その「場」で踊る

 よう、まだやってんのか! と言われれば、僕はまだやってるとだけ答えるだろう。
 『累劫』を刊行しはじめて一年が経った。第一号の冊子を刊行するにあたっての序文「くるくるとぐるぐる」に僕はこう書いた。続ける、と。いまのところその言葉は嘘になっていない。
とても文章がうまくなったとは思えない。ダンスフロアで思うままに、気軽に踊りだすのが恥ずかしいように、なかなか書き始められない。いまもペンを置いたり持ったりしては、うんうん唸っている。しかし、その煮え切らなさの先に、何か意味があると思って僕は始めたのだった。少なくとも、何か言いたいことがあるうちは。話すよりは、ほんの少し得意なこの書くという営みを通じて。
 僕は『累劫』を通じて「場」を作りたいと思った。文章によって何かを伝えていい場所。言っていい場所を。ダンスフロアのように、好き勝手踊っていいような、そんな場所である。別に踊りたきゃどこでも好きに踊ったっていい。でもそんな働きかけはたいてい「場違い」と嘲られる。飲み会の場で、真剣に語っても「なに熱くなってんだよ」と脇にどかされるように。文化祭で普段目立たない奴がひき語りで歌って失笑の的になるように。
 文章における、そんな「場違い」な奴のための「場」。『累劫』にはそんな意義もあったはずだ、といま思う。それは自己満足かもしれない。でも、十数秒で投稿して承認を得られなければ削除してしまうような、そんな自分を引き裂く行為などとは違うし、違わなければいけない自己満足だと思っている。
 果てのない甘美な自傷行為ではなく、しかし自分だけが読む文章なのでもない、みんなに伝えるという前提の「場」。衝動と羞恥のあいだで揺れながら書き続けること。書かなくたっていいじゃん、というまっとうに聞こえるかのような反応には、いや、それこそおかしいと言いたいのだ、うまく説明はできないけど。
 もちろん、「場」の力はこちらがわにもある程度、困難な強制力を持つ。書きつけられた文章、印刷された文章、その歴史。下手なものは書けないな、という大きな力が暗に働きかけてくるのである。わざわざ印刷してまで出すものに、さすがに垂れ流しのかまってちゃん的なものは駄目だよな、と。
 そしてなにより、僕はもう「続ける」と書いてしまったのである。そう言った以上、もう書き続けるしかないのである。相変わらずモジモジしながらずっと踊ってる奴がいるな、くらいの目立たなさで、踊り続ける様を、どうかたまには、見てみてほしい。『累劫』は、まだまだ音楽が鳴り続くフロアである。

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