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話ことばと文字

 最近、文書を書くときによく漢字がでてこないことがある。難しい漢字が思い出せないのではない。こんな漢字を忘れるはずがないという漢字が思い出せないのだ。この間も滋賀県の滋賀がすぐに頭に浮かばず、相当やばいことになっていることを自覚した。

 手にしびれがあることから、字を書くという動作を極力さけ、パソコンやスマートフォンを使うのが当たり前になってしまっている。しかし、だ。やはり書くという動作は、人間にとって重要な動作なのだと思う。漢字を常に思い出せる力を維持するというだけではないだろう。脳のトレーニングには必要不可欠なことだと改めて思った。

 逆はどうだろう。本を読んでいて「この漢字なんて読むんだっけ」と悩む回数はそれほど多くなっていないような気がする。これは、文字を読むという動作を常日頃からずっと行っているからなのかもしれない。

 私たちが話すことばと文字は同じものと小学校からの教育でずっと刷り込まれてきたように思う。話しことばは当然文字で置き換えられる。何の疑いもないことのように思える。

 しかしだ、話しことばと文字はそもそも生まれた時代が違う。話しことばは、縄文時代にすでに生まれていてずっと使われていた形跡がある。

 それに対して、日本で最初に使われた文字は、奈良時代に漢字を模して作られた借字がもとになってできたひらがながで、話しことばと文字が一致するようになったのは、この奈良時代以降のことである。すでに、漢字が日本に入っていたので、それを話しことばにあてたのだろう。

 そして、様々な形態を経て、今漢字とひらがなを併用するかたちで、文字は使われている。

 これに対して、話しことばには、漢字やひらがなはない。頭に浮かべて話している人はいるかもしれないが、ことばとして出てくるものは、文字ではない、音声だ。

 推測でしかないが、縄文時代には縄文語と呼べることばがあったようだ。そして、縄文土器の模様は、何かを伝えるために使用されていたのかもしれない。

 縄文時代の技術伝承を考えるとそこに何かしら文字らしきものがあったはずだ。なにせ、一万年以上も続いた時代なのだ。

 もう一つ、おもしろいことがある。日本列島の方言分布図と縄文土器の地域圏(縄文土器の模様やかたちが異なる地域)の分布図がほぼそっくりなことだ。

 人が移動するのに山や川、海といったものが制約となる。したがって、それらを境にして人びとが定住するようになったと仮定するとその地方独特の方言が生まれてもおかしくない。

 これも推測でしかないが、縄文土器の文様やかたちが変わる地域が、方言の分布図と重なるのであれば、縄文土器に記されているものこそが文字に似通ったものだったのではなかろうか。

 瀬川拓郎著「アイヌと縄文」(ちくま新書)を読んでいて、そんなことを感じた。


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