百合創作におけるリアリティ

かつては根無し草だった百合ジャンルは一体どうしたのかというほどに根を張っている。
けして百合作品が大人気とかバブルというわけでもないと思う。
現実に出版されている書籍をみてもひとかたの才能のある作家から数ページずつ作品を集めているアンソロジーが多い。
本当に百合が出版不況を吹き飛ばすものならショートストーリーの蒐集ではなくて大長編百合漫画連載が開始されていることだろう。
百合がだめなわけではなくて、出版自体が今は大変な時代なのだろう。
それでもアンソロジーが多産されるほどには百合に関する需要が見込まれているわけだ。
でなければいかに数ページであっても採算の取れようはずもない。
百合は一種の「定番」の地位を確立しつつある。
誇大視する必要はないが、それは相当にかなり評価されるべきめっちゃめちゃくちゃありがたい事態、幸いだ。ただ「今百合が人気」みたいな考えは楽観だとも思う。
百合の支持者が可視化されているといった方がいい。
可視化は明るい変化だ。それにより失われる地下感やほの暗さもあるのか、旧来の百合ファンには不満の声が見受けられることもある。

渋谷区でパートナーシップ制度が施行されて以来、それまでマイノリティの間でもあまり用いられることのなかった「LGBT」という用語がテレビや新聞をにぎわせるようになった。一橋大学の一件も大いに関与しているだろう。
同性愛はかつて病気であり不名誉な事態とされていた。今だってそのようにみなす場所はたくさんある。同性愛の係累の存在を無視できない世間は兼ねてからあったに相違ないのに無視されていた。
それが急に可視化されたのは大学生のためだけではないと思う。
同性愛の学生の自死は今までだって腐るほどあったのだから世間の側で変化が起きたのだ。
二十年、三十年ほどの昔は考えられないことだった。
けれども変化を期待していなかったわけではない。希望がないわけではなかった。同性愛という傾向は病気ではないし障害ではないからだ。
同性愛者はマイノリティと表現するには絶対数が多いのだ。
その点をきちんと学校で教えない限りはいくらでも脅迫や「晒し」は起きるし不案内な事態は毎日起きる。

私はレズビアンで百合漫画や百合小説を好む。
元々漫画や小説が好きで創作物のなかに山ほど百合が存在している現代をかつては本当に予想できなかった。むしろ政治的な働きが発展することについては多少の希望を抱いていた。
政治的な働きかけも文化面でも女性のレズビアンが可視化されていなかった二十年・三十年前に思春期をすごすことは牢獄に等しかった。
だから文化面政治面における現実のこの変化はありがたい。

現実の変化が百合という一種の創作表現に今後どのような影響を及ぼすのかが興味深い。小説を書く上でもこの変容の受け入れ方を一考している。
もちろん現実など無視してもかまわないのだが、いわゆる「現代もの」を扱うのなら現在性や現場性を無視してエヴァーグリーンを築くには相当の表現力を要する。下調べの労苦とか新鮮な発想力とかそういうものを吹き飛ばす「現実」の前には才能しか太刀打ちできないためだ。才能に自信のない側である自分としては、右往左往しながら現実と創作の照会作業に念入れをしてしまう。せこいなあ、と感じながらも。大悟して大作を作れるのはいつになるやら、だ。
私が異性愛者であるなら現実に対しても多数決原理の圧力をかけていたかもしれない。「百合はあくまで趣味です」と云い切れればいい。だが私は真面目にやりたいのだ。生きている間くらいは真面目に生きたいのだ。もうあまり若くもないという点も大きい。

若い時分に性的な匂いにいっぱい満ちた百合表現を見ないようにしていたのはイコールで見られるのがいやだしそういう自分を直視したくなかったからだ。今では違う意味でいきすぎた性的表現をみるとぎょっとしてしまうが、これは単に老化であって、カツ丼をみると胃もたれするのと同じ原理だ。
描ける方にはじゃんじゃんやって頂きたいと望んでいる。

一方で、これは別格、と思うような劇的な心理描写のある百合表現も増えてきた。かえって生々しすぎて直視できないものもあるほどだ。

マイノリティが可視化されていると百合に求められるニーズも変化してくるだろう。

ひところはあまり見られなかったショートカットのボーイッシュなレズビアン、といったキャラクターや中性的なキャラクターが今年に入って特に多く見られるような気がしている。
ボーイッシュなキャラの台頭は読者層の変化を匂わせる。
この動きに対して時分も開封を許した自作があって、それが職能百合と名指しているシリーズなのだけれども、自作についてはここでは割愛する。
圧倒的にボーイッシュ百合を支持するのは女性的な読者なのだろうと思う。
読者を性別でわけるのはどうかと思うので「女性的」とするが、読者における女性的な視点での需要といおうか、お姫様的視点の乙女ゲーム(?)的な表現への希求がここに至り増しているのではないかという推測だ。乙女的なもの、宝塚的表現、英雄的なキャラクター要素といえばいいか。個人的にはフェミニンな百合もボーイッシュな百合もどちらも好きだ。

