死にゆく父へ

僕の父親はいま六七歳。大きな病気もなく故郷の福岡で健在である。退職後、田舎に家を買い、家族で移り住んだ。父は昼間、家事や散歩をし、夜になればニュースや野球を観ながら焼酎を飲む。
 そんな静かな生活を送る父から離れて暮らし始めて、丸六年になる。いまでも半年に一度は帰省するのだが、その度に思うのは、父がだんだんと小さくなっているように見えることだ。健康な生活を送っていても、やはり身体の衰えは隠せないらしく、そのことはたまにしか彼の姿を見ない僕の眼にこそわかるのだろう。
 そして、最近になって考える。年を重ねるにつれて、父の存在、父の魂自体も縮小していっているのではないかと。漠然とでしかないが、父の姿が小さく見えてしまうのは、単に身体の衰えだけではないのだと。それはつまり、緩慢だが確実に、父が死に近づいているという現実なのである。
 
 十年ほどまえ、祖父が亡くなった。八月の暑い日、当時十四歳だった僕は、家族といっしょに入院している祖父の見舞いに行った。食事をまともに摂れないらしい祖父は、ベッドの上で細長い管を鼻から通していた。その一年ほどまえにインフルエンザの疑いで検査を受けた際、僕も祖父と同じように管を通したのだが、あの異物が暴力的に鼻腔から喉へ侵入する不快な感じは、忘れがたいものだった。その苦しみを祖父は四六時中味わっている。そう思うだけでも僕には苦痛だった。
 祖父は元気だったときの二分の一ほどにも縮み、僕たちが顔を近づけると、ア、アア、アというような声にならない叫びをあげた。初めて見る、死に近い人間の姿は、身内であるということも含めて、僕にとって衝撃であり、哀しみであり、そして恐怖だった。父も、いずれあんなふうになるのだろうか。立つこともできず、食事も、排泄も、充全に言葉を交わすことも出来ない姿に? そして、いずれは僕の番がまわってくるのだろうかと。翌日、祖父は亡くなった。
 弔辞を読んだのは、長男である父だった。その中に、次のような一節があった。
――私が見舞いに行くと、父は横たわったまま必死にパン、パン、パンと叫びました。いつも手元に置いておくほど好物だった菓子パンを、父は最後まで求め続けました……
 僕は生れて初めて、父が丁寧な言葉遣いをするのを聞いたのだった。そのやけにかしこまった声は僕の持つ父のイメージとあまりにも食い違い、むしろ道化のような滑稽さすらあったものの、グロテスクに、いまでも縮んだ祖父の姿、鼻から伸びる暴力的な管、そして死を僕に思い出させる。パン、パン、パン……
 
 それから十年がたち、僕が父の「縮小」を実感し始めたのは、少し前に帰省したときの出来事によっている。
 その日父は、いつもどおりテレビを観ながら、いつもどおりの晩酌をしていた。しかし、母親が風呂に入り、父は途端にテレビを消した。隣の部屋にいた僕は、テレビの音が消えたのを特に気にとめていなかったのだが、父がため息をつきはじめたのを聞いて、少し気になりチラと父のほうを見ると、赫ら顔でうつむいていた。そして、こんな言葉を発した。
――ワシの人生って、いったい何やったちゃろうねえ……
 父が突然漏らしたその「悲嘆」に、僕は不意を突かれた。そして、大きな哀しみを覚えたのだった。なぜなら、父がまるで思い悩む青年のように、そのような弱音を吐いたりすることなど、いままでなかったからだ。厳格であり、いつも気丈に振舞っていた父。しかし、時が経つごとに、その背中が小さくなってゆく父。僕はそのとき、父の魂の「縮小」つまり死を実感せずにはいられなかった。
 そして、こう思ったのだ。死に向かうとは、それが彼彼女にとって切実になるということは、「若さ」へ近づいていくことなのではないかと。死への「悲嘆」を漏らした父の姿は、僕の眼に、逆説的に若く映ったのである。自分の死を想う、青年のように。そしてそれはつまり、安直かもしれないが、同時に「純粋さ」を自分の内部で復活させることではないだろうか。
 死それ自体が純粋だということではない。死ぬ瞬間、死んだあとのことなど誰も知らないから。死を何か崇高なものに祀り上げることは危険である。僕が言いたい「純粋さ」とは、あくまで生の側に拠っている。死への想像力を働かせるとき、僕らは限りなく生を意識する。しがみつこうとする。それは幼いころ、自分が世界からいなくなることへの恐怖に布団の中で怯えた思い出ではないか? 言葉にすることのできない、生への想念。自分の人生に対して答えのない問いを投げかけた父は、そんな「若さ」ゆえの「純粋さ」からくる悩み、死を嘆いたのではないか?
 僕は、十九歳のとき以来、影響を与えられ続けてきたボブ・ディランの詞を思い出す。それは「My Back Pages」の有名な一節。こうだ。

  Ah, but I was so much older then I’m younger than that now.

(ボブ・ディラン全詩集 : 1962-2001, ソフトバンククリエイティブ, 2005)

 ああ、あのころの僕は老いていたんだ、いまのほうがもっと若いんだ、と歌われるそれは、人によって解釈がわかれる詞ではある。僕もはじめ聴いたときはわけがわからず、しかしいままでよくわからないまま惹きつけられてきた。
 そしていま、父の死を想像するとき、だんだんとこの一節の意味が繋がってきたように思うのだ。時を重ねてゆくこと。それは端的な肉体の老い、そして死へ近づくことである。しかしディランは、いまのほうが昔よりも若いんだと歌う。それは「若さ」こそが、死への意識に限りなく捉われ、であるがゆえに、まだ目の前にある生に対して純粋であるということではないだろうか。死を実感するとともに、高まってゆく生への純粋な希求。僕は父の嘆きを聞いて以来、無意識にこの詞に引っぱられていたのだと思う。いまの僕と同じ二十四歳だったディランが書き出した言葉に、父の死と、そして自分にとっても逃れられない死と生への想念を重ね合わせて……

 今月のはじめに、家族のもとへ帰省した。父はいつもどおりテレビを観ながら焼酎を飲み、ちょうど誕生日を迎えていた僕の二十四歳を祝ってくれた。父はもう、僕よりも若くなっているのだろうか。

#エッセイ #ボブディラン

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