大喜利茶屋の回答、偶然現実にあること拾っちゃう説

「大喜利茶屋」という、ネットで大喜利ができるサイトで1年くらい遊んでいるのですが、その中の機能に、毎日22:30から、5題1セット+決勝1題で行われる「夜の茶屋」というものがあります。
大喜利のお題というのは、扱われるテーマが非常に様々で、日常や学校を切り取ったり、野球や相撲などのスポーツから、時には思いもよらない要素が出ることもあります。
8/22(火)の夜の茶屋、第5問にこんなお題が出されました。

何度見返しても惚れ惚れとするいいお題

プロレスファンの私、見た瞬間に「これは素晴らしい!」と唸ってしまいました。ファンでは無い人に昔のプロレスはどんなイメージが持たれているのか、どんなボケが出てくるのかワクワクします。
と同時にあるトリビアの種が浮かびました。「若手が抱く勝手なイメージを考える中で、本当にあった事が偶然含まれるんじゃないか?」思いついてしまったので、誰が読むかも分かりませんが、自由研究のつもりで検証と紹介をしていきます。

50年前のプロレスってどの時代なのか

まず考えなければいけないことは、「50年前」という時代設定。今から半世紀前、1973年は多くの人が知るところであるアントニオ猪木・ジャイアント馬場がそれぞれ新日本プロレス、全日本プロレスを創立した時期に重なります。
力道山が1953年に立ち上げた「日本プロレス」が放映権の問題や杜撰な経営状態にを理由に分裂。同団体の両エースであった猪木と馬場はそれぞれ1972年に団体を立ち上げました。
このことから、50年前のプロレスラーとは、猪木・馬場を初めとする新日本や全日本の初期所属メンバーということになります。これを基に、回答で挙げられた「イメージ」が本当に合っているのか?を検証していきましょう。
まぁ、これも確認しただけで、この先1970年代じゃなくても昭和のプロレスならOKくらいのユルさで出していきます。その方が楽しいから。

受け継がれる技と掛け声

まずはこちらの回答。実際に……….あります。
技名を叫んでから仕掛ける、といえば天山広吉「OK!ブレーンバスター!」も有名ですが、こちらは世代が少し若いので一旦除外。
より時代も近いのはハルクホーガン「アックスボンバー」ではないでしょうか。

ハルク・ホーガンはアメリカ出身のレスラーで、WWF、WWEといった世界No.1団体や新日本マットで活躍。その代表的な必殺技です。
動画のように「Axe Bomber」と叫んでからラリアットを決めます。日本マットに初めて参戦したのは1980年、その後1983年には第1回IWGP決勝リーグ戦ではアントニオ猪木を失神KOに追い込み優勝しました(詳しくは「猪木舌出し失神事件」と調べてください)。
ちなみに、アックスボンバーを今も使用している現役レスラーが日本にいて、全日本プロレスの大森隆男選手、新日本プロレスのタイチ選手が「アックスボンバー!」と叫びながら技を繰り出す様子をご覧になれます。

実はあの人もエリートだった

続いてはこちらの回答。
非常〜〜〜に素敵な着眼点で面白い回答で1位を取られています!
では、実際のプロレス界ではどうだったのでしょうか?

まず、日本プロレスの祖、力道山は1953年にプロレスラーとなっていますが、その前は大相撲の名門、二所ノ関部屋所属の力士でした。番付では三役と呼ばれる関脇を2度経験しています。関脇というのは、横綱、大関に次ぐ地位で、ほんの一握りの人間しか経験することができません。非常に優れた相撲の才能を持ちながらも、酒癖の悪さや金銭トラブルから引退に繋がった、とも語られています。

テレビで名前や姿を見たことも多いであろう、天龍源一郎さんも大相撲からキャリアをスタート。1964年に初土俵を踏み、最高位は西前頭筆頭。三役一歩手前の番付まで上り詰めています。1976年に相撲を廃業してからプロレスに転向し全日本でデビュー。2015年、65歳での引退まで現役であり続けた生きる伝説とも言えるレスラーであります。

