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毎日いろいろ、人生いろいろ。

2018年、春の作品発表会。第2弾。
青・ばら・アイドルの3つのテーマ三篇と、
ワイン・人生ゲーム・ギターの3つのテーマ一篇です。

我儘       著:納村紗奈
奇襲          著:さ哉
(無題)     著:ひらまりこ

他者の興醒め   著:文洋 秀



我儘       著:納村紗奈

 東京から約2時間。技術の進歩というのは新幹線と同じくらい速い。うとうとしているとあっという間に別の場所に着く。おいていかれるのは嫌だが、急かされるのも気分が悪い。以前友人にそう言ったら、ただの我儘だと一蹴された。人のしがない本音なのだから、あんなにバッサリ切らなくてもいいと思うのだが、今言っても仕方がない。聞き慣れた駅の名前がアナウンスされ、私は多い荷物をまとめた。

 高原と地名に付く所は涼しいと聞いているが、ここは例外だ。暑い。本当に暑い。夏の太陽が張り切るような快晴だから余計に暑い。何故お前は高原と名乗っているんだと問い詰めたい気分だ。まぁ、変に色々考えてエネルギーを消費するのはよくない。暑いし。
 買い物の為に立ち寄るショッピングモールも、もはや涼む為に入っているんじゃないかと錯覚する。現に私は今フードコートでアイスクリームを食べている。いけない、このままでは手土産なしでお邪魔することになってしまう。溶けかけているそれを急いでかきこみ、買い物を済ませた。

 彼女はスイカが好きだ。気分の上下が多い人だが、今の時期はいつも機嫌が良い。彼女の家の縁側で美味しそうにかぶりついている姿を、私は何度も見た。あの黒くて煩わしい種だって、彼女の手にかかれば遊び道具になる。外に向かって種を飛ばし、その飛距離を競う。何とも古典的だが、それがどうしようもなく楽しかった。最後にやったのは何年前だろうか。そんなことを考えつつぼーっと立っていたら、手元が緩んで荷物がばらばらになってしまった。スイカは割れていないみたいだ。荷物を全て拾い終わってほっとした頃、白と青のタクシーがブレーキ音をたてて止まった。

 行き先を伝え後部座席に乗り込む。あまり喋らない人なのか、運転手は話しかけてこない。私もあまり喋らない方なのでありがたく思いながら、窓の外で延々と続く緑を眺めていた。

 走馬燈のようだった。
 彼女が隣に引っ越してきた日のこと。
 人形みたいな子が引っ越してきたと小学校で評判になったこと。
 彼女が初めて男子に告白されて、私も一緒にはしゃいだこと。
 中学生になり、私の何倍も制服を着こなしている彼女を見て嫉妬したこと。
 好きなアイドルのライブにどうしても行きたいと駄々をこねるので、初めて子どもだけで新幹線に乗って東京に行ったこと。
 同じ高校を受験して、一緒に見に行った合格発表の掲示。お互いの受験番号を見つけ抱き合って泣いたこと。
 2人で合唱部に入って、コンクールで金賞をもらったこと。
 文化祭の企画で私が描いたイラストを彼女が褒めてくれたこと。
 修学旅行で行った沖縄で初めて海を見た私と、懐かしいと言って波を蹴る彼女。
 イラストの勉強がしたくて東京の芸大を受験した私と、県内の大学に進んだ彼女。
 芸大に落ち、浪人してもダメで専門学校に逃げた私。
 大学の最寄駅でスカウトされたと大喜びで電話してきた彼女。

 少し苛立ったタクシーの運転手が起こしてくれなければ、来てもいない死を受け入れていただろう。今更どんな夢を見ているんだと自分に呆れつつ、目尻に溜まった涙を拭った。

 …本当は、あんな所で再会したくなかった。あんな線香の煙が漂う葬式場じゃなくて、あなたの家の縁側で、また一緒にスイカを食べて、思い出話をしたかった。もっと一緒に笑いあって、騒いで、しわくちゃになるまで一緒にいたかった。
 おいていかれるのは嫌だと言ったのに。そのくらいの我儘、受け入れてくれたっていいじゃないか。

 専門学校を卒業した後、ありがたいことにイラストの仕事をちょっとずつ貰えるようになった。彼女も無事就活を乗り越え、東京の広告会社に就職した。連絡はちょくちょく取っていたけれど、お互いのスケジュールが合わずなかなか会えなかった。私の方はほぼフリーのようなものなのでいくらでも調整できたのだが、彼女は会社勤めでそうもいかなかったらしい。
 一度だけ、彼女が何の脈絡もなく電話してきたことがある。依頼主との打ち合わせ中でその時は出られず、かけ直したが繋がらなかった。それ以来、彼女から連絡は来ない。

 墓参りを済ませた頃、母の車が墓場の駐車場に入るのが見えた。今日帰ることは伝えてあったので不思議ではないのだが、迎えはまだ頼んでいなかった。電車に乗った時間の割には連絡が遅いから、ここに寄っているかもしれないと思ったのだそうだ。荷物の多さに文句を言われながら、車のトランクに荷物を入れていく。スイカも入れちゃいなさいと言われたが、もう一瞬たりとも手放してはいけない気がして断った。

 彼女の死を知ったのは、実家からの電話。まるで身内が亡くなったような母の声で嘘ではないことを悟った。面会での打ち合わせをSkypeに変更してもらい、新幹線に飛び乗った。あの日の新幹線だけは妙に遅くて苛立った覚えがある。
 病死だった。就職先が決まった頃に大学で倒れ、それ以来入院していたらしい。私は全く聞かされておらず面を喰らい、何故言ってくれなかったのだと母を問い詰めた。彼女が私に言うなと周りに厳命していたと、それを見ていた父が静かに言った。

