無題

奪われるだけ

 今日もまた、手元の食糧がなくなった。家の戸棚にも、冷蔵庫にも、あらゆる収納場所を探してみるが、食べられるものはなかった。

 アサナンは妹のシュリカと二人で、コエシジョンヌ島に暮らしている。コエシジョンヌ島——俗にジョンヌ島と呼ばれるそこは、世界地図には載っていない、幻の孤島だった。人口は千人をかろうじて超える程度だが、決して衰退しているわけではない。きちんと島として、国として成り立っている。

 アサナンは壁にかかっている時計を見た。十六時。大嫌いな時間だ。そして、アサナンは困った。もう一度、部屋中をくまなく探す。早くも日が傾いてきて明かりを点けたいところだが、この家には蛍光灯も電球もなかった。もし明るくしたかったら、もう残り三本とないろうそくに火をともさねばならない。そんなもったいないことはできなかった。次にいつろうそくが手に入るかわからない以上、むやみに使えない。

 玄関のドアを叩く音がした。

 あぁ、来たか。アサナンは急いでドアを開ける。どこぞで手に入れたのやも知れぬ無数の宝石が、赤い外套にひしめいている。金色の髪は毛先が外側に丸まっているが、どうも寝癖というわけではなさそうだ。あえてセットしているのだろう。アサナンよりも幼く見えるがそんなことはない。同い年だ。左右には甲冑を身にまとい槍を手に持った人間を従えている。

 アサナンはこうべを垂れた。

「いらっしゃいませ、殿下。本日のご用件は——」

「同じことを言わせる気か、アサナン。俺がお前のような低俗に求めることなど、一つしかあるまい」

「承知、しております……」

 アサナンは、大分焦っていた。目の前の男はジョンヌ島の殿下、アルガードフ。アサナンとは年齢で言えば同じ十六だったが、地位の点において雲泥の差がある。そんな相手だった。

 だが、今回ばかりはそうも言っていられない。アルガードフは今から食べ物を要求してくるだろう。別に彼が食に困っているわけではない。いわゆる徴収みたいなものだ。毎日十六時に島の住宅一件一件から決まった量を持っていく。アサナンの家からは、リンゴ三つと小麦二クウォート。大した量ではないと思われるかもしれないが、十六と十の子供がそれだけの量を作りだすのはかなりの負担だった。おかげで二人は学校に通っていない。

 アサナンは膝を床につけると腰を下ろした。

「申し訳ありません」

 両手の平も床につけると、頭を下げた。今にも額までもが床に触れそうな勢いで。

「私には殿下にだせるものはありません。どうか今日のところは見逃して——」

 言い終わることはできなかった。後頭部に容赦なく硬いものが降ってきたせいで、触れるか否かの瀬戸際にあった額は愚か、顔面が床に押しつけられた。目を開けてはいられなくなった。鼻が潰れる。固いものは左右に動いてアサナンの髪を乱していく。そこでようやく踏まれているのだと気がついた。

「我に貢献できぬお前にいかなる価値がある? 貴様をここで処刑しよう」

 アサナンはさらに目をきつく閉じた。どうやら家が死に場所となりそうだ。これから一人で生きていかなければならなくなる妹シュリカのことを考えると、やるせない思いに駆られるが、仕方ない。アサナンはどこをどう見ようともジョンヌ島の一島民でしかなく、それ以上でも以下でもない。王たるアルガードフの前でなす術もなく、その命を受け入れなければならないのだ。

 もし、自分の生れていた場所がここではなかったら——幾度となく考えたことが死に際にもよみがえる。もしもの話ほど無意味なことはないと知りながら。

「あ、あの、まって!」

 ——えっ?

 アサナンは耳を疑った。今、彼は紛れもなくシュリカの声を聞いたのだ。シュリカにはかねてから、十六時には机の下に隠れているように言っておいたはずだった。何があろうともアルガードフが帰るまでは出てくるな、と。

「ほう、何ゆえ我に待てと?」

「あの、おにいちゃんを、ころさないで!」

 アサナンがこの時しゃべれる状況にあったら、今すぐにでもやめてくれと叫んでいたことだろう。動ける状況にあったら、今すぐにでもシュリカをもう一度机の下に戻していただろう。だが、どれも叶わない。

「だから何だと言う? 低俗の娘よ。貴様一人の責任であろうと、罪を被りし者はここの世帯主だ。貴様のせいで、こやつの生命は本日づけで消滅する」

 圧力が増した。床が軋む。確かに痛いと感じているのだろうが、それどころではなくなっていた。焦り、恐怖、不安。さまざまな感情が渦巻き、結局何を感じているのかもわからなくなっていた。

