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この国には何でもある。だが、希望だけがない。

この国には何でもある。だが、希望だけがない。

20年前に読んだ村上龍の小説「希望の国のエクソダス」で少年が語っていた言葉だ。

そして、その言葉は現代の日本において、さらにリアルに響く。

今更ながら「希望」について考えてみたのだが、一昔前の戦後まもない頃の日本において「希望」とはマイホームや車に代表される目に見える豊かさであり、物質的な生活の拡充がそれであった。

物質的な豊かさが満たされた現代において、次に目指したのが精神的な豊かさであったと思うのだが、家や車、食事、洋服と異なり、精神的な豊かさは目に見え、手にすることが出来ない為、多くの人たちが「希望」を見失ってしまったと推測する。

そのため、自分探しやスピリチュアリズムが流行したり、お笑いやゲームといった分かりやすエンターテインメントに流れる人も多いのだろう。

しかし、内実が伴わないものが多いので、すぐに消費されてしまい、手を変え、品を変え出てくる模造品の数々に飛びつき、結局は自分自身が消費社会のコマとなり、希望を失っていくという次第だ。

だが最近、そろそろ新たな希望が打ち立てられる時期が近づいてきているのではないだろうかと感じている。

20年前、「希望の国のエクソダス」が発売された当時の日本と異なるのが、現代の日本に少しずつ「怒り」の兆候があらゆる所で見受けられる点だ。

例をあげるならば、嫌韓であったり、安倍政権を糾弾する左派、ネット社会での罵詈雑言、ヘイト発言などだ。

これらは現在の閉塞した社会をますます、閉じたものとし、疲弊させ、ダメージを与えていくだろう。

しかし、その破壊のあった先に、一筋の希望が生まれてくると自分は考えている。

歴史的にも退廃したローマ社会にキリストの教えが希望となり、広まっていったように一つのパラダイムシフトが起こり得ると予感している。

そして、その希望とは、「誇り」ではないかと思っている。

最近、懐古的によく耳にする日本人としての誇りといった小さなものではなく、人としての誇りだ。

人としての誇りを持つということは人としてのかっこよさを持つことであるといってもよい。

どうしようもない程に、乱れ、弱った社会で、かっこよくさっそうと、粋にいきてゆく、そんな誇りをもった仲間たちと生きていくことが今の自分にとっての希望の一つだ。

エクソダス 地獄の鬼と フラダンス 我が身よ焦がせ この世を照らせ

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ぴんぱ

読書や詩作、武術、芸術を通じて強さや美しさ、愉しさを探求しています。強く影響を受けた人物は桜井章一、執行草舟、成瀬雅春、野口晴哉、狩撫麻礼。
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