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永井さんの「未発表」作品について

 めんどくさい話だけど、気になったことを書いておきます。

 「短歌往来」2019年1月号に「永井陽子未発表稿」が掲載されています。
 角川「短歌」2014年5月号に「永井陽子 高校時代の未公開作品」が掲載されたこともあります。

 1回だけならともかく、2回目なので書くことにしました。作品を、特に永井さんの作品のように自分と作品だけの関係で味わいたいものにむかう時、この手の話は無粋というのは重々承知しております。

 あらかじめ書くと、こういう埋もれた資料を掲載してくださるのはうれしいことで、とても感謝しています。今後も続けていただきたいです。「短歌往来」や角川「短歌」が悪いという話ではありません。

 

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 私がひっかかったのは「未公開」「未発表」というところです。
 いずれも「葦牙」より前に校内流通(と思われる)冊子に掲載されたものを再録したものです。
 つまり、未公開ではない。公開されていたものでしたので、私は(勝手に)安堵しました。

 どういうことかというと、著作人格権の問題です。作者に公開の意思がないものを第三者が発表することはできません。著作権者は、第三者による作品の発表を拒否することができます。これ、本人が生きていれば割と当たり前の感覚だと思います。
 この発表をする・しないの決定を含む著作人格権は、没後50年経とうと、70年経とうと消滅しません。
 有名人の書簡の公開をめぐって争われるのは、この公開の意思をめぐってであることが非常に多いです。

 もし角川や往来の掲載されたものが本当に「未発表」であるのなら、まず永井さんの公開の意思の有無、ない場合はどういう手続きを経て公開に踏み切ったのかの説明が必要です。「未発表」と書いた時、話題になりやすい、つまりインパクトを強く感じるのは「(資料発掘の労、遺族との交渉もろもろ乗り越えて)故人が発表しなかったものを暴く」感覚が伴うからです。
 「未公開」「未発表」の意思が本人にあるならば、それを尊重してほしいです。故人の作品に「未公開」「未発表」って書いてあると「え、どうやって確認したの?」というのが私のが最初に思ってしまうことです。
 この2つのケースでは、発表を前提に原稿が書かれていることは明瞭なのでひっかかりません。私が気になるのは、本人の意思に反した発表ではないことが、雑誌を読むまでわからないというところです。問題ないケースなのに、問題あるように見えています。

 ということで、私が言いたいのは「「未公開」「未発表」って書くのやめませんか」ってことです。
 こうした作品を採録する場合は、「未収録作品」(←何にとは明示しない)、「全集未収」あたりが通常の文学作品で書かれている説明だと思います。
 短歌に関わる人がみんなこれでよいという認識とは思いませんが、同じ永井さんで連続して起こったので気になって書きました。

 

※もちろん、公開されているものなら何でも自由に掲載できるかというとそうではなく、著作財産権の範疇の話になります。また別の話題です。故人の作品の再掲載には許諾が必要です。



1月6日の追記
(関連話題)

永井さんの「未発表」作品について
https://note.mu/klage/n/nbf3f2f689e9e

著作権についての考え方
https://note.mu/klage/n/n2d93943e6dbf

中西亮太さんのブログの「故人の未公表の著作物を公表できるか」+コメント
https://note.mu/klage/n/nbb868c393590


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