 少しの間があった。

「あの、おにいちゃんじゃなくて、あ、あたしを……あたしを、ころして!」

 何を言っているのだろう。アサナンは一瞬、理解できなかった。だがアルガードフが高笑いし始め、次の言葉を紡いだ時、全てを理解した。

「自ら兄の代わりに死のうというのか。何と美しい家族愛だ! よかろう。貴様を処刑する」

 後頭部から靴底の重みが消えた。アサナンは慌てて顔を上げようとする。だがその前に、横腹に強い衝撃が走り、アサナンの総身は左方へと飛ばされた。壁に背中からぶつかる。蹴られたと気がついたのはその時だ。元々、身体は強い方のアサナンだが、食べ物不足に伴う過剰労働と空腹で普段の元気がなかった。もしあったとしたら、今感じている身体の痛みを押し殺して、アルガードフを止めに行ったことだろう。アサナンの身体はこのまま休眠態勢に入ることを要求していた。起き上がろうとするも力が入らなかった。ふざけるな。胸中で吐き出した毒も言葉にはならない。意識がもうろうとしてくる。アサナンが最後に見えた光景は、アルガードフがシュリカに近づいて何事か話しているところまでだった。その話の内容までは分からない。

 再び目を開けた時には全てが変わり果てていた。意識が戻った刹那、アサナンは声をあげて上半身を起こした。そして訳がわからなくなった。確か玄関で蹴飛ばされた。少なくとも自分の家にいたはず。しかし、今アサナンが置かれている場所は全く似ても似つかなかった。アサナンのベッドを囲むように下ろされたクリーム色のカーテン。真右にそびえたつ点滴スタンド。見てみれば、点滴用のチューブの先はアサナンの右腕に続いていた。どうやらここは病院のようだ。ジョンヌ島唯一の病院。病院と言うとたいそうに思われがちだが、そんなことはない。ベッドは二台しかなく、医者も一人しかいない。しかもその医者がアサナンと四つしか変わらないと聞けば、誰もがその技量に疑いを感じることだろう。もちろん島民は医者の腕前を重々承知しているので、危ういと感じることはないのだが。

 突然、カーテンが左右に分かれて開いた。白衣に黒縁の眼鏡。実年齢の二十よりも大人びて見えるのは、一七五に達する身長と端正な顔立ちのせいだろう。

「起きたか、アサナン。まだ寝ておけ。危ない」

 唯一の医者、ヤグルは手根部をアサナンの額に当てると、持前の怪力でアサナンをまくらに沈めた。

「いった! 乱暴だな、このバカ医者!」

「それ以上話すな。ベッドにねじ込むぞ、クソガキ」

 少しの間二人はお互いに睨み合っていたが、ヤグルの手が額から離れたのを合図に視線を逸らした。ややあってライターの着火音。アサナンが視線を戻した頃には、ヤグルの指にはタバコが挟まっていて、紫煙を上らせていた。

「こんな所で吸っていいのかよ」

「お前以外に患者はいないからな。この島で患者になりそうな奴は、あらかたアルガードフが食料を渡せない奴らを殺してくれたおかげで、ほとんどいないようなものだ。そろそろ次の職を探さないとな」

 アルガードフ——

 アサナンは慌ててまたも上半身を起こそうとしたが、今度は額を手の平で押さえつけられたせいで起き上がることすらできなかった。

「な、何だよ! 手、どかせよ! シュリが、シュリが危ないんだよ!!」

「あぁ、知っている。アルガードフに連れてかれたらしいな。何人か目撃者がいる。噂によれば、あのまま売りにだされるらしい。人身売買だな」

「なら、今すぐ助けに行かないと!」

「どうやって?」

 返す言葉もなかった。具体的な策など、こういうことが初めてなアサナンに思いつくはずはなかった。だいたいシュリカが今どこにいるかもわからない。まずはそこから探っていかなければならないのだ。ヤグルが鼻で笑う。

「ただ助けたいってだけで救えるものは、ほとんどないと思え。助けたいなら頭を使え」

 紫煙が吐きだされる。

「まぁ、お前をシュリカの所に連れて行く手段がないわけじゃないけどな」

 つぶやくような、きちんと聞いていなかったら聞き逃してしまいそうな声だったが、アサナンの耳はちゃんと捉えていた。

「ど、どうやって!?」

 ヤグルが視線を逸らす。

「変装してアルガードフの所に乗り込む。ただの推測だが、恐らくシュリカはまだ奴の城の中にでもいるだろう。女っぽい顔立ちのお前は、女装なんかがいいかもな。上手くいけば同じ身売り要因としてシュリカのいる場所に運ばれて、難なく合流できるだろうし。もちろん、身の安全は保障されないがな」

 女装。アサナンが好まぬ言葉だ。確かに彼はたびたび性別を間違えられたことがある。男のような凛々しい面よりも、女のような可愛らしい面が先行しているせいだ。よって、祭りごとの際に女装しないかと毎年持ちかけられる。その時はどうにか断っている。だが、一度だけやったことがあった。あれはハロウィンの仮装を兼ねた時のこと。アサナンは雪女というていで、女装させられた。雪女の正体がアサナンだと知っていたのはごく一部の人間だったため、完全に女だと信じ込んだ輩がアサナンに告白してきたりした。しかも一人や二人ではない。正確に数えてはいなかったが、五人には達していただろう。彼らの必死な姿は、アサナンに申し訳なくもトラウマを作った。だから今も言葉を聞いただけだというのに、少しばかり狼狽している。

