Autocracy Idea


 一

 人は死ぬと何処へ向かうのか? 解けることのない永遠の謎です。そんなこと死んでみないことには分かりっこないのだから。でも、果たして本当に? もし死んでも蘇ることが出来るとしたら? いや、永遠に死ぬことが無くなったとしたら。“死”という概念自体が無くなってしまったら、この問いは意味を持たない。そもそも誰もそんなことを考えないでしょう。しかし、今度は生きるということと、ただ存在するということの相違がとても曖昧になる。私たちは「物がある」とは考えても、「物が生きている」とは考えない。つまり、“死”の対義として“生”は考えられている。死ぬことがなければ、生きることもない。「表裏一体」というやつです。

 男は一通りそんなことを話すと、焦げ茶色の背広の胸ポケットから電気タバコを取り出した。カチャッという乾いた音を立てて、鈍く輝く銀色の筒を口に咥えながら私の頭上辺りを遠くを見るような目で見つめながら白い煙を口から吐き出す。
 「一体何が言いたいんだ?」
私は、男の勿体ぶった言い方に多少イライラしながら、話の先を促した。まあまあ、そう焦らないでくださいよ……と言いながら、男は微笑み、もう一度電気タバコを口元に持っていく。電気タバコを右手の中指と人差し指で挟んだまま、男は私の目を見据えた。先程までの薄ら笑いが消え、まるで喜怒哀楽全ての感情が欠落してしまったような、まるで能面を被ったような顔に私は多少たじろぐ。そうですね、百聞は一見に如かず。とりあえず、見て頂きましょう。
 「見るって、何を?」
男は私の質問を無視し、私の脇を通り抜けて部屋の奥にあるドアを開けた。そして、振り返る私に中に入るように促すような仕草を見せた。私は訝しがりながらも、男の促すままに奥の部屋に入った。

 古びた外観とは対照的な、近未来的映画で見るモニターやら、大型コンピュータが所狭しと部屋の中に並んでいる。そこから無数に伸びるケーブルが全て部屋の奥にある白いドーム状のカプセルに繋がれている。よく見ると、カプセルは開く前の蓮の花のように花弁状の蓋のようなものに覆われていて、その花弁状の蓋にはそれぞれ潜水艦に付いていそうな、分厚いガラスの丸窓が付属している。中はよく見えない…液体で満たされているみたいだ。中から目のようなものが見えて、私は身体をビクつかせた。
 
 「……これは」

 永遠です。

 「永遠?」

老いることも死ぬこともない、不老不死の身体です。まあ、物質は朽ちてしまうものなのでメンテナンスは必要ですが。そう言いながら、男はコンピューターのキーボードを叩く。プシューという、空気の漏れる音とともに、蓮の花が朝日を浴びてその花弁を開いていく様にゆっくりとカプセルの扉が四方に開く。中には透明な球体の金魚鉢のような容器に満たされた赤紫の液体と、そこに沈む裸体の女が胎児のように蹲っていた。

 「エオニオティタイド……人造人間か? 国際規約違反だぞ!」

もちろん内密に研究を重ねてきましたよ。アメリカもロシアも中国もインドもドイツもイギリスも、どの国も他国を出し抜こうと必死ですしね。だが、私が一番乗りですよ。CIAかKGBに私が消される可能性は高い。その前にこれを誰かに託す必要がありましてね……。
 「ちょっと待ってくれ。なにを言っているんだ。私は政府の人間でも、官僚でもない、一介の大学准教授だぞ。無理に決まっているだろう」

そこがいいんじゃないですか。誰が一介の准教授をマークするでしょうか。敵をだますならまず味方からと言うでしょう。それに、普通に暮らしても何の支障もありません。むしろ普通に暮らすことによって、彼女は普通の人間として全く見分けのつかない存在となる。三年も経てば、ほとぼりも冷めて晴れてこの研究結果を世界に発表できますから。その時のデータとしても一般社会での経験が必要なんです。もちろん、経費はこちらで負担しますし、多少の報酬はご用意できます。お母さん、ご入院されていますよね? 大変なんじゃないですか、しがない准教授で入院費まで負担されるのは。

 「そんなことまで……何者なんだ?」

狙われてるって言ったでしょう。あなたと直接お会いするのはこれが最初で最後です。あとは、こちらで連絡します。男は私にスマートフォンを手渡した。この中のアプリに“マコ”、エオニオティタイドの名前ですが、彼女の取扱説明書とメンテナンス用のシステムがダウンロードしてあります。くれぐれもアップロードなどはなさらないように。必要な場合は新しい物をこちらで用意して届けますから。

男は私の返事も聞かず、コンピューターのキーボードを再び操作する。球体の容器の底からボコボコと水泡が勢いよく上がり、赤紫の液体が吸い込まれていく。私は茫然とその様子を眺めていた。

 二

 冷蔵庫の扉を開ける。中に残っている物は…玉ねぎ半切れと、人参、卵を切らしている。あとは、冷凍庫に豚肉を半パック入れていたはずだ。しかし、しまったな。今日はお弁当は無理だ。パンを買ってもらおう。
 「マコちゃん、今日はお弁当なしで、パンでいいかな?」
リビングでテレビの天気予報を眺めている彼女にキッチンから話しかけるが、返事はない。反抗期までインプットされているのか? そこまで人間に近づけてしまったら、エオニオティタイドである必要なんてないじゃないか。そういう人間らしさを排除してこそ、彼らの存在価値が生まれるのではないか。まあ、エオニオティタイドにまで人間らしさを求めるというのが人間の愚かさそのものなのかもしれないが……。
 私はとりあえず豚肉を解凍する合間に電気コンロのスイッチを入れ、フライパンを温める。玉ねぎをまな板の上に載せ、千切りにする。それから人参の皮をピールカッターで剥き、短冊切りにして、温まったフライパンに油をひいて炒める。電子レンジは使えないので、時々フライパンをコンロから離し、豚肉に近づけながら解凍する。マコは普通に食事ができるが、電子レンジは物質の分子にを破壊してしまうので、マコの現在の機能では故障に繋がってしまうと固く禁じられているのだ。早くアップグレードしてその辺りを改良して欲しい。というか、反抗期のメカニズムを導入する前にそちらの方が優先されるべきだろう、どう考えても。研究者はいつも消費者のことなんて考えていない悪い例だ。だから、主婦のアイデアがミリオンヒットを生み出したりするんだよ。

 「朝ごはん、まだ?」
マコがキッチンに入って来て、冷蔵庫の中から牛乳を取り出しながら私に尋ねる。
 「あ、ごめんごめん。すぐできるから。お弁当……」
 「パンでしょ? いいよ、それで」
牛乳パックの口を開き、グラスに注ぎながらぶっきら棒に彼女は答える。
 「ごめんね。昨日買い物するの忘れてて……」
カタっと飲み干したグラスをテーブルに置く音だけを残し、彼女はそそくさとリビングに戻った。私はフライパンに豚肉を入れ、塩コショウを振り掛ける。豚肉がしなってきたら、遺伝子組み換えの大豆を使っていないオーガニックの醤油を加え、電気コンロの火力を弱める。電気ポッドで湯を沸かし、インスタントの味噌汁を作る。フリーズドライには対応しているらしい。保温しておいた白米を茶碗によそう。彼女は今日の星座占いを眺めていた。一応、プロファイル上二〇三四年九月十一日生まれの乙女座ということになっている。乙女座は……最下位だ。
 「お待たせ」
私は彼女の目をテレビから逸らせようと少し大きな声で、乱暴に食器を並べた。彼女はチッと舌打ちしながら食卓に向かった。舌打ちなど、どこで覚えたのだろうか? ディープラーニングとやらは未だにそのメカニズムを解明できないでいるが、改善の余地大有りだ。あの奇妙な男と、そしてこのマコと出会ってもう三年が経とうとしている。その間にスマコが二回取り替えられ、マコもメンテナンスを一度受けた。男は三年で彼女は回収され、世界に向け世紀の大発明が発表されると息巻いていた。しかし、昨年の暮れにロシアが軍事用エオニオティタイドの大量生産に成功したことを突如発表して以来、男からの連絡は途絶えた。アメリカとヨーロッパを中心とする国際連合はロシアに対し、即刻エオニオティタイドの生産中止と研究の凍結を勧告したが、中国とロシアは例のごとく無視を決め込んでいる。一部の報道では、アメリカもすでに軍事用エオニオティタイドを完成させていて、中東の内戦地域に投入していると言われている……。報酬と、母親の入院費は先月も振り込まれていたが、それもどうなるか分からない。
 「美味しい」
まるで私の不安を見透かしたように、あの不機嫌な態度を改め笑顔でそう私に語り掛けるマコに私は虚を突かれる。
 「そ、そう? あり合わせでごめんね。良かった」
私は顔を多少引きつらせた笑顔で応える。まるでこちらがエオニオティタイドのような気分になる。しかし、私が抱いていた不安は想像を絶するほど大きな災厄となり、私たちの生活に襲い掛かってきた。

