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ゴジラとピカチュウ~ハリウッドが示した日本キャラクターの可能性~

この春、日本発のキャラクターが2つハリウッドで映画化された。『GODZILLA: King of the Monsters』(以下KotM)と『名探偵ピカチュウ』である。ゴジラとポケモンの2つには共通点がある。「初代が圧倒的なユニークネスを持つ」という点だ。一方今回ハリウッドで作られたこの2作は、初代の唯一にして最高とも言える世界観にどのように立ち向かうかという点で、全く異なるアプローチを取った。ゴジラは「史上最高の二次創作」を、ポケモンは「世界観のアップデート」を目指したのである。

『KotM』あるいは史上最高の二次創作

過去60年以上に渡る歴史の中で、ゴジラが担ってきた役割は主に以下の3つに分けられる。

1.厄災の象徴としてのゴジラ
2.正義のヒーローとしてのゴジラ
3.自然の一部としてのゴジラ

「厄災の象徴としてのゴジラ」は、1954年の初代ゴジラが絶賛される理由の1つである。敗戦から10年も立たぬ中、戦争による破壊と絶望の象徴としてゴジラは描かれた。核実験によって生まれたというその設定もさることながら、他にも戦時中の光景を意識したと思われる描写がある。例えば劇中、ゴジラ襲来後に主人公たちが病院に立ち寄るシーンがあるが、それは実際に空襲を受けた後の病院などとほぼ同じ有様だったに違いない。

一方で、この「厄災の象徴としてのゴジラ」というテーマは初代の完成度が高く、このモチーフにチャレンジする作品自体が少なかった。ゴジラ第五作で宇宙怪獣キングギドラという「外敵」が登場して以降、ゴジラは「宇宙人や宇宙怪獣と戦う地球の味方」となり、2の「正義のヒーローとしてのゴジラ」が誕生した。

そして1984年版『ゴジラ』以降、正義のヒーローという路線は撤回され、再びゴジラは人類の前に立ちはだかった。ただ「核が生んだ怪獣」という設定こそ保持されたものの、初代のようにゴジラが何かの象徴として描かれる色は薄く、「人類の手で撃滅できない」かつ「繰り返し日本を襲う脅威」という立ち位置になった。これには(娯楽映画としての評価はさておき)「それが本当にゴジラを使ってことでしか作れない映画なのか」「台風や隕石などの自然災害とゴジラは何が異なるのか」という疑義が突きつけられた。自然現象の一部が災害として人間に害をなすように、ゴジラもまた自然秩序の一端として、「たまたま」人間に被害をもたらす。これが3の「自然の一部としてのゴジラ」である。

そしてその「自然災害としてのゴジラ」を徹底し、「311という厄災の象徴としてのゴジラ」に昇華させたのが『シン・ゴジラ』であった。初代ゴジラがゴジラ被災後の街をあたかも空襲後の街のように描いたように、『シン・ゴジラ』もまたゴジラ被災後の街を311被災後の街のごとく描いた。初代以降、真っ向から「厄災の象徴としてのゴジラ」を描いた中では唯一成功した作品と言っていい。

では今回の『KotM』は何だったのか。端的に言えば、3「自然の一部としてのゴジラ」ど真ん中だ。やや正義のヒーローよりの立ち位置ではあるが、ゴジラは自然の一部であり、地球全体の秩序に組み込まれている。つまり人間が抹殺できる相手ではないが、全くの敵でもない。そしてもちろん厄災の象徴でもない。災害のように人類の前に現れ、立ち去っていく。個人的にはいわゆる平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)の延長線上に近い立ち位置に思えた。

なので『KotM』はゴジラの扱いについて新規性があるわけではない。では何が特徴的だったのかといえば、1つは「引き画」の構図の凄さだ。日本のゴジラシリーズで重きが置かれていた「東宝特撮」的な見せ場、つまり怪獣が街を壊すシーンや怪獣同士の取っ組み合いはあまり強く印象に残らない(もちろん描かれてはいるが)。それよりも、例えば南極で輸送機を挟んで対峙するギドラとゴジラを引きで描いたシーン、ギドラが火山頂上に上り十字架と映る引きのシーン、などまるで絵画のような(映画なのに!)ワンシーンが特に印象に残った。そしてもう1つは過去の日本のゴジラシリーズへのオマージュと思われるシーンだ。死にゆくモスラが光の粉となってゴジラに降りかかりゴジラが復活するシーン、核熱暴走直前のゴジラが体に赤い亀裂を入れて暴れるシーン。『KotM』は従来のゴジラファンが目頭を熱くするシーンの連発であった。