 粗方の荷物を実家に置き、スイカと東京土産を持って彼女の家を訪ねた。わざわざありがとうと頭を下げた彼女の両親の髪は、葬式で会った時よりも白髪が多くなっていた。
 スイカを彼女の母に預け、仏壇に向かった。遺影に使われていた写真とは別の写真が置いてある。沖縄の海で私と撮った写真だ。彼女はこの写真をいたく気に入っていた。本当はこの写真を遺影にしたかったが、私が写っていたので泣く泣く別の写真にしたのだという。切ってもらったスイカを1切れ仏壇に供え、彼女と一緒にスイカを食べた縁側に座った。何故彼女は私に話してくれなかったのだろう。あらゆることを真っ先に報告してくれていた彼女が、何故自分の命の危機は教えてくれなかったのだろう。それだけが分からず、唯一の心残りだった。

 スイカを頬張りつつ庭を眺めていると、いつの間にか彼女が隣に座っていた。普通は驚く所なのだが、不思議と心が落ち着いてしまって、同じくスイカを頬張っている彼女の横顔をじっと見ていた。彼女はそんな私をちらりと見て、おもむろに口を開いた。

「仕事の邪魔したくなかったんだよ。仕事貰えるようになったって喜んでたから。あとは、私の我儘。あんたが我儘言ったから、私も言ったって良いでしょ?」

 …おいていかないよ。ずっと一緒だから。

 涙が止まらなくなった私を見て笑いながら、彼女は庭にスイカの種を飛ばした。



奇襲     著:さ哉

 HOME、ミュージック、全曲一覧、シャッフル再生の順番でリズムよく画面をタップすると、1K六畳の部屋に流れたのはリズムを刻む弦と心地いい鍵盤の音だった。一曲目はどうやら、くるりの「ばらの花」らしい。スマートフォンをスリープにして、目の前のちゃぶ台に置く。

 昔から、線を引くことが苦手だった。集中力が足りないのだろうか。直線も曲線も想定とかけ離れて不格好に歪むから、フリーハンドなんて作業は指先の気まぐれな動きを為すすべなく眺める時間でしかない。付随して、字や絵をかくのも下手くそだ。脳内のイメージをそのまま可視化させ、提示できる人間はほとんど神様じゃないだろうか。正義のにおいがするから怖くて近づけないけれど、自己表現やクリエイティビティという言葉にはやっぱり素直に憧れてしまう。だけどそんな私でも、ソフトパステルという存在を知ってからはそれまで宿敵だったスケッチブックと少しだけ仲良くなれた。もちろん神様には程遠いけれど。
 今回のテーマは青。プラスチックのケースから群青色のパステルを取り出して真っ白なページの上に乗せる。それだけで、少し照れてしまうのは何故だろう。しばらく眺めてからさっと手に取る。力を入れすぎず、笑い出しそうな程ゆっくり、薄く、線を引く。何本か引いたらパステルを戻して、今度は手のひらでごしごし擦る。すると、ウルトラマリンの顔料があやふやに伸びていく。群青が、7×7×45mmの直方体から、平面上の線から、ただの「色」へと帰納していくのをときめきながら眺める。そうやって塗っていく。
 ばらの花は大サビに差し掛かっていた。ジンジャエールが飲みたくなったので、代わりに1缶36円のサンガリアラムネを開ける。プルタブを引くと軽快な音と一緒に独特な甘さが鼻先を掠めた。人工的な香料のやさしい匂いは、悲しくて寂しくて仕方ない気分に不意に襲われて、取りあえず笑ってみるときに似ている。まぬけでくすぐったくて涙腺を刺激する甘さが、この曲の美しいメロディーからも、ほのかに香る。
 それぞれ18色入り108円。基本色と補助・蛍光色の2種類があるダイソーのソフトパステルは、プロが見れば満場一致で安物なのかもしれないけれど、私にとっては最高のおもちゃだ。F4サイズのスケッチブックを前に、わくわくしながら色を選ぶ。群青の次はホリゾンブルー。ここにはあおみどり。こっちにはコバルト。ブルーバイオレットの端っこにはフタログリーンを侵入させて、ライトブルーには微量の黄色をかくまう。親指の腹で軌道をつけたり、指の付け根でおおきく回しこんだり、人差し指でわざと跡を残したり。混色に失敗して真っ黒にならないよう、使うのは基本的に同系色と決めているのだ。ポカリスウェットで水分を補給するように、ごくごく青を重ねる。手のひらにべったり色がつくのも、誰にも取り出せない二次元のパレットから私だけお裾分けをもらってしまったみたいで楽しい。時計の針もご機嫌よろしく進んでいく。

 スマートフォンからは気まぐれな音楽が順調に流れ続けていた。少し前まで保険会社のCMでよく聞かれた応援歌のアウトロが終わる。数秒の沈黙を破ったのは、電子音に混ざった魅惑的なギターの音だった。ずっと応援しているアイドルのアルバム曲だ。ファンへの感謝を込めてメンバー全員で作詞したらしい。ありがとう、と何度も繰り返すCメロを一緒に口ずさみながら、なんだかおかしい気持ちになった。どんな至上の名曲に勇気づけられ孤独を癒されても、その歌詞に出てくる「君」が私だったことなんて一度もない。恋い焦がれたり、信頼したり、その不在に悶え苦しむ「君」の奥に、世界中の誰も私を透かして見たりはしない。そんなこともうとっくに知っているのに、どうして性懲りもなく音楽を聴いているのだろう。どうして全然寂しくないのだろう。「借り物の勇気で構わない、そこに確かな鼓動があるなら」と歌っていたバンドマンの昔のアルバムが聴きたくなった。