 三

 「行ってきまーっ……ふ」
ユキトは口に挟んでいた、トーストを落としそうになって慌てて左手で掴みなおして再び口に突っ込む。踏んでいたスニーカーの踵を右手を使って伸ばしながら、足を入れなおす。玄関の格子扉を左手で押し開け、右肩に下げていた青い学校の補助バックを左肩にかけてから右手で玄関の扉を閉めた。左目の端に「蔵雅」の表札が映る。ユキトはやっぱり変な苗字だよな、と思いながらトーストを胃袋に押し込んで走り出した。走りながら見える通学路の景色は、中産階級が住む無個性な一戸建てが並んでいて、いつも変り映えのしない退屈なものだった。ユキトは、そんな景色にはもちろん脇目も振らず無心に走り続けた。しかし、右目の端に何かいつもと違う様子を捉え、足を止めて引き返してその場所を眺めた。見通しの悪い信号のない交差点の真ん中に一台の黒いセダンが停まっていて、その周りに人だかりができていた。
 「何だ? 交通事故?」
ユキトは頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。彼の足は自然とそちらに向かって進んでいた。人の話し声はガヤガヤという騒音にしか聞こえてこない。ユキトが考えていたより多くの人間が集まっていて、その先が全く見えない。ユキトは「すいません」と声を掛けながら、人混みを掛け分けた。人混みの一番前まで出ると、明らかにぶつけたと分かるようにへこんだボンネットと、その前に横たわる制服姿の女の子が俯せに倒れていた。うちの高校じゃん、そう思いながら運転手だろうか、倒れた女子高生の肩を抱きかかえながら「大丈夫ですか?」と声をかけている、貧相な顔をした男の方に目をやった。嫌なもん見たな~……こういうのって霊感強い人に霊が憑いて来たりするんだよな、確か。ボンネットのへこみ具合などから完全に死んだ者扱いしながら、ユキトには不謹慎過ぎて口に出せない考えばかりが脳裏をよぎった。周りの野次馬も同じ考えに違いない。誰一人彼女に近づく者はなかった。しかし、「救急車、それから警察!」と二十代後半から三十代くらいだろうか、OLのような恰好の女性が叫んだと同時に只々様子を窺っていた集団がざわざわと動き出した。貧相な顔の男も彼女の肩から静かに手を離し、警察にスマホで電話をかけ始めた。

 「あ、大丈夫です……」

ユキトは耳元に声が聞こえた感じがして、ビクッと身体を硬直させた。マジか……俺あんまり霊感無い方だと思ってたんだけど、そう思いながらユキトは恐る恐る声のした方を振り向く。誰もいない……
 「すいません、大丈夫なんで。皆さん、気になさらず」
ユキトは目を疑った。女子高生が全くの無傷でムックリと起き上がって、膝の泥を落としていた。
 「え? だ、大丈夫なの? 今、救急車が来るから一応病院で検査受けてね」
貧相な顔の男もユキトと同じような驚いた表情で、女子高生を上から下へと初めて見た生物のように観察する。ユキトと同じ高校の制服だ。艶のある黒いロングヘアで前髪は眉が隠れる長さで綺麗に切り揃えられている。大きな瞳は淡いブラウンで、異国の血が流れている印象を与える。スリムな顎のラインが華奢なイメージを喚起させるが、体型はいたって普通。しかし、とても何かスポーツをやっているようには見えない。ユキトはありったけの記憶力を動員して、彼女を知っているか探ったが思い浮かばなかった。程なく、サイレンの音が聞こえてきて、パトカーが二台停車した。中から警官が四人降りて来て「どいて下さい」と野次馬に声を掛けながら、それぞれ二人ずつが貧相な顔の男と、黒髪の女子高生に話しかけていた。貧相な顔の男は、そのままパトカーに連れて行かれた。黒髪の女子高生は、すぐに来た救急車に運び込まれて病院に向かった。担架を勧められたが、断り救急隊員二人にに肩を抱きかかえられながら救急車に向かう際、ユキトの方をチラッと見て二人の目が合った。ユキトは知らないはずの彼女をなぜか知っている気がした。

 「おい! ユキト! 行ったぞー」
FIFAワールドカップ公式球であるテルスターを模した人工皮革製の球体がユキトの頭上と抜けるような青い空の間を飛行していく様子を見て、カラオケの模擬MVの映像で見たことある様な画だな……と思いながらユキトは彼の背後に落ちて転がるサッカーボールを追いかけた。昔は、牛の膀胱と天然革皮で作られていたサッカーボールは世界で七割から八割がパキスタンで製造されていたという。サッカー発祥の地であるイギリスの植民地であったことと、牛を聖なるものとして殺せないヒンドゥー教徒の多い隣国インドと違い、牛の屑殺に対して抵抗がなかったことがその背景にはある。しかし、雨により水分を吸収して重くなってしまうことから、一九八六年のワールドカップ・メキシコ大会から人工皮革製が用いられるようになり、またパキスタンでの児童労働の問題も浮き彫りとなり徐々に生産地が各国に拡散した。二〇二〇年を過ぎたあたりから、途上国と呼ばれていた国は飛躍的に発展し、人件費が高騰し、少子高齢化の進んだかつての先進国が製造業を請け負うようになった。今では日本にも静岡を中心にサッカーボール工場が数多くある。今、ユキトがボールを蹴り返した同級生のシンゴの父親は、サッカーボール工場を営んでいる工場長だ。さっき四限の社会の授業で習ったばかりのことを思い出しながら、ユキトは灼熱の地で殺される牛と、その膀胱を膨らませて革を縫い合わせていく幼い褐色の少年少女の姿を想い描いた。とても現実感がないな、そんな人並みの感想しか出ない己の感覚に強い嫌悪感を覚えた。思わず力の入ってしまった右足の一振りで人工皮革製の球体はシンゴの頭上を大きく超えて、校庭の端へと飛んで行った。
 「どこ蹴ってんだよー!」
シンゴが叫びながらボールを追いかける。次の授業で体育館に向かう生徒たちの列までボールは転がって行った。ユキトは「わりぃ!」とシンゴに叫びながらボールの行く先を遠目で見ていた。
 
 「あ……」

今朝見た交通事故の女子がサッカーボールを片手で拾い上げた。そのまま軽く振り上げてこちらへ向かって投球したかと思うと、一瞬で人工皮革製の球体がユキトの目の前に現れた。……嘘だろ、心で呟く暇もなくユキトはボールを胸でトラップした。重い一撃を食らったようにユキトは体を折り曲げた。しかもこのスピード、人間じゃねえ……。

 「大丈夫か?」
シンゴがユキトの元へ走り寄って声を掛ける。
 「ああ……何者だよ? 知ってるあの娘?」
ユキトはボールを右足で押さえて、シンゴに尋ねた。
 「マコだよ、飛鳥マコ。4組のアイドル。成績トップで男子より運動神経抜群。漫画のキャラクターみたいな娘だから、みんなどう接していいか分からないみたいだけど」
 「ふぅん」
飛鳥マコ……か。ユキトはつまらない日常が一気に崩壊していく心地良い音を聞いた気がした。

 四

地面に転がる男の身体がビクつく様子を見て、ジョシュアはもう一度男の腹部辺りに革靴のつま先を思いっ切り蹴り込んだ。うっ……と男は声を漏らす。ジョシュアは男の頭部の前にしゃがみ込み、ポマードで固めた痕跡ももはやすっかり無くなった、その男の垂れ下がった前髪を掴み、元の顔も思い出せないくらい腫れあがって、歪んだ男の顔を覗き込む。
 「どうだ? 何か思い出したか?」
男の瞼は腫れていて、その瞳を確認することはできない。意識があるのか、ないのかも判然としない。
 「無駄だよ。早く片付けようぜ」
ジョシュアの背後から二メートルはあろうかという巨漢がその太くて低い声で話しかける。
 「バクチン、手加減しろって言っただろ。ここでこいつを殺ったら、また振り出しに戻るだろうが」
 「すまねぇ。まだ力の調節が難しいんだよ、新しいアーマーに変えたばかりだからよ」ジョシュアは男の前髪を離し、頭を地面に叩きつけて微笑を浮かべる。
 「……何だ、やけに素直に謝るな。アーマーだけじゃなくて、チップも取り替えたのか?」
 「俺はもともと素直な性格だよ。ジョシュアがひねくれ過ぎなんだ」
ジョシュアは静かに立ち上がり、バクチンの方を振り返る。
 「フッ……そうかもな。仕様がない。きっちり跡形もなく消しておけ」
 「了解」
バクチンは右手で男の頭を包み込むように握り、身体をそのまま持ち上げた。そして、手首をスナップさせると、ポキッという乾いた音が響き、その後男が再び動くことはなかった。ジョシュアはトレンチコートの右ポケットからイヤホン型の電話機を取り出し、右耳に付けた。
 「……私だ。手がかりは消えた。次の候補をリストアップして、送ってくれ。あと、もう少し自由に動けるように大使館に働きかけてくれ」
一方的に報告を済ませて、スマホを切り、防波堤に停めたエアクラフトを呼び寄せる。黒い機体が四隅から巻き起こる旋風でゆらゆらと浮き上がる。その不気味な外見には似つかないスムーズで静かな飛行であっという間にジョシュアの眼前にエアクラフトは現れる。静かにドアが解放されジョシュアはドアの下にある足掛けに足を掛けることなく、飛び乗った。
 「おい! 早くしろ。そいつの情報をくれた奴も消すぞ」
バクチンはバラバラに引き千切った男の身体を詰めたドラム缶に、火を付けたマッチを投げ入れてその巨漢からは想像できない軽やかな身のこなしでエアクラフトに飛び乗った。エアクラフトは大きく一旦沈む様に地面に近づき、再び浮上してオホーツク海上に飛び去った。初めは燻って白い煙を上げていたドラム缶も、脂肪を含む油を燃料に赤々とした炎をまとい灰色の世界を煌々と照らし彼らを見送っているように見えた。

 「こんなガセネタくれた奴なんだから、もうとっくにトンズラしてんじゃねえのか?」日本製のコンソメ味のチップスを袋から直接口に放り込みながら、バクチンは呟く。
 「我々と接触した人間が我々から逃れられることは、万に一つもない」
ジョシュアは眼鏡型のウェアラブルをかけ、その右側のレンズに映るマップとそこに点滅する赤い点を指さしながらバクチンに答える。そして、自動運転から手動に切り替え、操縦桿を握った。
 「いつの間に発信機なんて付けてたんだよ」
 「お前のチップじゃ、いくらアップデートしようと考えつかない回路が私のチップには備わっている」
 「へいへい。やっぱりひねくれてるぜ、あんたのチップは」
皮肉に応えるように、ジョシュアは操縦桿を思いっ切り引き、エアクラフトはオホーツク海上すれすれを隼のごとく勢いよく飛行し、陸上を離れる。その姿はまるで宇宙船が忽然と消える映像のようだった。

