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「ゴジラ -1.0」が越えた一線

※例によってネタバレには一切配慮しません。

初見の感想

ゴジラがついに「超えざるを得ない一線」を越えた。『ゴジラ -1.0』を観た最初の感想がそれだった。
『シン・ゴジラ』(2016)は初代ゴジラのリメイクとして完璧だったが、それはゴジラを「何らかの恐怖の体現者」として見立てたうえで、『ゴジラ(1954)』(以下初代ゴジラ)が「戦争の恐怖」の体現者であったのに対し、『シン・ゴジラ』は「災害の恐怖」の体現者として現代に蘇らせたからだった。
『ゴジラ -1.0』もまた、「恐怖の体現者」というゴジラ像から逃げなかった。それどころか、「戦争の恐怖の体現者」としてのゴジラというストレートなリメイクを選択した。しかも初代ゴジラより前の時代という、より一層戦時色の残る時代設定だ。
そうなったとき、映画表現としてやらねばならないことが一つある。やらねばならないというより、やり残されたことと言った方が良い。
東京に原爆を落とすのだ。そして『ゴジラ -1.0』はそれをやってのけた。
『ゴジラ -1.0』の銀座襲撃時、ゴジラが初めて陸上で放射能熱戦を吐くシーン。あの熱風、破壊力、そして熱線を吐き終えたゴジラの後ろに上るキノコ雲。まぎれもなく東京のど真ん中に原爆が落とされたシーンだった。核爆弾としての原爆ではなく、ゴジラに核爆弾のイメージを仮託したうえでの「原爆投下」である。
『シン・ゴジラ』が完璧だったこと、監督が「ALWAYS 3丁目の夕日」の山崎監督であり、かつ彼が脚本を書くらしいことを踏まえると期待値が低かった。だが潔く手のひらを返そう。本作は初代ゴジラのリメイクとして完璧だった。シン・ゴジラと同程度に素晴らしかった。

何でそう思ったのか

初代ゴジラは怪獣映画の体裁を借りた「戦争映画」だった。怪獣映画としてのゴジラは前年にアメリカで公開された『原子怪獣現る』の影響を強く受けており、歴史的には二番煎じの色合いが濃い。そこに公開当時未だ薄らいでいないであろう、太平洋戦争の記憶を埋めんだ。そうして出来上がったのが、「戦争の恐怖を体現した」存在としてのゴジラであり、初代ゴジラだけが持つ唯一無二の価値であった。
『シン・ゴジラ』はそれを「災害映画」としてリメイクした。海から逆流した水であふれかえる河川、ゴジラが移動することで広域にばらまかれた放射性物質、言うまでもなく東日本大震災の影響を強く受けている。現代を舞台にした初代ゴジラのリメイクとして、『シン・ゴジラ』は完璧だった。「戦争の恐怖の体現者」としてのゴジラが、「戦争」の部分を「災害」に置き換えて現代に蘇ったのだ。
そのうえで『ゴジラ -1.0』が「戦争の恐怖の体現者」としてのゴジラという初代ゴジラと同じテーマを選んだ場合、初代ゴジラにはない表現が求められる。残ったピースはゴジラにより強く「核の恐怖の体現者」としてのイメージを持たせることだった。初代ゴジラは作品を作るきっかけとしてビキニ環礁の水爆実験、第五福竜丸事件など核の影響を強く受けているが、作中の表現としてはどちらかというと「戦争全般の恐怖」を体現している。『ゴジラ -1.0』はそこを先鋭化させ、「核の恐怖の体現者」としてのゴジラ表現を強くした。

気になるところ

細かいところを掘ると色々と気になる点はある。
・1947年時点で太平洋戦争を「先の大戦」と表現してる(単に「戦争」というのでは?)
・ヒロイン役(浜辺美波)関連のシナリオだけやたらとご都合主義(そして無くても映画全体は成立するあたりマジで単にいい顔の女優が出てるだけになっている)
・たまに見る「俳優の演技が仰々しい」という件は、本作に限らず特撮映画のお約束的なところがあるので仕方ないと思う。ライダーとか戦隊ものとかも普通のドラマや映画とちょっと違う。
・一方で弊害もある。佐々木蔵之介の演技がハマり過ぎており、やや主役(神木隆之介)を食ってしまっている。たまにどっちが主役か分からなかったよ。設定上仕方ない面はあるんだが……。
・伏線が伏線過ぎて割と先が読める
等々挙げると実際色々あるんだが、銀座襲撃のシーンで5000億点くらい加点されるのでヨシ。特撮ってそういうもんでしょ。

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