 ピろんっ
 突然、軽快なサウンドがメロディーを遮って驚く。スマホを見ると、SNSの新着通知を表すライトが青く点滅していた。音楽のボリュームと一緒に着信音まで最大にしたのを忘れていたのだ。背面スピーカーから流れる、京都弁を操る歌姫の「愛のうた」をハミングしながらロックを解除する。手を洗っていないから画面に靄のようなパステルがついてしまったけれど、特段ためらいはなかった。

「――さんが久しぶりに投稿しました」
 心臓が一度、怖いくらい大きく跳ねた。普段は無視するような通知内容に、からだが固まって動かない。小学校2年生のとき、「午前0時に掛け布団からはみ出して寝ていると、大きなはさみを持ったお化けに足を切られてしまう」と姉に吹き込まれた夜を思い出した。少しでも動いたら、恐ろしいお化けが襲いかかってきそうだ。あの時は部屋の隅や天井裏に潜んでいる気がして怖かったけれど、今はもっとたちの悪い場所にいる。脳の血流がトップスピードを叩き出して思考が冴えていく感覚。頭の中でけたたましい逡巡が始まる。
 通知を開いて投稿を見ようかな。駄目、嫌な予感がする。でも、だって。いいからスマホを置け。うーん、だけど。黙ってやめとけって、あとで絶対後悔するから。いや、うん、やっぱり見よう。やめとけ、やめとけ、頼むから。

「やめとけ」

 意図せず声になった言葉に我ながら驚く。その一瞬の隙をついて、反旗を翻した親指が通知をタップしてしまった。画面いっぱいに、男の子と女の子が肩を寄せ合ってはにかんでいる写真が表示される。うわまじか。ほら、やめておけばよかったのに。慣れていなさそうな構図の自撮りでは撮影場所がどこなのかもわからないけれど、ふたりの笑顔から楽しいデートを想像することは簡単だった。このカップルへの肯定を表す「いいね」の多さより、投稿に添えられた「いつもありがとう。これからもよろしく。」というやさしくて短い文章が、何より私の心臓を刺す。

 あのね。
 恋人がいることくらい知ってたよ。
 だけど驚いたな。
 君が、彼女との2ショットをSNSにあげる男の子だとは思わなかったから。

 苦手なのは紙に線を引くことだけじゃなかった。むしろ私には得意なことの方がずっと少ない。単数でも複数でも、生きるというのはそれだけで異常なほど難しいのだ。轟音をたてて超スピードで過ぎていく時間の真ん中で、強い向かい風に呼吸を奪われ何も出来ずにやり過ごしているようだなと思っていた。だけどあの子はいつだって、軽々酸素を吸っては、そういう、幼稚で馬鹿らしいけれど死に至る量の苦しみから私を救いだしてくれた。あの子は私の名前だって知らないのだろう。だけど、教室の向こうの楽しそうな話し声とか、平等な笑顔とか、授業中に器用に寝る姿とか、何故か目で追ってしまうあの子のひとつひとつを思い出すたび、私はいつも、どんなに苦しくても正気に戻れたのだ。依存した自己嫌悪を捨てて背筋を伸ばす勇気をもらえた。本当は、美しいメロディーも、大好きなアイドルも、あの子には敵わないとずっと思っていた。
 そうやって勝手に窃取した都合のいい緊張感を、恋愛に置換したのは私のミスだ。こんな感情は嫉妬ですらない。泣きそうな自分を殺したかった。
スマートフォンを道連れにして、からだをベッドに投げ出す。頭上の蛍光灯に手のひらをかざすと音もなく濃い影が覆った。綺麗な青からも、混色に失敗した黒からも、こんな風に彩度を落とせば向き合わずにすんだのに。あの子からもらった感情は、いつだって想定外に鮮やかだ。
 大サビに突入したバラードは、いよいよ盛り上がってはしきりに恋の切なさを訴えている。底抜けに共感できて、底抜けに他人行儀なラブソング。全然寂しくないけれど、今は黙っていてほしい。停止ボタンは押さずに音量だけを0にする。青く汚れた手はそのままに、眠りにつこうと目を閉じた。