ところで同性愛について考えるなら異性愛的文化についても当然考えなければならない。ますます少子化が進んでいるというけれども、恋愛ですら現代は娯楽になりえない。
戦争もない今の世の中では恋愛のきっかけが本能ではなくなって久しいと思う。(戦争は当然不要であって、たとえ話だ) 現代の恋愛は一種の文化として築かれる。だから映画も小説も漫画も恋愛を取り扱う。
もう私たちの現実の方がそうした表現の払い下げ品ではないかというくらいにそちらは美しい世界に溢れている。
ただ世の中が世知辛くなってくると恋愛という文化を楽しむ余裕もなくなる。自己啓蒙とか自己啓発の学習には熱心でも関係性を築く恋愛の不確定性は億劫だ、という気分が蔓延している。暇人だけが恋をするといっているわけではないが、確かに、ある程度の懐の広さとか愛情は本能とまた別の部分で磨かれる。その研磨すら陳腐なものになりつつあって、アメーバになって分身を築くほうがいいといわんばかりに文学よりも科学が発展している。
それなのに結婚に関しては誰も捨て鉢になるわけではない、というのが現代の病的な面だ。

多数決ばかりの世の中のままならマイノリティはつらいはずだが、異性愛であれ同性愛であれ恋愛に関する動機がなければ発展しない。
そこにおいて必ずしも異性愛が有利なわけではない。
こうしてマイノリティが明るみに出される前、多数決原理の副作用で少数者には与えられていた隠れ家があり、そこで愛を見つけるのはかえって多数者よりも有利であることすらあった。LGBTという言葉がその村を打ち壊した。平等にしましょう、きれいなモールを駅前につくったからこちらに住んで下さい、というのが現代の動きでもある。
自然の林を伐採して捨てて芝生に植え替えてしまう。うちらは迷惑だっつーの、みたいな感想を抱いている層も少なからずいるのではないかと思う。私はそもそも独身者として長くすごしすぎているのだが、余裕のない二十代のときにこれをやられていたら迷惑で泣き喚いていただろう。

創作は不思議だ。
例えばリアリティがあるとか現実味があるといった場合にそれは表現や創作物に対する一種の賛辞となりうる。けれどもそれはけして現実ではない。
現実そのものはもっと雑多で浅くて容赦がない。だから理想の反映される創作物が求められて愛される。
けれども理想であるはずの創作に対してリアリティがあるといった言葉が賞賛になるということは、結局鑑賞する側はどこかで表現にも現実を求めている心根がある。
百合に於いて圧倒的に現代ものが多い割合を占めるのは理想の反映よりもリアリティが求められる裏返しではないかと思う。
社会派の百合とかメッセージ性のある百合なんてものはなくていい、という需要が大半であるように見受けられる。かつては女性同士の恋愛、つまり百合という時点でそれはどうやら現実ではなかった。妖怪とか都市伝説と同じ存在だった。
けれども現代では多様性の名目の元に同性愛者は可視化されている。こんな現況のなかで百合に対して女性同士であるというだけで理想の反映とするのは困難だろう。それを抽出するには才能が必要だし、それができるのは一握りの人材だけだ。いずれにしろ可視化されている現代では百合の鑑賞者の大衆化は免れない。求められるものは今後異性愛に求められる表現と似通ったものになっていくかもしれない。

最近ではパートナーシップというわかりやすい現実をきちんと創作の薪として取り入れているコダマナオコ先生作の「親がうるさいので後輩(♀)と偽装結婚してみた。」(百合姫/一迅社)を新しいと感じた。
恋愛があって二人でただ籍をいれましょう、という流れではない。動機が親からのプレッシャーであるという嘘からまことを生む出すストーリーラインが新しい。恋愛起点の物語は今までいくらでもあっただろうと思う。生活の必定から感情の発露を余儀なくされてしまう、その「がんじがらめ」が面白い。同性愛者は婚姻を許されず、異性愛者の真似事として指輪を贈りあったり約束や挙式をとりかわすしかないものだ。一方で、パートナーシップ制度はマイノリティの生活の呼吸を軽くするものだ。その制度を仕掛けとしている取り入れ方が軽くてあっさりしていて面白かったのだ。