 男の居場所示すポイントは、クナシル島上、クリル諸島(日本は北方領土と呼び領有権を主張している)の最南に位置する場所で点滅していた。日本とロシアは2017年に共同経済活動について協議を始め、未だに曖昧な境界線に位置する島だ。ジョシュアは軽く舌打ちした。
 「厄介な場所に逃げやがったな」
 「まあ、日本人なんていねえよ。たまに観光で来る、物珍しい連中もいるがな。消しても国際問題にはならねえような問題抱えた奴らだよ、きっと」
 「お前のその根拠のない思い込みが、今までどれだけの問題を生み出したのか……。お前は知らないだろうが、俺が全部尻拭いしていることだけは忘れるな」
 「へいへい」
 この島の中心集落であるユジノ・クリリスクは、島の南東部に位置した太平洋にも面する港町だ。日本名は古釜布と言うらしいが、約一万人の住民のほとんどがロシア人だ。夏は冷涼だが霧が多く発生するため、航空機の離発着が困難になり欠航が相次ぐ。幸いまだな流氷も流れ着くようなこの季節には、霧は滅多に発生しないものの風が強いという違った気候的問題が発生する。オホーツク海上の高気圧と日本列島を覆う低気圧がぶつかるように横たわっている、今日みたいな気圧配置の時は時折強い風がこの島を吹き抜ける。ジョシュアは風の流れを予測し、視覚化するアプリを起動しエアクラフトのモニターに映し出す。
 「バクチン、少し揺れるが我慢しろ」
バクチンは袋に残っていたチップスを全て口の中に放り込み、袋も胃袋に詰め込んだ。もちろん疑似的な胃袋なので全てを溶解してエネルギーに変える。ジョシュアは操縦桿を風の予測モニターを見ながら細かく動かして、島の玄関口であるメンデレーエフ空港の滑走路の上をすれすれで飛行していく。管制塔からの交信を傍受しながら飛行機が離発着しないことを確かめ、空港ビルの近くにエアクラフトをゆっくりと着陸させた。
 「はあ、こんな島にも空港があるんだな」
バクチンがきょろきょろと辺りを見回す。
 「しかしよ、エアクラフトなんだからわざわざ空港に降り立つ必要ないだろうよ。直接あの男の近くに降りれば良かったじゃないか」
 「厄介な場所だと言っただろう。日本人の観光客なんかに俺らが姿を見られるわけにはいかないんだ。ここでしっかり情報収集する。あの男を消すのはそれからだ」
 「なんか分からんが、時間かかりそうだな……」
 「今日の実行は無理だ。明日また動く。お前は島の観光でもしていろ。温泉もあるというぞ」
 「温泉か……いいねぇ。食い物は美味いのかね?」
 「知らん」
 「そうかい。じゃあ少し街をぶらつこう」
 「明日の朝、お前のチップにスケジュールを転送する。くれぐれも問題は起こすなよ」 「了解」

 五

ユキトは飛鳥マコのことを追いかけるようになって、ますます彼女に対する疑念が深まった。彼女が都市近郊の大学准教授というしがない父親との二人暮らしであるということは、別に何も珍しくないとは言え、彼女は常に一人で友達もいないみたいだ。まるで意識的に他人との関わりを絶っている様に見える。シンゴは、彼女がただ気難しくて周りが避けているだけだと言っていたが、ユキトにはその逆であるように見えた。それは、彼が彼女が車に轢かれながら、無傷でいたことやサッカーボールを片手で五〇メートル飛ばす人知を超えた身体能力を目の当たりにしたからかもしれない。しかし、それはシンゴも見ていたはずだ。何故、あの時そのことに無関心だったのか? ユキトだけが知らないことがまだ色々とあるのかもしれない。彼はそう考えてシンゴに色々と尋ねたが、「何だよ? 一目惚れか?」と茶化されて終わってしまう。「俺の知らないことが世界で起こっている……」ユキトは頭に浮かんだ言葉を口に出した。それは口に出した途端にとても陳腐なフレーズとなってしまうことに気づき、彼は一人で笑ってしまった。このままでは埒が明かない。直接話しかけてみよう、ユキトはそう決心し、飛鳥マコの教室に向かった。

 ユキトたちの通う公立高校は、全校生徒三〇〇人程度が在籍するこの辺りでは小さな高校だ。学力も平均的で、特に抜きん出た部活動もなく、定員割れギリギリでいつ廃校してもおかしくない。とは言え、ユキトやシンゴのような中流家庭の子供たちの受け皿として立派に役目を果たしていることは確かだ。彼らには私立に通うような財力は無いが、中学を出て即働くような切迫した環境でもないのだから。こうした政治的にも直接結びつかないような特殊な層がこの国の平和を維持してきたと言っても過言ではないと、言及する社会学者もいたり、いなかったりする。とにかく、そういった理由でこの高校の校舎はとても旧態然としている。美術館や図書館だけではなく、今や校舎にもカフェテリアが併設されるのが当たり前の時代だがここにそんなものはなく、五〇を過ぎたおばさんが売り子を務める売店が一つあるだけだ。一年生の教室が三階、二年生と教職員室が二階、ユキト達、三年生の教室は売店もある一階に位置している。一クラス三〇人程度で四クラス、理科室は一階、美術室は二階、音楽室は三階にある。三階にはさらに多目的室があり、シアタールームと、放送室として使用されている。飛鳥マコの在籍する四組の教室は、売店の隣りに位置した場所にある。ユキトは廊下から彼女の教室を覗くが、休み時間ということもあり、パッと見ただけでは彼女がいるのかどうか分からなかった。廊下で話し込んでいる三人組の女子に聞いてみる。
 「あの、飛鳥マコさんって今どこにいるかご存知ですか?」
 「え? マコちゃんって……さあ。いつも休み時間にはどこかに出て行って授業が始まるまで戻ってこないよね?」
ショートカットの活発そうな子が残り二人に話を振る。内気そうな黒髪ロングの子と、ポニーテールの顔立ちのハッキリとした子は首を縦に振り、頷いた。
 「多分、屋上にいると思います。前に一度見かけたことがあったから……」と黒髪ロングの子がぼそぼそと話すのを聞いて、ユキトは三人にお辞儀して屋上に向かった。

 少し錆びれた鉄製扉のノブを握り、一瞬、力を込めて外に向けて押し開ける。冷たく乾いた空気がユキトの顔を撫でまわすように押し寄せ、流れるように吹き抜けて彼の背後の校舎の中の暖かな空気と交わり、初めからそこにいるような面持ちになる。ユキトは紺色のダッフルコートを持ってこなかったことを後悔する程の寒さに身震いしながら、扉を閉めた。校舎を出て、対角線上のクリーム色の貯水タンクの真上に飛鳥マコは腰かけていた。そこから何が見えるのか、ユキトは想像できなかったが、彼女はぼんやり眺めているというより、ただ一点をずっと凝視している様子だった。ユキトは彼女の視点の先を見てみたが、校庭の先にビル群が広がっている光景がそこにはあるだけだった。
 「蔵雅ユキト、二〇三四年四月二〇日生まれの十八歳。趣味はサッカーとVRゲーム……」
 「わわわわわわ…ちょ、ちょっと待って! 付け回していたことは謝るから。そういうつもりじゃなくて……」
 「じょあ、どういうつもりだ? 何の用があって私を付け回す?」
 「それは……」
 「私が人間ではないと疑っているのか?」
ユキトはいきなり核心を突かれて、ますます動揺した。 
 「……え? やっぱりそうなの?」
 「そうだ。私は世界で初めて開発に成功した、エオニオティタイドという人造人間のプロトタイプだ。すでにロシアやアメリカ、中国には戦闘能力を高めたネオ・エオニオティタイドが複数存在している。しかし、一般的に実用化されているのは私だけだ」
エオニオティタイド? プロトタイプ? 何を言っているのか、ユキトには全くわからなかったが、人間でない人間らしきものと言えば、サイボーグか人造人間と相場は決まっている。しかし、本当にそんな漫画や映画の世界が自分の前に現れると、人間とは混乱するものなのだ。
 「どうだ? 満足したか?」
 「満足も何も……本当に?」
 「嘘だ。そんな訳ないだろう」
 「えええ」
 「もういいか? 休み時間が終わってしまう」
飛鳥マコは給水塔からパッと飛び降り、スタスタとユキトの脇を通り抜けて校舎に向かった。
 「あ、あの!」
黒く艶やかな髪をなびかせながら、飛鳥マコは振り向いた。彼女の漆黒の瞳は見る者の意識を吸い込むような、奥深さを感じさせる。
 「まだ何か?」
 「そ、そのいつもここに来ると聞いて……僕もここに来てもいいですか?」
 「は? 何で?」
 「いや、その、さっき言ったことが全くの嘘だとは思えないし。それに……もっと良く知りたいから、君のこと」
 「……フンっ。好きにしろ」
飛鳥マコはドアを軽々と開けて校舎に入って行った。

 「おいっ! 蔵雅!」
ユキトはさっき起きたことをずっと頭の中で思い返していて、全く授業に集中できていなかった。今は国語の授業で、金田先生の担当だ。ユキトはとりあえず起立した。
 「聞いてたのか? 六七ページ、読んで」
 「あ、はい」

――暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮やかな蜜柑の色と―すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体のしれない朗らかな心もちが沸き上がつて来るのを意識した。――

 今、読んでいるのは、芥川龍之介の『蜜柑』という作品だ。正直、芥川賞がこの人の名前から来てるということと、この人が自殺したということくらいしか知らないし、ユキト以外の同世代の人間も大体そんな感じだ。