 あのね。
 私にとっての「君」は、いつも、どうしようもなく、君なのに。



(無題)     著:ひらまりこ

『しょうらいのゆめ』
 森先生がチョークで大きく文字を書いていく。先生の書くそれはとめ、はね、はらいまで完璧だ。
 黒板に書かれたそれを睨みつけて、わたしは鉛筆を持ったり置いたりを繰り返していた。
 将来の夢を書きましょう。今日の授業のテーマだ。
将来の夢なんて聞くと、多大なる無邪気や希望を期待されるようで気後れする。
「なんでもいいのよ。」
 先生はそう言って笑うけど、その『なんでも』が一番厄介だ。
 夢なんて、分かんない。自分はいつか大人になるんだろうか、なれるんだろうかということさえぼんやりとしているのに。
 手持ち無沙汰に鉛筆を紙の上に整列させて、周りを見渡す。熱心に書き込んでいる子、額をつきあわせて話しあっている子、足や鉛筆をぷらぷらさせている子、様々だ。
「なんでもって言っても、プリキュアとかはやめてね。出来れば職業がいいけど、無理そうだったら大人になってやりたいこととか.... 。目標でもいいよ。」
 森先生がそう付け加えたが、わたしは夢も目標もやりたいことも思いつかない。考えれば考えるほど書けなくなっていく。本来こういう類のものはその場で一番はじめに思いついたものを書くくらいがちょうどいいのだ。
 やりたいこと、やりたいこと。そこらにいいヒントはないものかとあちこち見回す。
 もう鉛筆を置いている子が多く見えて焦る。
 ちょうどその時、鞄の中から半分飛び出した本が目に入った。
 この前図書室で借りた恐竜大図鑑だ。たぶんこれを借りたのは十回目。大して活字が好きではないわたしが足繁く図書室に通う理由はこれだ。度々気に入りの恐竜図鑑のうちのどれかを借りては読み込んでいる。
 恐竜に会いたい。
 ふとそんな思いが頭に浮かんだ。その思いはどんな職業を書くよりもしっくりきた。
 骨でもレプリカでもない本物の恐竜を見てみたい。動いて吠えて生きている恐竜を間近で見られたら、それはそれは楽しいだろう。
 よし、これにしよう。
 わたしはいざ書こうと鉛筆を立てたが何も書かないまま、次のときには鉛筆を転がしていた。
 しょうらいのゆめの字に気圧されたのだ。
 こういう一見冗談に見えるような本気のことは、書くべきでない気がした。
 恐竜はもう絶滅してるんだよ、とか誰かにもっともらしく言われたら、きっとわたしは傷つく。知ってるよって毒づきながら、やるせない思いを抱える羽目になる。
 やっぱりやめた。
 わたしはまた手頃な嘘探しに取り掛かった。

 さんざん悩んで結局『がっこうの先生』と書いた。むろん本当に教師になるつもりはない。でも、森先生を見ているとちょっといいかもしれないと思えた。
 今日も教卓でポニーテールが揺れる。
 わたしは森先生が好きだ。恐竜の方が好きだけど、揚げパンと同じくらいには好きだ。
 絶対に怒鳴ったりしないし、「先生、先生。」と呼ぶと優しく目線を合わせてくれる。
 ものを書くときは決まって小さなばらの飾りが付いたペンを使うところなんかも、本当に素敵な人だと思う。
「そろそろみんな書けたかな。まだ書いてるひとー?」
 森先生が呼びかけた。誰も手をあげないのを確認して、黒板に貼るよう指示する。
 皆わらわらと前に群がって貼っていく。わたしはその群れになるべく紛れるようにして、下の段の左から三番目に貼り付けた。
 黒板に貼られた夢は皆さまざまだった。
 アイドル、しょうぼうし、じゅう医さん、ファッションデザイナー、ピアニスト、まんが家・・・ 。並んだ職業は、どれもちょっとずつ楽しそうで、ちょっとずつつまらなさそうだと思った。やってもいいけど、やりたいわけじゃない。
 森先生は端から書かれたものをひとつずつ読んでいって、時おり二言三言生徒と言葉を交わした。
 順に進んでいき、森先生はある用紙のところまでくるとうん?と首を傾げた。
 わたしもつられて目をこらす。

 ひこうきになりたい

           ふじおかひろき

 そう小さな文字で書いてあった。それを見てわたしは綺麗な字だな、と的はずれなことを思った。
「ひこうきかー。人間は飛行機にはなれないと思うけどなあ。」
 森先生は眉尻を下げ笑った。そしてそれ以上は言及することなく、次の用紙に移る。
 わたしはなんだか心臓のあたりが少し痛んだのを感じた。
 そっと振り返って藤岡くんの方を見たが、彼は大して表情を変えることなく座っているだけだった。
 なんだか面倒くさそうな、スカした顔をしている。彼の先生受けが悪い原因はこういうところにあるのだろう。
 わたしは前を向き直して、もう一度『ひこうきになりたい』と書かれた紙を見た。
 これを書いたのが藤岡くんであることが意外だった。だって藤岡くんは給食の時間に牛乳の早飲み対決に参加しないし、掃除の時もきちんと隅まで箒ではく。もっとも、その前のチャンバラごっこは嬉々としてやりたがるけれど。
 彼は結構、何を書くことを求められているのかを考えるほうだと思っていた。
 それなのに、ひこうきになりたいって何だ。
 気になってそれ以降の先生の話はほとんど聞いていなかった。ずっと藤岡くんとひこうきのことばかり考えていたら、あっという間に授業が終わった。
 休み時間が始まり皆が席を立ち出す。その中で森先生が藤岡くんを手招きして呼んだのが見えて、わたしは嫌な予感がした。
 森先生が藤岡くんに何か言って、新しい用紙を渡す。
 ああやっぱり。
 思いのほか、わたしはショックを受けていた。森先生にはそういうことして欲しくなかったのに。
 わたしの視線の先に気付いて藤岡くんがひらりと紙を振りながら言う。
「書き直しみたい。」
 まるで分かっていたようなその口ぶりに、とどめを刺された気がした。

