ヒトとは?人間とは?(3)

 1960年に、動物には心がないという考え方が一変します。その当時、科学知識がほとんどなかった若い女性ジェーン・グドールが、人類学のルイス・リーキー博士のすすめで、アフリカ大陸タンザニアにあるタンガニーカ湖のほとりでチンパンジーの観察を始めたのです。そして、チンパンジーが草の茎を使ってシロアリを捕獲する姿を発見します。人間以外の動物が道具を使っている行動を初めて報告したのです。彼女は、当時を振り返りこう記しています。

わたしは、何とうぶだったのだろう。学部学生としての科学の教育を受けなかったので、動物が人格ももったり、ものごとを思考したり、感情をもったり、痛みを感じたりする存在とは考えられていないなどということを、意識さえしていなかったのである。……わたしは知らなかったゆえに、ゴンベで観察した驚くべき出来事をさてどう記述しようかというときに、これらの禁じられた用語や概念を自由に使うことができたのである。ジェーン・グドール著『心の窓 チンパンジーとの30年』(どうぶつ社)より引用

 彼女は、チンパンジーの社会を人間の社会と同じ目線で観察します。この擬人化した観察は、それまで、一般的だった動物には心がないという考え方に風穴をあけることになります。

エヴァレットは次第に自信を取り戻した。それは間違いなく、フィガンがいつも兄と一緒にいるわけではなかったし、フェイブンは相変わらずハンフリーと仲がよく、フィガンは抜け目なく大きな雄を避けようとしてたからである。その上、たとえ兄弟二人が一緒にいても、フェイブンは必ず弟に手を貸すというわけではなく、ときにはただ座って眺めていることもあったのだ。ジェーン・グドール著『心の窓 チンパンジーとの30年』(どうぶつ社)より引用

 まるで、人間社会を描写したみたいに読めます。しかり、これがまさしく、観察していたチンパンジーの社会でした。観察されたチンパンジーの社会は、人間の社会と同様、心が備わっていないと説明がつかない行動で満ちあふれていました。そう、もう誰も動物に感情がないとは言えない状況がそこにあったのです。ダーウィンが言ったように、性質の違いではなく、程度の差がそこにあるだけだったのです。

 昔から、哲学者はそれぞれ独自に、人間を定義してきました。アリストテレスは、人間は政治的な動物だと言い、デカルトは、われわれは論理的思考のできる唯一の動物だと語り、マルクスは、人間だけが意識的な選択ができると述べました。しかし、こうした概念を非常に狭い意味で捉えないかぎり、グドールが観察してきたチンパンジーを排除することはできなくなったのです。

 1世紀の聖職者アウグスティヌスは、人間は生殖よりもむしろ快楽のために性交する唯一の生き物だといったそうです。しかし、後述するボノボ(チンパンジーに非常に近いヒト科の動物、20世紀になって初めて発見された)の社会を覗くと、ヒトだけが唯一とは言えそうにありません。

 人間は、自分たちで道具を作って利用する唯一の種だという考え方も、ジェーン・グドールが観察し発見したシロアリ釣りの行動を知ってしまった今では、人間だけではないとしか言えません。

 『人間だけが、獲得した習慣を次世代に受け継いでいける』というのはどうでしょうか?これも西アフリカのタイという森に住むチンパンジーの行動からそうとは言えないと言えそうです。ここのチンパンジーは、堅い木の実を割るときに、石の台に実を起き、もうひとつの石をハンマーのように使って、木の実を割ります。その割方を自分たちの子どもに教えているそうです。

 『人間は戦争して仲間を殺す唯一の動物だ』というのはどうでしょう?これも後述するようにゴリラやチンパンジーの社会は、集団で順位の高い雄を殺す行動や他の集団の雄を集団で襲う姿が観察されていて、人間だけが特別とは言い切れません。

 言葉はどうでしょう?人間だけが会話ができる。しかしこれも疑わしいみたいです。サルにはままざまな捕食者や鳥を指す語彙があるそうです。類人猿やオウムは非常に多くの記号を覚えられるそうです。そして、チンパンジーやボノボの研究から、彼らと手話で会話ができることがわかっています。程度の差はあれ、これも人間特有とは言い切れそうにありません。

 それなら、『人間は、相手の心を読める唯一の動物だ』というのはどうでしょう?これもチンパンジーやボノボの行動を観察していると言えそうにもありません。チンパンジーはたびたび仲間を騙すらしいのです。もっとも同じ種を騙すことができなければ同じ種を殺すこともできないと思います。ある研究者がチンパンジーの雄を観察していて、『よくストレスで早死にしないものだ』と感想を述べています。チンパンジーの雄が、どれだけ相手の行動を読んで行動しているかがうかがえます。

 ここまでくると、特にヒト科の動物(ゴリラやチンパンジー、そしてボノボ)との基本的な性質の違いを見つけることは難しくなってきます。

 次回は、まず、ヒト科の動物がどの時期に、枝分かれしていったのか、そして、今のヒトがどのように今のホモ・サピエンスという種になったのかを見てみたいと思います。

 エッセイ集Ⅱ もくじ


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