 だが、アサナンは分かっていた。このヤグルの提案を跳ね返すことはできないと。他に案が思いつかないし、何よりいち早くシュリカを助けだしたいという本音が、トラウマへの忍耐を生みだしていた。

「……やる」

「だろうな」

 ヤグルは肩をすくめた。

 女装のやり方はアサナンには分からない。以前もされるがままだったのだから、手順を頭に叩き込むまでには至らなかった。だがアサナンが知らなくとも、ヤグルが知っていた。ヤグル曰く「ジョンヌ島には死人に化粧をしてやる職業がないからな。医者をやりながらそういうことも覚えた。だから女の繕い方くらいは知っている」とのこと。アサナンは微妙な心境になった。

 化粧を終え、次には女ものの洋服が手渡された。白いワンピースだ。装飾はなされていない。着替えるとスカートの通気性のおかげで、気持ちが悪かった。

「あと、もしものことを考えてこれも持っていけ」

 投げ渡されたものに、アサナンは驚いた。それは紛れもなく拳銃だった。一瞬だけ、ヤグルの表情を窺おうとしたが、そっぽを向かれてしまい読み取れなかった。

 アサナンは拳銃を懐にしまうと一言礼を言い、病院を後にした。

 アルガードフの住む城は、ジョンヌ島の最北端にあった。アサナンは門前で直立不動のポーズをとっている人間に声をかけた。

「アルガードフ殿下はお帰りになりましたか?」

「貴様、何者だ」

「先にこちらに来た友人と共に、この身を殿下に捧げようと思いまして」

「……来い」

 案内してくれる人の後ろに続きつつ、服の上から銃器に触れる。ばれないように深呼吸もしていた。

 足元には一面の赤、頭上にはシャンデリアと典型的な城の内装だとアサナンは思った。ここのどこかにシュリカがいるのだ。アサナンは奥歯を噛み締めた。

 長い長い通路を進んでいると、扉の前に立たされた。しかしどうも今まで見てきた派手な城の内装とは似ても似つかないほどみずぼらしいものだった。大きさは約十センチメートル高いくらいであったし、何より扉自体が木材同士を継ぎ合せた形でできていた。所々、釘の頭が飛び出していて今にも取れそうだった。男がドアノブを回して内側に押す。

 中はほとんど暗闇だった。奥の方が全く見えない。が、扉が開いたことによって注がれる光から、床が木製でだいぶすり減っていることは確認できた。加えて、この場所に人がいる。人数や性別などを判別することはできないが、気配やアサナンに向けられる視線などで嫌でも知れた。中に入って扉が閉まると、何も見えなくなった。が、視界の端で控えめなオレンジ色が少しばかり室内を明るくした。見てみれば、左の隅の方でジッポーの火を眺めている漆黒の長い髪の女がいた。

「わぁ、火だ……」

 女はアサナンを一瞥する。

「……あぁ、火だよ。どうしてここに?」

「妹を探しに来た」

「妹? 名前は?」

「シュリカ」

 あぁ、女は何度か頷いた。そしてジッポーを持たない方の手で、アサナンの後ろを指す。

「シュリカって子ならそっちの隅で寝てるよ……見てくれば?」

 女がアサナンにジッポーを差し出す。受け取ると、乏しい光を頼りに反対側の隅の方へ移動する。確かにシュリカらしき人物がうずくまって寝ている。十分に近くまで行く。そして何度か妹の名を呼んでみる。反応がない。揺さぶってみる。だが、それでも起きなかった。アサナンは首をひねった。

 相当疲れているのだろう。そう、思った。このまま寝かせてあげたいのは山々だったが、そうも言っていられない。

 さらに激しく揺さぶってみる。そのせいか、シュリカの身体があおむけに転がった。

 ——えっ?

 アサナンは声も出なかった。シュリカから手を放し、一歩二歩と後ずさる。思わずジッポーから手を離してしまったが、床に落ちた頃には火が消えていたので火事にはならなかった。

 焦点の合うことはなく、開ききった瞳孔。赤く染まっている左胸部。

 アサナンが考えていた結末とはかなりかけ離れていた。本来ならばシュリカを連れてここを後にするはずだったのだが。もう何も叶わなかった。全てが遅すぎたのだ。

 もしあの時、いち早くアサナンが殺されていたら、シュリカはこのような末路を辿らなかっただろう。

 不意に手が固いものにあたった。懐にしまっておいた銃だ。アサナンはつばを飲み込むと、それを取り出す。

 本当に逝くべきだったのは、シュリカではない。本当に逝くべきだったのは——

 銃声を聞いた後アサナンにジッポーを手渡した女は、またもジッポーに火を灯した。もう一本、同じものを持っていたのだ。淡い光を頼りに倒れている兄妹の所まで行き、見下ろす。

「家族愛とはやはり素晴らしいものだね」

 ジッポーを持たぬ手で自らの長い黒い髪をはいだ。代わりに現れたのはどういうわけか、セットされた金色の髪だったのだ。

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『奪われるだけ』 著・雪村夏生

※この作品は読切です。

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