 その日の放課後、図書室から教室へ戻ってくると窓辺の席でひとり、机に突っ伏している人が見えた。
 藤岡くんだ。
 彼はわたしが入ってきたのを見て、「おー。」と挨拶なのか何だか分からない言葉を発した。それきり鉛筆を机の上に放って微動だにしない。一緒に机上に放られた用紙が何であるかは、見ないでも分かった。
 わたしは図鑑をしまって、彼の前の席の椅子に後ろ向きで座った。
 目の前にある新しい用紙には何も書かれていない。と思いきや『ひ』と書いて消した跡が残っていた。
 その消し跡を見たらまた胸が軋んだ。これを書き直させるなんて、本当にセンスがない人だと思う。
 でも、森先生はこの前もわたしの恐竜の話を心底丁寧に聞いてくれたし、クビナガリュウのことを話してくれた。わたしは絶対森先生のことを嫌いになれない。だから余計に気落ちする。
 わたしがため息を飲み込んだとき、藤岡くんの髪が揺れた。窓からの風をまとったのだ。元気の無い持ち主とは対称に彼の髪、特につむじ辺りの毛は元気に動いた。面白い。
 ふと、そんないたずらがやって来たほうを見やる。窓の外、てっぺんのところ。澄んだ青の中には一筋の飛行機雲が浮かんでいた。白いクレパスで一本線をひいたような雲だった。
 わたしは藤岡くんのつむじの髪をつんつん引っ張る。彼は頬を机に付けたままこちらを向いた。
 ねえ、と空を示す。
 彼は緩慢な動きで空を見ると、目を見開いた。死んでいた目にやっと生気が戻る。
 わたしはひこうき雲が綺麗だとか、そういうことを言おうとしていたけれど、藤岡くんが次に呟いた言葉を聞いてやめた。
「いつ通り過ぎたんだろう。」
 ああそうか。この景色の中に藤岡くんが見るのは雲ではなく、通り過ぎていった飛行機なのだ。
 今さら思い知って、代わりにわたしはずっと気になっていたことを訊ねた。
「飛行機になりたいの?」
 わたしの問いに、彼は数度まばたきをした。長い沈黙のあと、まだ興味津々に待っているわたしを認めると、起き上がって頷いた。
「パイロットじゃなくて?」
 これにははっきり首を振った。
「パイロットじゃない。自分で飛びたいんだ。乗り物にのったらつまんないよ。」
 なるほど。
「鳥とかヘリコプターとかロケットとか、色々あるじゃん。」
「ロケットは宇宙に行くし......。俺は空が飛びたいからだめ。鳥もヘリコプターも違う。そうじゃなくて、飛行機はもっとさ、はやくて、格好よくて。」
藤岡くんが言い淀む。言葉を探すようにまつげを下げた。歯がゆそうにきゅ、と口を引き結んだあとに言う。
「飛行機がいいんだよ。絶対。」
 少し、拗ねたようにも聞こえる声だった。
 やはり藤岡くんは本当の本当に真剣に書いたんだとわたしは思った。
 きっと藤岡くんの中には気持ちも思いもたくさんあるんだろう。本物の気持ちが大きければ大きいほど、言葉への変え方が分からないもの、どんなにうまく表しても伝わらないものが多すぎて話せなくなるのだ。
 分かるよ、そういうの。わたしはそう心の中だけで呼びかけて、実際には
「わたしならプテラノドンにするな。」
 と言った。
 それほんと好きだよなー、と藤岡くんは呆れていた。
 それから藤岡くんはやっと鉛筆を持ち直して紙に何か書き込んだ。
 ひこうきになる。
 紙にあったのは相変わらず綺麗な字だった。

「やっぱりこれしか書けない。うん。もうこれでいいや。」
 藤岡くんは鉛筆を放ると、天井を仰いで欠伸をした。
 柔らかな静けさが流れた。
 わたしは窓枠の中でほどけていく濃い雲の片方の端をしばらく眺めた。それから景色の中にそっと飛行機を飛ばしてみた。
 太陽の輝く空に飛行機はよく似合った。
 この青をかき切って白の通り道を残していく。確かに、いいかもしれない。
「赤い空とか曇の日の方が合うね。」
 藤岡くんが言った。
 一瞬何のことだか分からず、訊ねるように藤岡くんの目を見ると彼はいたずらっぽく微笑んだ。
「プテラノドン。」
 もしかして藤岡くんも飛ばしてくれたのか。
 わたしが目をぱちくりさせるのを、藤岡くんは可笑しそうに見ていた。
「今日は飛行機日和だね。」
 とわたしが言うと、
「いい日和。」
 藤岡くんは歌うように返した。
 まぶしいほどの陽光に目を細める。本当に、いい日和。
 輝く青に、今度はプテラノドンを飛ばしてみた。隆々とした翼で羽ばたいていく様を想像した。たしかに、もう少し雲が多い日の方がいい。雲をまとって空を抜けていくプテラノドンが見たい。
 やっぱり恐竜に会いたいって書けばよかったかな、なんてわたしは少し後悔した。
 とその時、がらりと戸が開いて見知った顔が覗いた。
「俊先生。」
 俊先生は隣のクラスの若い先生だ。たしか苗字は高橋だったと思うが、なぜか皆高橋先生ではなく下の名前で呼ぶ。
「森先生いるかなって思ったんだけど、いないみたいだね。......居残り?」
 藤岡くんは曖昧に頷いて答えた。
「そんな感じです。」
 俊先生は机の上の紙を見とめて、あ、と声をあげた。
「それ、うちのクラスでも今日やったんだよ。」
 俊先生は近くまできて「見ていい?」と、訊ねた。藤岡くんは少し躊躇ったのちに、紙を先生に手渡した。
「ひこうきか。」
 へえ、と俊先生が目を瞬かせた。
 藤岡くんはなにかに備えるように、体を強ばらせて俯く。しかしそんなことは無用だった。俊先生は
「いいね、なれるよ。」
 と言ったのだ。
 あまりに真摯な響きだった。適当にいなそうという調子も咎める様子も微塵もない。
 わたしは思わず疑うように俊先生を見た。が、まっすぐな瞳が返ってきたものだから目を逸らしてしまった。
「人間飛行機なんてさ、面白いじゃん。うん、本当にいいよ。」
「ほんとに?」
 藤岡くんが顔を上げて言う。
 はじめて聞くような細い声だった。一瞬泣くんじゃないかと思うほどに、瞳が揺れていた。
 それを見た俊先生は藤岡くんの髪をわしゃわしゃとかき撫ぜた。そしてよっこいしょ、と近くの椅子に腰を掛ける。よっこいしょなんて、俊先生もおじさんになってきたのかもしれない。
「内緒話をしようか。」
 内緒話らしく俊先生は少し声のトーンを落とした。
「誰にも言ったことないんだ。今から話すことはここだけの秘密。いいね?」
 『秘密』という言葉にわたしは思わず身を乗り出す。
「俺が、高校生だった頃の話だ。俺にはすごく尊敬している人がいてね。俺はその人のこと先生って呼んでいた。本当に学校の教師だったわけじゃないけどね。ある時からそのひとは『俺は猫になる』って言いだしたんだ。」
「ねこ?」
 俊先生が頷く。
「そう、ねこ。はじめ聞いたときはほんの冗談だと思った。猫が暇そうなのが羨ましいっていう意味で言ってるんだろうと思って、俺はちっとも本気にしてなかった。」
 でもね、と俊先生は続けた。
「そのひと本当に猫になっちゃったんだよ。」
 静かな先生の声が部屋の底へ落ちる。
「ある日研究所に行ったらもう一匹の猫しかいなくなってた。――間違いないよ。あの猫は先生だった。」
 懐かしむように目を細めて言う。
「最後は本当にあっさりしたもんだった。俺を見てじゃあなっていう風に尻尾を振って、片足あげて終わり。それきり一度も先生には会ってない。」
小さく俊先生が息をついた。心持ち肩を落としたようにも思えた。
「寂しい?」
 わたしが訊ねると俊先生は「そう見えた?」と笑ってぽつりと答えた。
「少しだけ。」