 「はい。よろしい」
そう言われて、ユキトは着席した。
 「ここには主人公の気持ちの変化が、その景色と共に描かれているのは分かるよな。トンネルから抜けると同時に広がった主人公の隣に座った女の子の故郷の景色と、彼女が見送りに来た弟たちに投げやった蜜柑の鮮やかな色のコントラストが、暖色をあえて強調することで主人公の疲弊して薄暗くなった心を明るく照らすように描写しているんだ。二等車に三等車の切符を握りしめて乗り込んできた“田舎者の小娘”を主人公は別人のように見る。そして――私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。――と結ぶわけだ」
 ユキトは金田先生の解説をぼんやり聞きながら、一〇〇年以上前の景色を思い浮かべた。頬を赤らめた年端もいかないユキト達と変わらない女の子が、どこか遠い都会へ奉公の為に家族と離れ、一人で機関車で向かう夕暮れ。女の子は唯一持っていた蜜柑を、見送りに踏切りまで駆けてきた幼い弟たちに車窓から投げやる……何だか全然、現実味がない。ユキトの曽祖父母くらいまで遡れば分かるだろうが、どちらももうこの世界にはいない。本当にこうして文書として残っていなければ、全く誰も知らない世界観に違いない。ユキトは、飛鳥マコとの出会いを書き記そうと考えた。

 六

 「や、やめてくれー!」

バクチンに持ち上げられた男は、宙に浮かんだ両足をばたつかせながら叫んだ。ジョシュアはその後ろで静かに煙草に火を付ける。今では電子タバコが主流で煙草は高級な嗜好品となっているが、日本ではいくらか安く手に入る。ジョシュアは火を付けたマッチの火を手首を振りながら消して地面に投げ捨てた。フィルターを通して醸造された煙を肺に入れてからゆっくり吐き出す。口から吐き出された煙は、西から吹き込んだ風に流され冷たい海の上空へ向かって消えていく。その煙を追っていた目を再びバクチンに持ち上げられた男の方に向けて、ジョシュアは「あんなデマ握らせておいてタダで済むと思ったのか?」と口元に笑みを浮かべる。
 「ち、違う! 何か誤解してるよ、あんたたち……」
 「あ?」
バクチンの右手に力が入り、男はさらに高く持ち上げられる。
 「…うガ、日本政府が絡んでる。あんたらが到着する前に奴らが情報源をすり替えたんだ」
ジョシュアは煙草の灰を右手の人差し指で軽く叩いて落とし、再び煙草をふかした。
 「ほう。人のせいにするのか?」
 「政府の人間を俺は知ってる! そいつがあんたらの探し物の在処も知ってるはずだ!」
 「バクチン、放してやれ」
 「こいつ、命惜しさにまたでまかせ言ってるに決まってるぜ」
バクチンは男を背後の壁に叩きつけた。
 「う……がっ」
 「バクチン!」
 「チッ」
バクチンは男の胸ぐらから右手を離した。男はそのまま滑り落ちるように四つん這いになった。
 「よし。じゃあ話してもらおう、その政府の犬とやらの居所を」

 ジョシュアはロシアの諜報機関から預かったデータと男の話した情報を照合したが、一致する人物は見当たらなかった。
 「もう一度、聞こう。本当にそいつが例のものの在処を知っているのか?」
 「間違いねえよ。開発者なんだから」
 「極秘プロジェクトってわけか。データベースに記憶されていない……」
ジョシュアは、男の右手の甲に煙草の先端をゆっくりと押し付けた。
 「熱っ!」
男は右手を跳ね上げた。バクチンがその右手を取り、ゆっくりと男の体を持ち上げる。
 「ほ、本当だよ! 間違いない、そいつが俺に例のやつを預けて身を隠そうとしてたんだ。俺はそんな危なっかしいことは御免だから情報を売ってさっさとこの件から離れたかったんだよ」
 「ほう。じゃあ、お前はそいつの顔を見たんだな?」
 「あ、ああ」
 「よし。それが分かればいい」
ジョシュアは煙草をふかして地面に放り投げて、右足で先端を踏みながら火をもみ消した。そして、コートの右ポケットから黒い革製の手袋を取り出して両手にはめた。バクチンは右手で男の首根っこを掴んで壁に押し当てた。
 「うぐっ……」
ジョシュアは右手で男のこめかみを抑えた。
 「人間の記憶というものは、脳幹の上部に位置する海馬にいったん保存されて必要だとそいつが判断したものが大脳皮質に蓄えられて長期的な記憶として残っていく。今、お前は必死で男の顔や聞いた話を思い出そうとしていて活発にシナプスが電気信号を送っているはずだ。海馬に蓄えられる情報量はごくわずかだ。必要ないと判断された記憶は次々に消えていく……」
 「な、何をする気だ?」
 「お前の海馬から直接、男の情報をもらう」
 「ひっ」
ジョシュアは左手で男の右眼を開き、右手を眼球の奥にゆっくりと突っ込んでいった。
 「うぎゃーーーー」
眼球を引き千切り、その奥にあるタツノオトシゴのような形状をした海馬をつかみ取ってステンレス製で筒状の小さな電磁波凍結カプセルに素早く入れる。細胞に微弱エネルギーを送り細胞内の水分を瞬時に凍結させて細胞が破壊されるのを防ぐ。バクチンが手を離すと、男の身体はどさりという音を立て地面に落ちた。男の指先がひくひくと動くのを見て、ジョシュアは「始末しておけ」とバクチンに言い、スマホを取り出す。
 「ああ、俺だ。有力な情報を手に入れた。解析が必要だ。すぐに本国に戻る。準備しておいてくれ」

 ウラジオストクはソ連崩壊後、ロシアにおける極東の窓口として政府は積極的に外資を受け入れている。日本の直行便も週に一〇便以上が往来している。その裏で諜報機関の情報源となっていることも国内では周知の事実だ。管制塔近くの倉庫近くにエアクラフトを着陸させて、バクチンとジョシュアは、政府機でウラジオストクの政府直轄の研究施設へ向かった。
 「こいつの解析を頼む」
ジョシュアはカプセルを研究員に手渡す。白づくめの研究員はカプセルを大型鍋のような容器にセットし、その中でカプセルは超高速で回転を始めた。その様子を見てジョシュアは部屋から出た。施設の屋上に出ると、吹雪で外の様子は全く視覚では確認できなかった。「ちっ」と軽く舌打ちして、ジョシュアはポケットから取り出そうとした煙草を元に戻した。ジョシュアとバクチンはこの研究施設で開発された。任務遂行のために無用な感情移入や恋愛感情は元から省かれているが、余りにも人間らしさが欠落していると彼らがエオニオティタイドであるということがすぐにばれてしまうので、ある程度の喜怒哀楽のシステムがインプットされている。彼は仮想家族を国際連合軍の誤爆で失ったという記憶を埋め込まれている為、国際連合加盟国の人間を容赦なく殺戮できるということらしい。馬鹿なバクチンが、ジョシュアの秘密だと称してあっさりと打ち明けてくれた。我々は任務遂行が基準となって記憶の取捨選択をシステムがおこなっているが、一体人間はどのような基準で記憶の取捨選択を行っているのだろうか? そんな素朴な疑問がジョシュアに浮かんだが、任務遂行に必要な感情ではないと判断され、即座に消去された。ジョシュアは再びコートのポケットから煙草を取り出し、右の手のひらで風を遮りながら火を付けた。煙草をふかして天を仰ぐ。その視線を圧迫するように重く立ち込めた灰色の雲がジョシュアの頭上に広がり、吹きすさぶ風が彼の消去された疑問を遠くへ運び去るようだった。

 茶色のジャケット姿で、電子タバコをふかしている日本人らしき男がモニターに映し出された。そして、その男の後ろに大きなカプセルが見え、中に少女らしき人影がはっきりとはしないが確認できた。
 「こいつか」
 「はい。後ろの施設も型は古いですが、まず間違いないかと……」
研究員が、椅子に座ってモニターを確認しているジョシュアの背中に向けて答える。
 「ハハッ! やっと見つけたな」
バクチンが二人の後ろでアメリカ製のポテトチップス“KETTLE”のソルト&ビネガー味を頬張りながら叫ぶ。
 「ああ。やっとこの任務も終わりそうだ。……貴様、アメリカの菓子なんか食ってんじゃねぇよ」
 「いいんだよ。旨けりゃ、どこの菓子だろうが。モスクワにもマクドナルドが山のようにあるじゃねえか。ロシアの菓子は甘いものばっかりだしな」
 「ふん。プリャーニキは最高の菓子じゃないか」
 「あれだって甘いよ」
 「そうやって、全てが資本主義のシステムに回収されていくことが分からないのか?」 「いいものは取り入れていかなきゃ。ペレストロイカだって評価されてるぜ」
 「なぜ貴様のような思考回路が開発されたのか、理解に苦しむな」
 「言うね。俺たちみたいなエオニオティタイドが生き残っていくためにさ」
 「まあ、いい。ここに映っている施設から場所を特定できるか?」
ジョシュアは、研究員の方に顔を向けて聞いた。
 「すでに特定しています。東京の郊外のようです。しかし、衛星から送られてきた映像では、現在更地になっている様です」
 「そうか……まあ、手がかりがあるかもしれない。バクチン、行くぞ」
 「アイアイサー」

 七

 その一

 『出会い』

 その娘は、マコと言った。飛鳥マコ……
出会いは強烈だった。黒いセダンに衝突したと思われる彼女が道路に倒れ込んでいるところに遭遇したのだ。しかし、彼女は全くの無傷でムックリと起き上がったのだった……

