし、古本のにおいを時たま嗅ぎたくなるのだ。読んでる本の舞台が神保町だったりすると、途端に足が神保町のほうへ向いてしまう。

 時代が変わって、大人になっても、子どものころのあこがれの場所は、今でもあこがれの場所である。

※子どものころの記憶が曖昧なので、だいぶフィクションが入っています(笑)


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