 あまり少しには見えない顔だった。
 俊先生は藤岡くんの方へ向き直って言う。
「だから、ね。なれる。君が本気で飛行機になりたいんだったら絶対なれるよ。」
 そう言う俊先生の目はとても優しい色を湛えていた。
「でも飛行機になったら、行きっぱなしじゃなくて帰っておいでね。」 
 藤岡くんが頷いたのを見て、よし、と嬉しそうに笑った。
「さてと。俺は森先生を探してこようっと。」
 俊先生は立ち上がって伸びをした。そのまま、じゃあね、と手を振って出ていく背を、藤岡くんが呼び止めた。
「先生!」
 俊先生が振り返る。
 藤岡くんはえっと、と言葉を詰まらせた。それから、「ありがとうございました!」とやけくそ気味の大声を出した。
 わたしも慌てて頭を下げた。
 俊先生は小さく笑って「また明日。」と再び手を振った。
 教室を出ていった足音が遠ざかる。
 先生がいなくなった教室で、わたしは小さくこぼした。
「ほんとかな、先生の話。」
 藤岡くんは少し考えてから言った。
「嘘かもしれないし、本当かもしれない。」
 さっきより幾分晴れやかな顔で彼は笑った。
「もし本当じゃなくても、いいや。俊先生が作り話をしてでも励ましてくれたんだって思ったら、それってすごく嬉しい。」
「たしかに。」
 もはやあの話が嘘か本当かなんて重要ではない。
 飛行機になりたいと言った子どもに、本気で出来ると応援してくれる大人がいる。その事実だけで十分なんだ。
「まあ本当の話だったら楽しいよね。」
「本当だよ、きっと。信じる。」
 にゃあ。
 不意に足元から鳴き声が聞こえた。
「あ、ねこ。」
 どういうわけかこの学校の校舎には、野良猫が入ってくることが度々あった。わたしたちの教室は一階だからか特に多い気がする。
 今日のねこは目が合うとこちらの机に飛びのってきた。
 すり寄ってこそこないが、随分人馴れしている猫だ。
「お手。」

 そう言って、藤岡くんが手を差し出す。
 犬じゃないんだから。
 猫も同じことを思ったのか、興味無さそうにぷいと顔を逸らした。それから撫でようと近づいてきた藤岡くんの手を肉球パンチで追い払う。
「可愛くねーの。」
 藤岡くんがふくれっ面をして呟いた。
 猫はすました顔でたたずんでいる。
「可愛いよ。今の猫パンチとか。」
 そう言ってわたしは控えめに手を伸ばした。猫はちらりと視線を寄越して目を閉じ、大人しくわたしの手を受け入れた。
「まじで可愛くねえの!」
 シャーッと藤岡くんが猫真似をして威嚇するが猫はどこ吹く風といった面持ちだ。いかにも撫でさせてやってる、というような不遜な態度で机の上に居座っている。妙に貫禄のある変わった猫だ。
「ねえもしかして。」
 わたしは姿勢を正して、机の上の猫と目線を合わせた。ビー玉のようなその目をのぞき込む。
「あなたは、先生の先生ですか。」
 何か答えが返ってくることを望んだわけではなかった。ただ訊ねてみただけだ。ここでにゃあとでも鳴けば面白いな、とほんの少しは期待していたけれど。
 案の定、猫は何も言わずにあくびをした。尖った歯と桃色の舌を見せたそれは、あまりに猫らしかった。
 どことなく落胆しているわたしを見てか、藤岡くんが言う。
「馬鹿だなあ。本当に先生だったとして、俺たちに正体をばらすと思うか?俺なら猫になることに徹するね。」
 それもそうだ。秘密や不思議は日常で覆い隠されてこそだ。決定的な面白いことなんて起こらない方がそれらしいじゃないか。
 藤岡くんがあくびをする。猫のあくびがうつったのかもしれなかった。