 「何だよ、これ? ラノベ?」
 「違うよ。ノンフィクションだよ!」
ユキトは書き記した飛鳥マコの記録を、早速シンゴに読ませた。人に読ませる文を書くということは、意外に難しいものだと彼は改めて思った。書く材料の研究がもっと必要なようだ。ユキトはシンゴから大学ノートを取り上げ、屋上に向かった。
 ドアノブを回しながら右肩を預けるようにして錆びついた鉄製扉を開ける。この作業にも大分慣れてきた。彼女はいつもの様に貯水タンクの上に座って遠くを見つめていた。
 「やあ」
 「……」
 「今日も冷えるね……って言っても、人造人間に気候は関係ないか」
 「そんなことはない。ある程度の感覚が分からないと人間社会で生きてはいけないからな」
 「なるほど。じゃあ、お腹も空いたりするんだ?」
 「我々のエネルギー源は、人間と同じで糖分だからな。もちろん予備のエネルギータンクが埋め込まれているが」
初めのは、ただ黙って隣に座っているだけだったが、最近はユキトの質問にマコも自然と答えるようになった。ユキトは、マコの横顔を眺めた。長く艶やかな黒髪がなびいて彼女の頬を撫でていた。この髪の毛も人工物だろうか……確か中国では人が切った髪の毛を編んでかつらを作っていて、髪の毛を売る人を探して生計を立てる人もいると聞いたことがある。日本で販売されている物も、その多くは中国からやって来ると聞いた。となると、彼女の髪の毛は、ずっとこの長さで伸びることもないのだろうか。ユキトは彼女を質問攻めにすることも何だか気が引けて、彼女の視線の先を眺めた。深夜から雪が降り、都心でも積雪する恐れがあると天気予報で言っていた通り、灰色の厚い雲が空を覆いつくしていた。その雲に突き刺さるように伸びたネオフィフスタワーの頂上は、ここからは全く見えない。都心のビル群を遥かに凌駕するその巨大さと、古き良き時代の伝統的日本の文化を残そうと五重塔をモチーフにデザインされた近未来なのか古代なのか、よく分からない出で立ちが相まってファンタジーアニメーションの世界観を醸し出していた。
 「知ってる? あのタワーをデザインした龍口研新という人、僕の親戚のおじさんなんだ。なんか、若い時にブリューゲル…だったかな? 『バベルの塔』っていう有名な絵画を見てそれにインスパイアされたんだって」
 「そうか。龍口研新のデータならば、私のデータバンクに登録されている。もちろんお前との血縁関係についてもだ。今やこの世界にプライベートな事象など存在しない。相互監視のディストピアだ。ずいぶん前にジョージ・オーウェルが『1984』という小説で描いていた世界は、具現化されたのだ」
 「ちょっと何言ってるか分からないけど、僕の親戚のことまで記録されているなんて驚きだな。ドキドキ、ワクワクしたりする感情は君の中に存在しないの?」
 「ドキドキ? ちょっと分からない。でも、お前からピーテル・ブリューゲルの名前が出てくるとは意外だ。その龍口研新とブリューゲルの関係も面白い。そういう話はさすがにデータに残されはしないからな」
 「僕らは僕らの物語を生きているんだよ、それぞれ」
 「物語……ね」
 「そう。僕は君の物語を記そうと思うんだ」
 「お前が? 私の?」
 「あ、まだ全然できてないんだけど……」
ユキトはそう言って、俯いた。言ってしまったという悔恨と、彼女に読んでもらいたいという希望が入り混じった感情が若い彼の中に渦巻き、ユキトは初めて味わったその言葉にしがたい自身の気持ちをなんだか恥ずかしく思ってしまった。
 「かの文豪、川端康成はお前の年頃には文芸誌に掲載されていたというぞ。まあ、今とは随分と状況も違うだろうが」
 「べ、別に川端とか芥川とかそんな大そうなものを目指してるわけじゃないよ。僕はただ……」
何がしたいのだろう? 自分で話しながら、そんな漠然とした疑問が彼の思考を止め、ユキトは言葉に詰まった。
 「ま、いいよ。できたら見せて」
そう呟いて、飛鳥マコは一足飛びに貯水タンクから飛び降りた。翻ったスカートが捲れて露わになった彼女の太ももがちらりと見え、ユキトは思わず目を逸らした。
 「う、うん……最初の読者になってもらうよ、もちろん」
気まずさを誤魔化すために、彼は飛鳥マコに向かってそう返事をした。
 「全然期待はしてないけどな」
少し大きな声でそう返して、悪戯な笑顔をユキトに向けた彼女を見てユキトは急に息苦しくなって胸のあたりにほのかな温もりを感じた。
 「あ……」
何かを言おうと彼女の背中に向かって話しかけようとしたが、飛鳥マコはすでにドアを開けて校舎の中に消えてしまっていた。

 八

 空地の柵には針金が張りめぐらされ、弱々しく他者の侵入を防ごうとしていた。柵の向こうには、国家級プロジェクトが遂行されていた施設跡とは思えないほどに草木が生い茂っていた。
 「本当にここであってんのか?」
ジョシュアが思いついた言葉をそのままバクチンがつぶやいた。
 「ここで間違いない。全てが秘密裏に進められ、我が国が先を越した途端ここにあった施設自体が文字通り闇に葬られたのだ」
ジョシュアは、彼自身にそう言い聞かせるためにそう答えた。
 「とりあえず……ここに連絡してみるか」
ジョシュアは柵の端に巻き付けられていたアルミ複合の看板に記されていた不動産会社の連絡先を、眼鏡型ウェアラブルの右側の耳掛けに付いたスイッチを押し撮影し同期したイヤホン型の電話機で電話をかけた。
 「もしもし? あのこちらの土地のことで二、三お尋ねしたいのですが……」
 「モシモシ? そんな日本式の挨拶までインプットされてんのか(笑)」
後ろからからかうバクチンを、ジョシュアは振り返り睨みながら制した。
 「あ、そうですか……あの、よろしければ今からお伺いしたいのですが……はい。ええ」
バクチンはジョシュアに気づかれないように移動し、柵を軽々と飛び越えて空地の中に入った。その巨体の着地音を消すために、少し逆噴射をふかした。少し焦げた雑草からシベリアの大地では見たことのないような虫が這い出したのを見て、バクチンはニンマリと笑みを浮かべてその虫を摘まみ上げた。節ごとに数えきれないくらいの足を持ったその昆虫は、その足を空中でジタバタさせていた。バクチンはその様子を物珍しそうに眺めながら、そのまま口の中に放り込んだ。

 「おい! 面倒になることはやるなと言っているだろう。わけの分からないものを食ったら故障の原因になるぞ」
いつの間にか、電話を終えたジョシュアが後ろに立ってバクチンの首を手刀で叩いた。「ガハッ」と粉々になった虫の死骸がバクチンの口から吐き出されて雑草の上に散らばった。
 「へへへ……ジョシュアには敵わねえな」
バクチンは何事もなかったようにニンマリと笑いながらジョシュアの方を振り向いた。
 「不動産と話がついた。行くぞ」
ジョシュアは柵を飛び越えて歩き出していた。
 「ちょ、ちょっと。見つけたよ! 手がかり」
 「あ?」
バクチンは、虫を吐き出した辺りを指さしながら再びニンマリと笑いかけた。ジョシュアは柵を飛び越えて、その場所に屈み込んだ。そこには半分ほど焼き焦げた紙切れが落ちていた。ジョシュアは紙切れを摘まみ上げて裏返した。そこには「蔵雅 忠○」という日本語の漢字が記されていた。もう一文字の部分は焼け落ちてしまっているようだが、これだけ分かればぐっと対象は絞られるだろう。
 「ただ焼け残った紙切れがどこかから飛んで来ただけじゃないのか? まあ、調べる価値はあるか……」
そう呟きながら、ジョシュアは眼鏡型ウェアラブルを取り出して「蔵雅」の文字を検索した。東京都内にこの苗字を持つ世帯は一件だけだった。「蔵雅由紀子か……シングルマザーのようだな。一人息子がユキト……高校生か」しかし、こんなにあっさりと個人情報に行き着けるとは平和ボケは相変わらずか、この国も。ジョシュアは日本の国防を憂いながら、蔵雅家の住所をブックマークした。
 「そんなに遠くないな……そのまま向かうか」
ジョシュアは、不動産に断りの電話を入れバクチンと供に蔵雅家に向かうことにした。蔵雅家は、その空き地から南南西に三キロメートルほど離れた住宅街の中にあった。この位置ならば、春一番に吹かれてこの場所にたまたまこの紙切れが飛ばされてきた可能性も大いにあり得る。慎重にこちらの意図がバレないように情報を引き出さねばならない。
 「しかし、こんなに同じ形の家ばっかりじゃすぐに迷っちまいそうだな」
バクチンがキョロキョロと辺りを見回しながら大声でジョシュアに話し掛けた。
 「おい、声のトーンを落とせ。ただでさえお前は目立つんだから、目撃者の印象に残ったら後々面倒になるんだ。ここはロシアじゃないんだ」
 「へいへい」
 「ロシアにだってフルシチョフ時代の集合住宅が今でも建ち並んでいるだろう」
 「それが古いって言ってんだよ。今でもモダンなのは、結局メーリニコフ邸みたいな1920年代のロシア・アヴァンギャルド時代のものでしかないわけじゃん」
 「スターリンは否定されたり、再評価されたり大変だな」
現代ロシア建築の議論が交わされているうちに二人は、蔵雅家に辿り着いた。庭付きの一戸建てで典型的な和風建築だ。
 「よく見るとこりゃあ、良くできてるな……」
鎌倉時代から室町時代にかけて確立されたというその伝統的な作りにバクチンは感嘆しているようだ。さっきの捨て台詞は何だったのか。「蔵雅」という苗字が彫り込まれた大理石の表札をなぞろうとしたそのバクチンの右手首を、ジョシュアは掴んだ。
 「ここからは一切の痕跡も残してはならない」
ジョシュアはバクチンの目を見ながらゆっくりとそう話した。そして、トレンチコートの右ポケットから革製の黒い手袋を取り出し、はめた。キュッキュッと音を立てながらしっかりと指先まで馴染ませてから、表札の下にあるマイクロカメラ付きのドアベルを押した。暫く待ってから反応のないことを確かめると、もう一度ゆっくりとボタンを押す。
 「……はい。どちら様でしょうか?」
ドアベルに付いたスピーカーから女性の声が聞こえてきた。ジョシュアは首をゆっくりと左右に二回傾けて、日本版の公務員AIを起動した。
 「あ、お忙しいところすみません。わたくし、この区画内の世帯調査を担当しております区役所の者でございます。登録されているデータの確認でお伺いしました。書類をお渡ししたいのですが、なにぶん個人情報ですのでご本人様の確認が必要でして……」
 「区役所……? あ、はい。マイナンバーカードで大丈夫かしら?」
 「はい。そちらで構いません」
スピーカー越しのやり取りをバクチンはにやにやしながら見て、「すげえ」とつぶやいた。ジョシュアは口元に笑みを浮かべて、格子扉の取っ手に手をかけてゆっくりと開けて敷地内に入った。