「自然の一部としてのゴジラ」は、台風や隕石の襲来と何が違うのかという疑義を突きつけられると先に書いた。では『KotM』が持つ「ゴジラらしさ=ゴジラでしか作れない映画たる要素」とは何か。他でもない、上に挙げたような、随所に散りばめられた「ゴジラファンの望む<ゴジラらしさ>」である。こうした過去作へのオマージュは、当たり前だが決してゴジラ以外の映画では出来ない。「ハリウッド版ゴジラ映画のゴジラらしさはゴジラらしさ」である。これはトートロジーのようにも聞こえるが、つまり『KotM』はよく出来たゴジラの二次創作なのだ。それもただの二次創作ではない。マイケル・ドハティ監督という生粋のゴジラオタクがハリウッドの莫大な金をかけて作った二次創作だ。そしてこのコンセプトは、資金力で圧倒的に劣る日本の映画シーンでは無理といっていい道筋でもある。『KotM』は、ゴジラファンが「どこかで見たことのあるような、でも新しい」<ゴジラらしさ>を望む限り、その主導権は日本を離れ、資本の論理に従う=アメリカに渡るということを示唆している。

『名探偵ピカチュウ』~ポケモンに毛が必要だった理由

一方で『名探偵ピカチュウ』はポケモンの世界観が今後さらに進化する可能性を示した。まず日本国内でハリウッド版の新作が明らかになった時の反応は、ゴジラとポケモンで正反対だった。『KotM』は、2017年の『キングコング: 髑髏島の巨神』ラストシーンでゴジラとギドラらしき壁画が映ったその時から(ゴジラファンに)今か今かと待ち望まれていた。しかしふさふさした体毛を持つハリウッド版ピカチュウが発表された時、既存のポケモンファンは相当な困惑を持って彼を出迎えた。なにせピカチュウだけならまだしも奴らは「ふうせんポケモン」のプリンにまで毛を生やしたのだ。同じ星に住む人間がやったとは思えぬ所業である。ハリウッド版ドラゴンボールのような徹底した原作破壊を覚悟したファンも多かったはずだ。

ところがいざ公開されてみると、評判が良い。当初「解釈違い」として黙殺も辞さぬという態度だった日本のポケモンファンが、手のひらを返したように「面白い」「リアルなポケモンが案外良い」と言い出したのである。最初の期待値が地獄の底より低かったというゲタは履いているものの、前評判からすると相当上振れした結果と言えるだろう。では何が良かったのか?

もちろん毛の生えたリアルなポケモンの描写がよくできていたという個別要素もあるが、それ以上に重要なのが、ポケモンの新たな世界観を提示した点だ。冒頭で「厄災の象徴としてのゴジラ」においては初代ゴジラが抜きん出ているという話をしたが、ポケモンもまた同様に初代=赤緑の設定が後年の作品と比べ一線を画している。ポケモン赤緑は、当時人気だった他のRPGと違い、当時多くの子どもたちが住んでいたような郊外を中心とした世界観となっている。ドラクエが中世ヨーロッパの世界観を上手くトレースしたように、ポケモンは1990年代の日本における都市を非常に上手く冒険の舞台とした。ポケモンの生みの親として知られる田尻智は、郊外都市である町田市の出身だ。僕自身もそうだが、そんな郊外の子供にとって、最もリアルな「外部」は、剣と魔法の世界ではなく、東京のような大都市やジブリに出てくるような自然だ。だからポケモンは郊外の小さな街で育った主人公が、街を離れ、大きな都市や自然の中を旅する。そしてそこに出てくるのは倒すべきスライムやゾンビではなく、夏休みに両親の田舎で捕まえた昆虫のような、「ゲットする」対象である。

しかし続編の『ポケットモンスター 金・銀』で早くも「郊外の物語」としてのポケモンに変質が生じる。ホウオウやルギアといった「神話」に基づいたポケモンの投入である。ルギアもホウオウも、ポケモン図鑑によればポケモンの世界における神話に登場する。ここで言う神話とは、実際に僕らが生きるこの世界に存在する神話ではなく、ポケモンの世界の中における固有の神話である。これにより、ポケモンはポケモンの中だけで閉じた架空の世界観を持ち、代わりに「郊外の物語」との連続性を失った。要はファンタジーへの移行である。さらに続く『ポケットモンスター ルビー・サファイア』において、グラードン・カイオーガを中心とした天地創造神話を採用したことにより、ポケモンのファンタジー化は決定的なものとなった。