他者の興醒め     著:文洋 秀

 身勝手な祈祷。体液は悲惨にも分散し、「死」を意識させている。動かなくなった僕を見つめた人々は最後の審判の絵画を創り、世界を凍えさせつつある。零度になった神は僕を救済してはくれぬと呟くのだ。どんなに喚き散らそうと赤には染まらず、生気と相対する彼の白さは祈祷を連想させた。
 木曜日。馬は乱神と化す。液体に浸る彼の眼光は闇に引き裂かれ、虚空を見つめている。しかしその胸に刺さった椿は巷のヴィーナスを彷彿とさせ、酷く熱気にみちていた。私は醜くも劣等感に苛まれ、花束を死人に投げ上げる。目から涙が伝い頭を掻き毟る程に歓喜したのだ。しかし、むず痒い神経は孤独をゆっくりと蝕む。人々の雑音で道が開かれた瞬間(とき)、時空が崩れた。白衣を着た男が私を倒し、無事乗車。尻を崩す他人には目もくれず人の形を担う彼を敬う。男は間に合ったと安堵の表情を浮かばせ時計を見た。麗しい声質は喉を締め付け、無を導き出そうとしている。拡張器が耳に触れる時、現在時刻の針の音が響く。体感速度毎秒0km、鬱々とした時間が脳への酸素補給停止を知らせた。視界は盲目になり二度と現実を写そうとはしない。彼らの支配下に置かれた僕の駒は足を進めることはできなくなってしまった。今にも始まりそうな終焉を今か今かと死神は見続ける。人生ゲームの駒はもはや机に滞在することは出来ず机からこぼれ落ちた。
 金曜日。波立つ海岸は生命を感じぬほど殺風景である。強風が私たちを囲いバサバサと髪を揺らす。目の前に広がる黒海は雨季の様にどんよりしていた。私たちは淡々と雲と海を見つめる。残酷にも空から滲み出る光は天使の訪れの様。その時、風は彼らを邪険とも思うような目付きで目を細めた。帽子が空へ舞う。天使達はソレが我らに対する立ち退き条件だと言わんばかりに空を閉ざしていく。足に花の死骸が転がり、球根が垣間見える。ソレを見た彼は堰を切るように話し始めた。「俺が死んだら華麗に花を毟り、土から垂れた球根を見せてやれ。あざとく白々しい姿を上にいる俺に見せて、そのままアイツらに見せあげるのさ。精神病患者でも囚人でもない下族なお前を見るアイツらはきっと相当滑稽で、やっとお前は世間が相当不自由な生き物だと気付くだろう」車椅子のハンドルを崖に突き落とそうかと思わされた。机上の空論を和気藹々と語るその姿は妙におかしい。椿が咲くこの季節には珍しく、葉は全て枯れついている。青く白く光った手首はまるで死人で、君に対して滑稽を歌う。だが、生憎私は人を見下す価値もない人間だ。卑屈で不器用で、何故アンタが私を看取り人にしたのか。なんて、理解不能である。心底君の思考が理解できずに唯、泥沼に溺れて行く限りだった。崖の下からは海水が襲い掛かりそうに広がっている。草は僕らを招き込んでいる様に見えた。自身の存在とは何処にあるのだろうか。頭の中が白々した。脳内では気味が悪い音が広がり、ニヤが溢れる。まるで虫を潰した後の罪悪感情。ユラユラと沈みゆくその白昼夢は、ダリの絵画を思い出させる。
 土曜日。細道を通る準備をする。童謡の政界に加入させて戴きたかったからだ。私は船に乗った。従業員と思しきヤツに切符を渡す。しかしソレを見た瞬間従業員は「お客さん、これじゃあこの船は乗れませんよ。申し訳ないンですが期限切れです。ホラ」だが私の二つの目には期限切れの文字は無い。おかしいじゃないか。と異議を唱えた。しかしヤツは眉を顰める。「はあ、だけどね、お前さん。これは規則なんでねえ、手帳にも書いてあったろう、乗車員の判断で乗車不可になる可能性もありますって。7ページ23行目だよ。ソレにアンタ、椿のブローチ着用はひと昔前の規定だ。本当にあんた此処を使う気はあるのかい」ギョッとした。乗る前は確かにそう書かれていたはずだ。項垂れる。気が滅入りそうだった。まるで自身が今に存在している人間じゃないと言われている様だった。捻転。悔しくもあった。意識が爆発し、支離滅裂になる。「断じて私は間違っていない」虚言にも似たその行為と発言は更に体を痛めつける。何もかもを縄に縛られ、無数の薔薇が開花を夢見た時、血色が変わる。赤から青に、紫から白に。躰はキャンパスになり、僕は付随する花瓶になった。恐怖が走り、顔が歪みだした時、死人の様な自身の顔が海に映った。波は薄っすらニヤけている様にも見える。遠くの岩盤から聞こえる人魚のメロディーはバロックギター。不快なほどに気持ちを揺さぶられる。「己を変えてしまえ」と言い放っている気がした。爪引きした音は海の底、暗闇に広がり、己の自己を失う寸前の出来事であった。
 日曜日。神父に神はいるのか。と問いた。神父は「君の中に神はおられる。君が辛いと思うことは試練であり、君を素晴らしい人材にしようと、神は常に試練を与え続けておるのだよ。神はいつでも見ておられる」と神々しく言った。胡散臭さで逃げ出しそうになる。端に映る清められたはずの懺悔室は黒い。そんな黒い目に染まった人に微かな期待を持っていた自分が馬鹿だったのか。しかし今僕はそんな奴らに救いを求めている。彼らに僕の存在意義を教えてもらいたかったのだ。一体自分が誰なのか屯と見当がつかない。今が本当に現実なのかすらも分かり得ていない。救済者を求めて居る。しかし半狂らの僕は、目の前にいる彼の生命自体すら確信することが出来ない。現実の辛辣さに涙が出そうだ。どうして生まれてしまったのか。僕は自ら母に命を乞うた事もないし、リンゴを喰ったことなども無い。ではどうして僕は今此処に存在しているのだろうか。揺るぎない事実は救われたい一心がえる事。だが今の僕にはその資格すら持ち合わせて居ない。あるのは空洞な躰だけである。両手から滲み出る赤い液体は生温い。命乞いの為に口に含むのだが奇跡など起こるはずがなかった。神も無神論者には冷血的なのだ。頭がその考えで敷き詰められた。口から出る言葉は落胆の意図。無礼者の僕は領域から追い出されてしまう。柔らかく温かい土は何処かへ消え、固い土はあまりにも硬く冷たかった。