 九

 「一玉、五〇〇円? そんなに高かったかな……」
雑然と並ぶ白菜の棚を見て私は思わず独り言を発していた。少しずつ暖かくなっているが、まだ日の出日の入りの刻には冷え込むのでたまには鍋でもマコとつつこうかと思って近所のスーパーに買い出しに来たのだが、これならもう少し歩いて商店街の八百屋で買った方が安いかもしれない。しかし、もうそろそろ八百屋は閉まる時間に差し掛かっていたし、仕方なくその中から一番見た目の良いものを選び取り、緑色のプラスチック製のバスケットにそっと入れた。それから人参、椎茸、長ねぎを野菜の並ぶコーナーで選びバスケットに入れていった。野菜コーナーを抜けた角には鮮魚コーナーがあり、刺身や寿司が並びその棚の上には、これからさばかれるとは夢にも思っていないであろう石鯛や、クロダイ、鯵に伊勢海老などが窮屈そうに右往左往している。水槽を横目に見ながら、左手に置いてあるカウチになった鍋の素から水炊きの素を選ぶ。そのまま真っ直ぐに進むと、正面に肉類の棚が現れる。そこから、鶏肉のつみれを選び、バスケットに入れた。肉類の棚の向かいにある棚からパック詰めの木綿豆腐を選び取る。

 これで大体、鍋の材料は揃った。後は何か酒類でも買おうかと、アルコール棚に向かった。そこで、パックの梅酒と缶ビールを二缶バスケットに入れた。随分と重くなったバスケットを持ってレジ待ちの列に並んだ。夕刻ということもあり、バスケット一杯に食料品を詰め込んだ中年の女性客などが多く、レジは混雑していた。私は有人レジの列から外れ、セルフサービスのレジコーナーに並んだ。こちらも仕事帰りと思われるスーツ姿の中年男性客などが惣菜や弁当を持ち、数多く並んでいたが一人当たりの買い物量が少ないので、割とスムーズに順番が回って来た。バスケットをレジの右手に置き、真ん中の台下に付いたバーコードリーダーに商品のバーコードをかざして、左の台に商品を移動させる。バーコードリーダーの手前にある電子マネーの読み取り専用機にスマホをかざし精算を済ませるとその下からレシートが印刷され出てくる。レシートと商品を持ち込んだ黒い麻のトートバッグに詰め込んでからスーパーを出た。すでに日は沈み、空は黒く塗りつぶされていた。半分に割れた月が少し近い距離に感じられる所で赤みを帯びて夜の街を照らしていた。その付近で輝く星はかろうじて肉眼でも確認できた。少し半月の光に見惚れていたが、冷たい風が頬をかすめ、私は身震いして歩く速度を速めた。

 「ただいま」

マコは最近帰りが遅い。初めの頃は、どこで何をしていたのか、しつこく聞いていたが「別に……」の一言以上を聞き出すことができず聞くことも止めた。「おかえり」と言って、ミネラルウォーターと出汁昆布を入れた土鍋を、食卓の上に置いたガスコンロに載せて火を付けた。それから切って大皿に盛り冷蔵庫に入れていた具材を取り出し、食卓に置いてラップを取り除いた。
 「わ、鍋なんだ」
 「そう。まだまだ寒いしね」
そう答えて、温まり緩やかな水流の渦巻きつつある鍋の中に水炊きの素をゆっくりと注いだ。すこし白濁した中身を木製のお玉でかき混ぜる。そして土鍋の蓋を閉じ、できあがるのを待つ間にマコの茶碗に保温しておいたご飯を盛って、グラスと冷蔵庫に入れておいた缶ビールを食卓に並べた。
 「じゃあ食べようか」
 「いただきます」
胸の前で手を合わせるマコは、なんだかんだまだまだ子どもだな、と微笑ましく眺めながら缶ビールのプルタブを上げて缶ビールをグラスに注いだ。グラスの底に当たりながら泡立つ小麦色の液体が少し煌めくように見えたのは、なぜだか分からない。しかし、この時がマコと過ごせた最良のひと時だったことは間違いない。

 十

 「なんだよ……これ?」

 ユキトが家に戻ると、家の中はぐちゃぐちゃに荒らされていた。何が起こったのか、意味が分からないユキトは一先ず、母親の由紀子の無事を確かめるために「お母さーん」と玄関先から呼びかけた。そんなに大きな声を出したつもりはなかったが、思いの外ユキトの声が家中に響き渡り、ユキトは少し驚いた。返事はない……静まり返った家の中は、散らかっていたことも手伝ってとても住み慣れていた場所だとは思えない、異様に不気味な雰囲気が漂っていた。ユキトはスニーカーを脱ごうと、左足のつま先で右足の踵の上部を踏んで右足のスニーカーを脱ぎ右手で左足のスニーカーを掴んで剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。少しつんのめりながら、玄関の右端に倒されていたスリッパ立ての方に右足を上げるとチクッとした痛みが踵の方に走った。「痛っ!」と声を漏らし、ユキトは右足を右手で掴み、足裏を見ると、靴箱の上で倒れて割れていた陶器の花瓶の欠片が突き刺さっていた。左手の人差し指と親指でその欠片を掴み、脱靴場の方へ放り投げた。白いソックスに少し血が滲み、赤い点ができた。暫くその赤い点を見つめていると、これが夢である様な気がしてきた。それはユキトの潜在的な願いでもあった。ジークムント・フロイトは夢は潜在的な願望を充足させるために見るものであると言ったが、その通りでユキトはこれから悪い予感しかしないこの現実を夢として受け入れたい願望を無意識に抱いていたのである。
 ユキトは意を決し、正面に見える木の枠にガラスがはめ込まれた扉を開けて、キッチンダイニングに入った。こんなに書類が家にあったのかと改めて驚くほどの紙束や、母親が年に一回必ず訪れていた近所の公園で行われている陶器市で買い込んだ有田焼やら波佐見焼の食器が散らばっていた。空き巣か強盗か……テレビか漫画でしか見たことのない様な犯行現場が目の前に広がっている。なぜウチが? そんなどこかで聞いたことがある様な台詞が口から出そうになって、ユキトは思わず笑ってしまった。「お母さん?」不謹慎な笑いを誤魔化すようにユキトはもう一度さっきよりもくぐもった声で呼んだ。ガタッという音が二階から聞こえ、ユキトは身体を縮こまらせた。もう一度耳を澄ませてみたが、再び訪れた不気味な静寂だけがそこには佇ずんでいた。ユキトは息を潜めて再び玄関の方へ戻り、二階へ上がる階段を上る。階段の折り返す壁面にある摩りガラスから沈みかけた太陽の光が差し込み、ユキトの足元を明るく照らすが、かえってそれが不気味さを引き立てる。ユキトはもう一度二階へ向かって呼びかける「お母さん?」。返事はない。階段を上りきると手前にはトイレがあり、右手に由紀子の寝室がそしてその向かいにユキトの部屋がある。ユキトは忍び足で由紀子の寝室へ向かった。少し開いた引き戸の外から中を覗く……
 寝室のエアコンの排気管とエアコンの間に掛けられたロープの下にぶら下がる影が見えた瞬間、ユキトは大きく息を吸い込み、口を両手で覆った。息ができず、血走った目から涙が出る。ユキトは大きく息を吐き出し、呼吸を整えるように心掛けたが、震えが止まらず肩で息をするようなかたちになった。鼻水が垂れるのも構わず、顔をグシャグシャにしながら引き戸を開けた。エアコンは季節外れの冷房が起動し部屋は凍える程寒かった。沈んで行く太陽の光が、宙に浮く骸となった由紀子のストッキングに覆われた足元を照らしていた。

 「……それで部屋に入ったら、すでに首を吊って死んでいたと」
 「……はい」
黒いトレンチコートを羽織り、黒いハット帽を被った黒づくめのその刑事の差し出した名刺に記された黒田という名前を見て、もう一度彼の眼光鋭い角ばった顔を覗き込んだ。この時代にメモ帳にボールペンでメモを取っていることにも驚きを隠せなかったが、彼の口元の右側に入った切り傷の痕に目が行ってしまい、思わず顔を逸らした。

 警察は物的証拠が見つからず、死体の状況からも強盗殺人ではなく、体内から検出された精神安定剤の成分と、過去に精神病院から離婚調停中に受けていた躁うつ病の診断書から精神安定剤の大量摂取による一時的な錯乱と自殺という結論で捜査は打ち切られた。黒田からその報告を受けて、ユキトは愕然とした。母親がそんなことをするはずがないのはユキトが一番わかっていた。握りしめた両こぶしに力が入り、わなわなと震えた。黒田は黒いハット帽を脱ぎ、「すまない……」とスキンヘッドの頭を下げた。そして、震えるユキトの肩に手を置いて「俺は自殺じゃないと思ってる。錯乱きたすくらい薬飲んだ人間があんなに込んだやり方で首吊ったりするわけがない。自殺に見せかけた人間がいると考える方が普通だ。だが……」とユキトの耳元で話を切り、「ここからは大人の問題だ。必ず犯人のしっぽを掴む」と言い残して、若い刑事の運転する黒いセダンに乗り込み立ち去った。ユキトは黒田が去り際に彼のズボンのポケットにねじ込んだ、くしゃくしゃの紙切れを引き伸ばした。そこには父親の名前とスマホの番号らしき数字が記されていた。

 一一

 母が黙って見つめる窓の外には雲一つない青空が広がり、向かいの山の麓には色付いた梅の木々が春の訪れを知らせていた。男からの連絡は途絶えたが、マコを預かっている報酬は以前と変わらず振り込まれていたので、この個室を移動する必要はなさそうだ。母はもう私が誰かも分かっていない。「あなた……だあれ?」と初めて面と向かって言われた時には溢れる涙を見せまいと顔を背けたものだが、今となってはその状況にも慣れ、夜に徘徊したりすることさえなければ、いたって品の良い老婦といった感じだ。しかし、どうしてこうも病院の窓から覗く景色はいつでも憂鬱なのか。突然、スマホが振動しだした……男からの急な連絡に私は嫌な予感がした。