なお、関脇や前頭筆頭を経験した両名はもちろんですが、実はプロレス界には相撲の頂点を極めてからレスラーになった選手もおります。第54代横綱の輪島、第60代横綱の双羽黒(リングネームは北尾光司)の2名は角界を引退後にレスラーデビュー、短い期間ながら全日本・新日本マットに上がっています。

ということで、検証結果は「50年前は相撲エリートがプロレスラーになっている」でした。

ちなみに、番付について詳しく知りたい方はこちらの動画が分かりやすいのでご参照ください。

まだまだあるぞ、サクサク行くぞ

これはもうみなさんご存知かと思います、ド演歌ファイターこと越中詩郎選手のことでしょう。1979年に全日本デビューし、その後新日本へ移籍。高田延彦との抗争や反選手会同盟(平成維震軍)の結成など数々の功績を残した彼の代名詞といえばヒップアタック。ということはケツが固い。そうに決まってる。

アメトークでもお馴染みの

殴ってもいいかどうかはおいといて、今も殴られたり技を誤爆されて失神※するレフェリーさんは居ますが、逆もいるので見てほしい。鬼軍曹、山本小鉄のレフェリングである。猪木VSはぐれ国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)の1対3変則マッチにおいて、乱入しようとするアニマルや寺西をバッタバッタとタックルで倒していく様は「いったい何を見せられているんだ」という痛快な気持ちにさせてくれる。


ちょっと年代は近いですが、これもかなり有名な事件があります。

1990年、東京ドーム大会でのメインイベントを控えた猪木に対し、「もし負けるということがあれば…」というニュアンスの質問をしたアナウンサーを猪木がビンタ。「出る前に負ける事考えるバカいるかよ」との名言を残しました。

識者によると、これが一般人をビンタした最初の例で、猪木の「闘魂ビンタ」はここから始まった、らしいです。
ちなみに令和のプロレスでもアナウンサーが犠牲になる場面はあり、新日本プロレスのEVIL選手はリングアナウンサーが座っているテーブル目掛けて鉄柵攻撃、その余波でひっくり返ってしまう、という定番のムーブはぜひ覚えておいてください。


紅い月は伝説の事件に重なる

最後にご紹介したいのは、紅月(圧倒的に1位の回答に出る演出)を出されたこちらの回答!!

これはもう、ファンの方なら一発で思い浮かべられることでしょう。
そうです、「ドラゴンチェックイン」です。

新日本プロレスの立ち上げから参画し、69歳の今なお現役でリングに上がる「炎の飛龍」こと藤波辰爾選手。日米で輝かしい成績を残し、日本人で2番目のWWE殿堂入りを果たすなど、その実績は語り尽くせません。独自の技の数々は現在も多くのレスラーが取り入れており、「ドラゴン・スープレックス」「ドラゴンスクリュー」「ドラゴン・スリーパー」などのドラゴン殺法で多くの選手と闘ってきました。

一方で、衝撃の歌声を披露した歌手デビュー作「マッチョ・ドラゴン」など、ユニークなエピソードにも事欠かない同選手。師・アントニオ猪木に対し、いつまでも変わらない団体内の序列に異を唱え、髪を切って意志を示そうとした「飛龍革命」などが代表的です。

話は事件の日に戻り、1984年2月、札幌中島センター大会で、長州力とのシングルマッチを行うはずが、藤原喜明が長州を襲撃、試合は開始前に不成立となった。
この仕打ちに憤った藤波はコスチュームのまま体育館を飛び出しホテルへ。涙ながらに「こんな会社辞めてやる」と記者にこぼしながらチェックアウトし、帰路につこうとしたものの、夜なので当然もう便はなく、再度ホテルに戻りチェックイン。これが「ドラゴンチェックイン」(または「ドラゴンリターン」)である。
ちなみに、飛龍革命の時も、その後ホテルを出て行ったら台風で飛行機が欠航し、ドラゴンチェックインをした模様。

検証結果:50年前のプロレスラーは、そのままの格好で帰っていた(?)

プロレスって、素晴らしい

最後まで読んでくれる方がいったい何人いるのか、というくらい好き放題人様の回答と昭和プロレスを結びつけてアレコレと語ってしまった。
プロレスって、知れば知るほど、歴史を学ぶほど今が楽しくなる最高の格闘芸術なので、みんな見てください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?