 月曜日。煌びやかなサロンへ出向き椿を買った。何もかも手から離れていった僕に残されたのは何だろうか。生きる価値を考える時間、金、強欲さ、悲惨さ、何なのだろう。ただ言えることは酷い感情と俗世間を纏っていること。堕落した僕は何を求めるのだろうか。それは透明的なものかもしぬ。体はいつもに増して空洞さに磨きがかかった。コウモリすら入居拒否をしてしまいそうな程暗く気味が悪い。シャンデリアを見上げる時、桃色の黄金が通り過ぎる。美しい華。両手は震え心臓は高く震えた。白いその肌はどこかの誰かを思い出させた。冒涜売人者には見えない様な気品がある女性だった。か細い声は自己防衛本能からなのか、持ち合わせて居たものなのか。区別は付かなかったが、またソレが僕を企てる。ガーネットの様に可憐な髪色は、彼女の汚し切れない美しさを更に引き立たせた。このような人が存在しているのか、感動で震えた僕は初めて、楽園に蛇が現れてくれたことに感謝をした。人間も捨てたものではないと口走った時、彼女は少し呆れた様子で僕を見た。
 火曜日。曇は重く、鼠色が人々を見下している日だった。口から溢れ出た赤ワインは吐血と混ざる。」椅子に座った彼女の膝に、僕の耳は寄り掛かった。色彩を失った花瓶は彼女に色を着色して欲しかったようである。その眼は母親を見る目そのもの。これが一時の夢だろうと、希望を与えてもらったことに僕は自己満足をする。永遠に続く夢なら尚幸せだろう。自暴自棄にならず他者など気にせず暖かい子宮の中で永遠に眠って居られるのだから。外の世界に出るのはヒトの人生の中で一番恐ろしく、残酷な刑罰なのだ。言葉を発するなど、何故祖先は思いついてしまったのだろうか。生きて行く環境は整備されすぎていた筈だ。「強欲」という名の母体が我々を出産したのか。そう疑いたくなる。「君は花をどう思うかい。刹那主義者だと思うかね」彼女の品位を試す。僕という存在でも貪欲な差別意識が体に蔓延っていたのだ。優位価値を皮肉っていた昨日の僕に懺悔する。こんなにも安易に人間は変わってしまうものなのかと悲しさと驚きを持つ。哲学者の猿真似をしていると彼女は口をキュと結び僕の頬をつねる。微かな痛みが僕の頬を纏うのだ。「貴方は相当な女性差別主義者なのね。馬鹿にしないでちょうだい。現実との乖離に毎夜泣き崩れているの。私はこんなことをする為に生まれてきたんじゃないって。私は男の所有物じゃないの。幾らお金を貰ったところで金に釣られる愛人になるなんてこっちからお断りだわ。そう思っているけれど、今の私は完全に男性所有物なんだわ。寧ろその価値を上げる方の人間になのよ」酷く悲しそうだったが、その反面に見える闘志が彼女を何十倍にも美しく見せていた。窓を痛いほど睨みつけ、背筋を正す。僕は征人になる為、父の屋敷に向かう準備をし始めたのだ。手の甲に棘が深く刺さっている事に気づけなかった。
 水曜日。僕の死骸をスポットライトが照らしている。女の金切り声が痛いほど耳を串刺しにする。赤と黄色は僕の体を更に刺激し、形見は見世物と化した。住民たちは汚物を見る様な目でヒソヒソ、ヒソヒソ。到底美しいと言い難い不協和音を奏でる。その合唱はカラスを集合させるホイッスル。奇妙で気色が悪い。醜い集団は「世間」という名を持ち、世界を支配する気だ。そんな劣悪な中、僕は回らない頭で考えた。許しを得て居る族達はこの時、一体どの様な反応を示すのだろうかと。きっと人々は麗しく涙を溜め、誰か様に林檎を乞うのだろう。まあ実際、道端で彼らは力尽きたりはしない。真っ白なシーツと美しい花々、いやソレどころか美しいものばかりに囲まれ生き絶えて行くのだ。なんと幸福だろうか、本人は今後の紛争を知らず、美しさに囲まれて逝くのだから。どんなに本人の顔や性格が醜くも、周りの美は半永久的である。花でさえ乾燥させてしまえば、何年先に見ても美しい。美しさから離れた僕は、やっとこの世は物語なのだと知る。気づいた大きなソレのお陰で思考が巡回し始めた。雇い主の僕に警備員は生意気にも「なんて俗にまみれているのか。嫌になりそうで仕方がない」そう怪訝な顔をしている。僕に言われても、と思った時、何かが轢かれる音が盛大に響く。嫌な不安が真ん中の黒を貫く。白い馬は何百本以上の椿で赤く染まり上がり、石畳の道路が呻き声で大渋滞している。








編集担当:水菓子

日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT


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