 「…もしもし?」
私は病室を出て、スマホの画面をスワイプし応答した。
 「ああ、良かった。まだ手放していませんでしたね。長らく連絡できず申し訳ありません。ご存知でしょうが、ロシア政府が本格的に動いているようでして……」
 「ああ。分かっている。これから一体どうするつもりなんだ? マコはどうなるんだ?」
 「どうやら、ロシアの狙いはマコのようなんです。わたしの元妻が奴らに殺されました。奴らがわたしの元に訪れるのも時間の問題でしょう。妻は最後までわたしのことを吐かず消されたのでしょうが……。ここにきて非常に心苦しいのですが、最後に一つお願いがあります……」

 スマホは私の返事を聞かないまま通信を終わらせた。ほぼ同時に知らない番号がスマホの画面上に表示されて再びスマホが私の手のひらの上で振動し始めた。

 「……もしもし?」

 二人の男がマンションの下で張っているのが見えた。ここは高層マンションの最上階だが、ここから見てもそのバカでかさが分かるくらい大柄な男ともう一人はどうやら煙草をふかしている様だ。ここは路上喫煙禁止区域ではないが今どき外で煙草をふかすなんてレトロな人間はそうはいないので、この二人組は全く尾行には向かないコンビだな、などと少しでも恐怖心を誤魔化すような方向に考えた。由紀子を殺したのは間違いなくあの二人だろう。もう嗅ぎ付けたのか……恐ろしい国だなロシアは。わたしは准教授に電話した後、由紀子の事件を担当した黒田という刑事に電話した。わたしもどうやら消されるだろうから、息子のユキトを頼むとだけ言って電話を切った。黒田はできるだけ引き留めてくれ、必ず二人を逮捕すると意気込んでいたが、最新鋭のエオニオティタイド相手に今の平和ボケした警察がどれだけ束になっても勝てる見込みはなく、飛鳥マコの覚醒だけが唯一の頼みだった。だから警察ではなく、准教授にユキトを託した。問題は覚醒の鍵をどうやってユキトに知らせればいいのかだった。

 「おい! 仕事が入った」
黒田は自殺案件を他殺の線も含めて捜査すべきだと主張してから、担当を外され捜査一課長から有給消化を命じられていたが、内密に新米の寺岡を連れ回して独自に捜査を続けていた。
 「黒田さん……マジでやばいですって。俺も調書とか書くので忙しいんですよ、勘弁してくださいよ」
スマホに黒田からの電話通知が来て、寺岡はよっぽど無視しようと思ったが余りにも長くスマホが震え続けていたので、仕方なく応答した。
 「お、お前いつからそんなに偉くなったんだ? 只野組が運営してた無許可のナイトクラブで遊んでたの見逃してやったよな?」
 「あれは……知らなかったんですよ、本当に……」
 「雇われ店長が何人も死んでる店のことを、刑事が知らなかったで済むと思ってんのか?」
 「わかりましたよ……もう今回で最後にして下さいよ!」
 「ああ。間違いなく最後になるし、警視庁の大失態も同時に暴かれるぞ」
 「恐いのはご免ですからね」

 寺岡の運転する黒いセダンに乗り込んだ黒田は、いきなりサイレンを車の屋根に乗せて鳴らした。
 「え? ちょ……何してんすか!」
 「うるせえ。急を要するんだ。さっさと出せ」
 「……マジで停職じゃ済まないっすよ」
寺岡はアクセルを踏み込み、右にハンドルを回して発車した。

 「あ、あのユキトです。父さんの携帯ですか?」
ユキト……あの男の息子か。私はとても手に負えない面倒なことに巻き込まれたくないと思い、とぼけてみることにした。
 「え? あ、えと……私は飛鳥といいます。娘はいるけど、息子はいないので間違いじゃないかな?」
 「飛鳥? 飛鳥マコさんのお父さんですか?」
 「え? なぜ娘の名前を?」
 「僕、同じ高校に通っているんです。……あの、この番号は黒田という刑事に教えてもらったんです」
刑事? 一体どういうことだ?
 「あの、マコの身に何か起こったのでしょうか?」
 「いえ、マコさんの秘密は色々と聞いていますが、今回は僕の母親が殺されただけです」
ああ、駄目だ。もう完全に巻き込まれている。あの男が黒田に私の番号を教えたのか。
 「すみません。お父さんからお話は伺っています。息子のことをよろしく頼むと」
 「え? 父さんのことを知っているんですか?」
私は彼の父親である男と知り合った経緯からこれまでのことを大まかに話した。
 「すみません、父さんの居所を教えてくれませんか?」
 「すまないが、お父さんの居所は知らないんだよ。携帯も非通知で一方的にかかってくるだけで」
 「そうですか……」
 「まあ、とりあえず家においでよ。番号にメールで住所を知らせるから」
 「分かりました」

 ジョシュアはフィルター部分のギリギリまで煙草をふかしてから、鉄格子の蓋がされた溝に吸い殻を投げ入れた。眼鏡型のウェアラブルの右こめかみ部分にあるダイアルを回して、望遠レンズに切り替える。降ろされたブラインドの隙間から男はこちらの様子を窺っているようだ。
 「気づいてるか、やっぱり」
ジョシュアは口元に笑みを浮かべて、バクチンの方を振り返った。
 「やるか?」
バクチンは満面の笑みでジョシュアの意を汲み取る。ジョシュアがゆっくりとトレンチコートの両ポケットに手を突っ込みながら歩き出し、バクチンもそれに従った。マンションの入り口には管理人室があり、オートロックの自動ドアが設置されている。防犯カメラは管理人室の窓口が見渡せる場所と、オートロックの自動ドアの出入りが分かる場所の二カ所の天井に取り付けられていた。管理人は今留守のようだ。ジョシュアはバクチンに目配せをして、一度外に出た。バクチンは両拳を握り、バキバキと鳴らして体中から妨害電波を発信してマンションの電源をシャットダウンさせてから、自動ドアを素手でこじ開けた。外を見張っていたジョシュアはバクチンの合図で再び中に入った。エントランスにはシャガールの『バイオリン弾き』のレプリカが飾られていた。ロシアの誇る偉大な現代芸術家だ。ジョシュアは暫くユダヤ民族の悲哀を込めたと言われる緑色の顔を眺め複雑な感情がこみ上げてくることに耐えた。その感情は直ぐに消去されることとなったが、気の立ったジョシュアはレプリカに向かって発砲し、顔の部分に穴が開いた。
 「おいおい、ベラルーシだって複雑な歴史があるんだぜ。文化に国境はないだろう?」驚いたバクチンはさらに銃をレプリカに向けたジョシュアをなだめた。ジョシュアは「チッ」と舌打ちをしてから、エントランス奥にある非常階段の入り口を開けて上へ向かった。

 寺岡は黒田に指示された高層マンションの前で車を停めて、サイレンを切った。黒田は直ぐに助手席から降りて、マンションに向かった。入口に人だかりができている様子を見て寺岡は驚いた。黒田は人混みを掻き分けて一目散に中に入っていったが、寺岡は集まっていた噂好きそうなおばさんを捕まえて警察手帳を見せた。
 「何があったんですか?」
 「発砲よ。だから来たんでしょ?」
発砲かあ、冗談じゃないよ全く……
 「ああ、そうでした。管理人はいますか?」
 「ええ、あそこに……」
噂好きそうなおばさんが指さした先に気の弱そうな白髪の老人が人混みから少し離れてオロオロしていた。
 「すみません。警察です。あの管理人さんですよね? 防犯カメラの映像は見れますか?」
 「ああ、警察の方。あの、その何故だか分からないのですが、マンションの電源が落ちてカメラは別電源なので撮れているとは思うのですが警備会社に問い合わせないと今は見れないんです」
 「そうですか。じゃあ警備会社に連絡してもらえます?」
 「あ、はい」
寺岡はエントランスで、ピカソみたいな画風で描かれたバイオリンを弾いている人の頭部に穴が開いているのを見た。
 「なんだよ……完全にサイコパスじゃないかよ」
寺岡は車に戻り、無線を取った。
 「発砲事件発生……場所は……」

 一二

 錆びかけた鉄製扉のノブは握らず、その下の部分を左足の上履きの裏で軽く押しながら右手を扉の真ん中に当てて押すと扉は簡単に開く。伝えるエネルギーを一点に絞るよりも二点に分けた方がエネルギーは効率よく伝達する。同じ条件下で物体が同じ距離を移動したとしたら、その物体の持つエネルギーは変わらない、力学的エネルギー保存の法則というものがあるが、この場合の条件はこの等式に当てはまらない。錆びついた扉を開ける際に生じる摩擦力と向かい風のもたらす運動エネルギーが、重力下で働き反発係数が一よりも大きくなる。つまり錆びついた鉄製扉はその錆びに侵食されながら変形することでエネルギーが消費されてしまい、エネルギー保存の法則からこの変形するエネルギーにドアの開くエネルギーは割かれてしまうわけだ。そう言えば、最近あいつを見ないな……私の伝記を書くとか大そうなことを語っていたが。まあ、いい。こういう感情は何と言うのだろうか? ノスタルジックと言うには大袈裟だし、よく分からんな。アップデート時のメモリーに記憶されれば新たな感情の名称として呼び名を考えてもいい。マスターコンピュータに報告しておこう。

 こうやって反復的に毎日行動していると、何も感じられなくなるのではないだろうか。私はそうだった。あいつが現れてから、色んな感情と呼べる理論的に説明のつかない反応が私の中で生まれた。とすると、管制的なシステムは感情と呼ばれるものを封じ込めるために出来上がったものであるということが導かれる。これもアップデートの際、マスターコンピュータに報告するべきか。いや、まだ実証的なデータとしては不十分だ。人間が築き上げた社会と学校はまた別物であると社会の先生も言っていたし。そういう先生は社会から隔離された学校の中で社会生活を送っているということか? とすると、彼らの意見は社会人として例外的に扱わなければならない……難しい問題だ。この辺は社会学者の担う範疇か。彼らの書籍データを今度転送してもらおう。ドクター蔵雅に会う必要があるな。そう言えば、あいつの苗字も蔵雅だったな。日本人で最も多い苗字は佐藤だったか、鈴木だったか? その統計も結構古いものだったはずだ。最新データをもらっておこう。やはりドクター蔵雅のところに行かなければ、当初の私の目的に支障が出てくるようだ。