一時期、個人的に同性愛者同士の挙式とか指輪交換といったものに対する反感が私にはあった。異性愛ですら現代では尊ばない習慣の模造品で安心しても仕方ないという想いがあった。創作表現でも結婚の真似事をするような百合作品には少しもやっとしたものを覚えてしまった。今ではそんなことはなくて、女性二人のウエディングドレスは素敵だと素直に感じる。けれども一方でそうした儀礼的なものが私たちの救いで最終地点という表現をされると困ってしまうと感じていた。
異性愛との決定的な差異は子供が為せないという本能的生物的な見地にあるので、女同士が結婚式の真似事をしたところで社会に対して貢献できないとだろうという後ろ暗さは免れなかった。
現代では同性カップルへの里子制度も認められつつある。その点で同性愛がそしりを受ける謂れはないという開き直りのような心境が生まれてきた。家を保つための子作りは無理であろうが、けれども同性愛者だけが子作りをしないことを指摘されるいわれもないとも思う。虐待のニュースを見ると余計に思う。子作りをしないことは正義ではないかもしれないが、わざわざ子を産んでいじめることは悪だろう。その点で子を為さないことを悪として自責する必要はないように感じる。あくまで主観だ。

最早自分というレズビアンにとっては創作物以上に現実の変容が救いのある存在になりつつある。それが実際である。そんな折に実際や現実の下地や取材をすっ飛ばさずに女同士だけれどもうまくやっていくぞ、という内容の創作物と遭遇できるとやっぱり嬉しくなってしまう。それが本能によった起点でないものとなると尚更だ。それにはリアリティがあるといって差し支えないだろう。

綺麗な絵柄でエロスがあって、それだけで百合としているものも嫌いではないし嫌いな百合はない。
ただ、レズであると現実や実際と照らし合わせずにいられないので、うまく取り入れている作品を見ると嬉しくなってしまうのだ。
一方で現実の情報を取り入れずにエヴァーグリーンな百合を築くなら、相当にうまく情報を排除しなければならない。
その認識のあるかなしかによって、受け入れられる過程も違ってくるだろうと思う。

多数者の側も別段結婚も育児もしないカップルがたくさんいる。それは現実だ。けれど彼らにはそれを為すと為さないとに限らず将来の可能性が冠されている。
同性愛者にはその可能性がないということが前提されていて、もうお互いの気持ちの成就、そればかりが最終地点になる。二人の気持ちが大切になってしまう。そこに純真さが見出される点が創作の糧となるのかもしれない。

挙式とか育児といった異性愛者の現実の儀礼を百合の芸術創作として取り入れるなら相当の手腕が必要だろうし、どんなに綺麗に表現されてもそれは同性愛の本質的な問題に対する解答ではないので当事者としては不足を感じてしまう。そこまで希求する読者は少ないだろうから読み飛ばして頂きたい愚痴だ。けれどもそもそも創作は、現実に対する回答をもたない創作ばかりだ。回答のある百合作品が現時点では少ないだけだ。

本質的に同性愛者の将来には約束とか制度というものは効果がない。セカイ系的に世の中の上部が下位の人間に政治的取り計らいをしたところで、問題になるのはやっぱり周囲の理解や生活だ。ただ一緒にいることと他者によって平穏を乱されないことだけが祈りとなる。だからといって政治的な取り計らいが心情に影響しないわけでもない。

儚いといえば聞こえがいいのでそのあたりも創作の糧になるのかもしれない。言い方を換えれば同性愛者の恋愛は実際脆弱性が高いのだ。その脆弱性への不満を埋めてくれるのは創作物ではなくて現実だ、ということを体感しつつある。けれどそれによって創作を軽視するわけではない。今まで創作に寄せていた期待が抜けてきて今ではもう少し純粋に楽しめるようになってきた、という意味だ。

私が百合を創作する上で描きたいのはリアリティなのか、それとも理想の反映か。その視点をきちんと見極めてから着手しなければと思い始めている。
自分が百合からリアリティを感じるのは容易いけれど、レズビアンでない大半の読者にリアリティーを感じてもらうのはかえって困難かもしれない。けれど、百合しか書けないのだ。好きだから。

noteからの収益は活動に必要な諸経費に活用させていただきます。また「ゆりがたり」の収益は一部取材対象の作家様に還元されます。