このように、ゴジラと同じくポケモンもまた、初代が後続の作品と一線を画すユニークネスを持っている。ではハリウッド版『名探偵ピカチュウ』は何が新しかったのか。それはこの映画がポケモンと人間が共生する極めてリアルなシーンを描いたことにある。ポケモンが人間の生活に溶け込み、共生する姿はアニメ版ポケモンにももちろんあった。だがアニメと今回のハリウッド版には大きな違いがある。1つは実写という面も含めた「それっぽさ」である。交通整理を行うカイリキーは日本のアニメにも出てくるだろうが、繁華街のバーで働くルンパッパは決して出てこないだろう。そして賛否両論だったあのふさふさの毛も、ここまで人間の世界に溶けこませるのであれば、確かに動物としてのポケモンを描くために必要だった。

2つ目は、実はハリウッド版『名探偵ピカチュウ』では、ポケモントレーナー同士のポケモンバトルが描かれていないという点だ。舞台となるライムシティではポケモンバトルは違法となっている。一応、地下バトルとしてなりゆきでピカチュウがリザードンとポケモンバトルをすることになるが、ピカチュウがわざの出し方すら忘れており、実質的に不成立となっている。ポケモンがトレーナーの指示で他のトレーナーのポケモンと闘うシーンはほぼ無い。もし本当に人間とポケモンが共生するならば、ポケモン同士を傷つけ合わせるバトルがどのような位置づけになるのかを『名探偵ピカチュウ』は明確に描いている。

こうした世界観は、「もしポケモンがこの世界にいたならば」というIFを、リアルなこの世界に実装する際の大きな参照点となるだろう。やや話が飛躍するが、ポケモンはディズニーランドのような「ポケモンだけの閉じた世界」をおそらく作らない。代わりにポケモンGOのように、テクノロジーの力で地球全土をポケモンの住む世界に書き換えるだろう。もちろんそれはハリウッド版『名探偵ピカチュウ』が描いたような、本当に人間とポケモンが共に生きる世界のはずだ。そしてそれはかつて田尻智が作り上げた「郊外の物語」としてのポケモンの、進化形でもある。

そして本来語られるべきこと

僕は今年で33歳になる。小学生のころゴジラに夢中になり、またポケモンに夢中になった。まさに今東宝がその財布を掌握しようとしている対象世代のど真ん中だ。だから『KotM』がいくら金を掛けた二次創作だろうと、両手を挙げて歓迎するし、いくらハリウッド版『名探偵ピカチュウ』がポケモンの新しい可能性を示そうと、プリンに毛は無いとあと百回くらいは言うだろう。それでも改めて振り返ると、ハリウッドはゴジラというキャラクターを延命こそすれ、その新たな未来を提示はしないと思う。同様にいくら風船に毛が生えていようとも、ハリウッド版『名探偵ピカチュウ』はポケモンと人間の関係における新たな方向性を示したと思う。

そしてここまで書いておいてなんだが、『KotM』と『名探偵ピカチュウ』を並べた上で本来語るべきなのは、今回僕が書いたような脚本や世界観の話「ではない」と思っている。というのも『KotM』と『名探偵ピカチュウ』には実はあと2つ、共通点がある。1つはCG。『KotM』のCG描写を担当した企業の1つであるMPC社は、ハリウッド版『名探偵ピカチュウ』のCGも担当している。このMPC社抜きでは『KotM』も名探偵ピカチュウも世に出なかったわけで、CG技術の進化と日本キャラクターの関係という切り口で色々と語るべきことはあるはずだ。

もう1つはいずれも東宝という日本を代表する映画会社が関わっている点。奇しくも『KotM』公開2日前の5/29、株式会社ポケモンの事業戦略発表会で、株式会社ポケモンの取締役に東宝の人間が就くことが発表された。これらのことから、東宝が日本のキャラクターをどう海外で活かそうとしているのかという話は、もっと語られていいはずだ。

ということで、僕は自分がドストライクな世代なのもあり、好き勝手書いたが、本来語られるべき『KotM』と『名探偵ピカチュウ』の比較論はまだ残っている。個人的には是非読みたいのでぜひ誰か書いて下さい。もしくはもうすでにあるならば教えて下さい。

「私は好きにした。君らも好きにしろ」――牧悟郎

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