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ssss.gridmanが最高だった一方でとってもモヤモヤする理由

ポケカ勢が一斉にnoteを書き始めた2018年の年の瀬。以下がお過ごしでしょうか。そんなことは一切関係なくアニメの話を唐突に書きます。いいのだココはnoteなのだから。あ、当然ながらネタバレ全開です。

ssss.gridmanを観た。最終話まで。存外難しいアニメだった。観た直後はこんなことを呟いたが、当然一晩経ってよく考えてみるとなかなかこう言い切れないところもある。

実写版のグリッドマンをリアルタイムで観た自分にとって、そこかしこに散りばめられた実写版オマージュの要素で喜ぶことは非常に容易い。脚フェチの自分にとって、六花とアカネの脚/足を交互に楽しむことも非常に容易い。だから冒頭のツイートも全くのウソではない。

ところが。

(今がどうかはさておき)アニメが基本的に批評される存在であった時代の自分にとって、ssss.gridmanの「中途半端な語りやすさ」は実にむず痒いというか、言語化しがたい違和感を伴っていた。

最終話の最終カット、要はあの実写シーンを観た時僕が口にしたのは

「なるほどね?」

だった。ssss.gridmanの物語上、アカネはその世界の創造者であり、祐太も六花も内海もみんなアカネの被創造物である。ただし細かいことはあまり語られていない。何故グリッドマンやアレクシスがこの世界に来たのか、アシストウエポンの奴らはなぜ人間の形をしていてどこから来たのか。いや本当に新世紀中学生のやつらあんなキャラ立ちさせておきながら何も説明ないって何なんだよ。

当然、子供向けの特撮にそうした細かい背景設定は基本的にないし、あっても外部メディアで語られるくらいで本来は「視聴者は気にしなくていい」構造になっている。そうなっていないと、多分本来脚本としてはマズイはずだ。

でもssss.gridmanは正直色んなところが気になった。上記のどっから来たんだ話もそうだし、結局内海はなんだったんだみたいな話とか。実写版の「主人公-ヒロイン」に次ぐ「第三の男」だった一平は、なんだかんだアシストウエポンの生みの親として活躍していた。一方の内海。なんやねん一般人代表って。

いいんですよこれが本当に子供向けの作品だったら。でも明らかに僕らはこれが子供向けの作品じゃないってわかってるし、だからこそ、いつかそれらが解明されるのだと思っていた。当然「視聴者」たる我々は(そして子供じゃないオトナである僕たちは!)、最後にはこの世界の全容について知ることができる、知る権利がある、あまつさえ、「知らされるべきだ」とすら思っていた。

アカネが「自分が作った世界を全てコントロールできる」と思っていたように。

そこにあの夢オチである。

確かにあれなら全てが「アカネの二次創作」(ないしは夢)で説明がつく。誰かが作ったグリッドマンの二次創作なんだから、世界の説明がなされないことがあっても仕方ない。二次創作だからね。

そんなわけで先の「なるほどね?」が出てきたのである。

でもね。これってそんなに最後に「納得」しないと観れないアニメだったのだろうか。それはきっとそんなことはなくて、怪獣の造形やアニメでのダイナミックさ、アシストウエポン、実写版オマージュシーン、女の子の脚とか足etc.に「いいね!」と言っていればいいアニメだったのではないか。

でもだったらあんな小難しい、いや難しくはないんだけど、無理やり僕らを納得させる構造を持たなくても良かったのではないか。これはある意味では結構残酷で、それこそ旧劇場版エヴァなどは作り手側が視聴者側に露悪的に唾を吐いてきたが、ゆえに僕らは中身の良し悪しの前に「なんだあの舐めた作品は」と露悪的なカウンターが出来た。友達と「あれはねーわ」と話のネタにでもすればいい。

でもssss.gridmanは違う。僕らに怒ることすら許さない。怪獣だ六花だアカネだ実写版だと騒いでいればいい。そう納得させてくる。だってあれは二次創作だからね。細かいことは気にしなくていいんだよ。

僕らは一般人なのだから、そうしてれば良かったのだ。内海のように。

だからここ何日かssss.gridmanの批評記事を読んで、個々にはなるほどと思う箇所もありつつ、全体的に腑に落ちないのは、そんな構造なので、結局この作品は批評したもの負けみたいな構造な気がしてならなかったからです。

別に勝ちも負けもないってのは分かってるんですけどね。こう、純粋に萌え豚できない自分に引け目があるのかもしれない。そんなクリスマス。なんだそりゃ。

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