 「よし!」

 飛鳥マコはどこで覚えたのか、そう一人で気合を入れると、給水塔から飛び降りた。それがどの様に人間の身体能力に作用するかは私には分からないが、声を出すことで神経による運動能力の抑制を外すという「シャウト効果」と呼ばれる化学的効果が認められたという。知らぬ間に飛鳥マコが叫んでしまったのは、以前そういう文献を読んでしまったからかもしれない。人間がいう、ミーハーというやつだ。

 「フフフ」

エオニオティタイドがより人間に近づくようにプログラミングされているとはいえ、あからさま過ぎて飛鳥マコは思わず笑ってしまった。一人でにやつくのはあまりいい印象を持たれないと誰かが言っていた。飛鳥マコは、そんなくだらない他人の評価などを気にすることに全く意味を見出せないでいたが、社会というシステムはそういうことに気を使っていかなければならない場所であるということも段々と分かってきた。なるほど、良くできたシステムだ。この仮想社会の中で社会に順応していくように設計されているに違いない。人間というのも侮れないな、飛鳥マコはそう思った。あいつの叔父である龍口研新が設計したネオフィフスタワーが沈みゆく夕陽の光を受け、煌々と輝いていた。飛鳥マコは何故か彼女の思考回路に浮かんだユキトの顔に困惑を覚えた。これは……何という感情だろうか。

 一三

 バクチンは前をさっさと登っていく、ジョシュアの後ろ姿が段々と遠くなっていくのを眺めながら自分の体が両脇の手すりに挟まらない様に慎重に歩いていた。非常階段が何でこんなに狭いのか、バクチンには理解不能だった。これでは逆の方から人が来たら通行できないじゃないか。非常事態に使うべき階段がこれでは、パニックに陥った人間同士でぶつかって二次災害は避けられない。本当にこの国は非常事態を真剣に想定していないみたいだ……と考えを巡らせている間にジョシュアの姿が見えなくなった。マズい、怒られる。バクチンは走ろうと、左足を一歩踏み出すと、出張った腹部が階段の手すり部分に挟まってしまった。「ほらあ」と声を漏らし、バクチンは腹部にエネルギーを集めた。手すりが捻じ曲がって腹部が抜けた。バクチンはそのまま手すりを外に捻じ曲げながら階段を登って行った。

 「……ここか?」

 ユキトは飛鳥准教授に知らされた住所をGoogleマップで検索して、その場所に辿り着いた。ユキトの家よりもひと回り小さく、黄ばんだ壁の色が古い建物であることを物語っていた。こんなボロ屋で人造人間が暮らせるのだろうか? 素朴な疑問を抱きながらも、ユキトは家の玄関のインターホンを押していた。返事はなかったが、扉がゆっくりと開いて中から幸の薄そうな頬のこけた分厚いレンズの黒縁眼鏡をかけた中年男性が現れた。「ああ、ユキトくんかな?」幸の薄そうな男はユキトの顔を覗き込みながら、そう尋ねた。「はい。飛鳥さんですか?」ユキトの声を聞いて、飛鳥准教授は黙って頷き、ユキトを家の中に招き入れた。

 ユキトは初めて見るガスコンロが二つある、キッチンダイニングを抜けて、その奥にあるリビングルームに通された。ここで飛鳥マコが毎日生活していると思うと、軽い緊張感を覚えた。飛鳥准教授は畳の部屋にある、まだ片付けられていないコタツの前に座布団を置き、ユキトに座るよう勧めた。「コーヒーでいいかな?」と尋ねられ、ユキトは頷いて座布団の上に正座した。ユキトは落ち着かず両手を膝の上に置いたまま、辺りをキョロキョロと見回した。ユキトの向かいには、何だか似つかわしくない大きな液晶テレビがあり、その隣には木製の三段チェストがあり、その上に飛鳥マコの物だろうか、赤い帽子を被った大きなクマのぬいぐるみが置かれていた。ユキトの後ろは無地の襖でその奥にもう一つ部屋があるようだ。再び飛鳥准教授が戻って「お待たせ」と言いながら、ユキトの前に黒いコーヒーカップソーサに載ったコーヒーカップを置いた。ソーサの上にはスティックタイプのシュガーとカップ入りのミルクが載せられていた。「ありがとうございます」ユキトはお礼を述べて、湯気の立つ黒いコーヒーカップを口元に運んだ。予測を超える熱さに「あっつ……」と思わず声が出てしまい、ユキトはごまかすためにスティックタイプのシュガーの袋を開けてコーヒーに注ぎ込んだ。それからミルクのカップ口を開けると、中のフレッシュミルクがコタツの天板の上に飛び出してしまった。慌てるユキトに飛鳥准教授はふきんを差し出した。「す、すみません……」ユキトはふきんを受け取り、こぼれたフレッシュミルクを拭いた。

 「ただいまー」

 玄関の扉を開けると、脱靴場に見慣れないスニーカーがあり飛鳥マコは不思議に思った。リビングには私服姿のユキトがいた。制服姿しか見たことのなかった飛鳥マコは、その姿と自身の家に突然現れた彼の存在に面食らった。
 「あ、おかえり。ちょっと話すと長くなるんだけど、ユキトくんはしばらく家で暮らすことになったから」
准教授の突然の話にさらに飛鳥マコは混乱した。
 「あ、どうも。よろしく……お願いします」
 「……学校休んでいることと何か関係あるの?」
コタツの前で正座しているユキトを見下ろしながら、飛鳥マコは怪訝な表情で聞いた。何だかイライラする感情も初めてだった。
 「まあまあ、マコちゃんも座って。コーヒー入れるから」
飛鳥准教授はそう言って、席を立った。飛鳥マコはユキトを睨みながら、ユキトの右奥に鞄を置いて座った。
 「……ごめん。色んな事が突然起こってしまったんだ」
 「人間は混乱すると、日常生活を送れなくなるものなのか?」
 「それは……ちょっと言い過ぎだとは思うけど、普段通り、何事もなかったように振舞うことはとても困難だとは思う」
 「なるほど。で、何があったんだ?」
 「まず、お母さんが死んだ」
 「ほう。それはとても大きな出来事だ。それで?」
 「……ぷっ、フハハハ」
あまりにドライなリアクションにユキトは思わず笑ってしまった。
 「何だ? 何が可笑しい?」
キョトンとする飛鳥マコを見てさらにユキトは大笑いした。
 「ごめん、ゴメン。ちょっと考えられないリアクションだったから」
 「ほう、どういうリアクションが想定されたというのだ?」
 「うーん……そう言われると、言葉で説明するのは難しいけど、まず驚いて、死因を尋ねるんじゃないかな」
 「何で死んだんだ?」
 「誰かに殺されたと思う……警察は自殺で処理しちゃったけど」
 「一体誰に?」
 「いや、それは分からないけど。ただ、親父から警察に連絡があったみたいなんだ。たぶん親父には見当が付いてるんだと思う」

 「そうだね。ユキトくんのお父上には色々お世話になっているし、私には大体見当はついてるよ」
 白いマグカップを持って、飛鳥准教授が再びリビングに戻って来た。そして、白いマグカップを飛鳥マコの前に置いた。このマグカップは飛鳥マコ専用のものなのだろう。
 「……やはり。ユキトの父親はドクター蔵雅だったのか」
 「え? 親父を知ってるの?」
 「そうだよ。ユキトくんの父親にマコちゃんを預かるよう頼まれたんだ」
 「え? じゃあ、彼女を開発したのが……」
 「そうだ」
 「そうか……我々は繋がるべくして繋がったというわけだな。人間の言うところの“運命”というやつか。便利な言葉だ。実存も実証も必要なくその一言で片づけられる」
 「とても嫌味な言い方だね。マコちゃん、いつからそんな性格になっちゃったの?」
 「アップデートされる度に我々を形成する思考回路は複雑さを増す。その正当性を担保するためには、素直で可愛らしいだけでは足りないというマスターコンピュータの判断からだ。というか、父親の前ではそれなりの態度をとるようにプログラミングされていただけの話だし。とにかく、これは今すぐにドクター蔵雅の元に行かなければならないようだな」
 「親父の居場所を知ってるの?」
 「当然だ。私の製造者だからな」
 「……こうなるとは思っていたけど、本当に行くのかい? 相手はCIAかKGBか分からないが最新鋭の特殊部隊にいるようなエオニオティタイドであるのは間違いないよ。殺されてしまうよ」
 「おじさん、もう僕には親父しかいないんです。何でお母さんが殺されてしまったのか、僕とお母さんを残して勝手に出て行って……あいつに会ってぶん殴らないと僕はこれからどうやって生きて行けばいいか分からないんです。あいつに全部話してもらわないと、前に進めないんです」
飛鳥准教授は感動した。こんなに真っ直ぐな人間がいたなんて! 青年のこの思いの丈全てをぶつけてくる青春群像劇みたいな展開! そんなものは遥か昔のスポ魂ドラマかアニメでしか見れないものだと思っていたのだ。
 「……そうか。そこまで言われると、仕方がないな」
こんなセリフを返す自分は、まるで理解ある大人役で出演するベテラン俳優にでもなったような気分だ。
 「何、ニヤニヤしてるの? 気持ち悪い」
飛鳥マコの言葉により、一瞬で現実に引き戻された飛鳥准教授は少しシラケながらも「じゃあ私も行こう」と身支度を始めた。

 一四

 黒田は、人間業とは思えない程にぐにゃぐにゃに曲がった手すりを見てこれは警察の手に負えるものではないのかもしれないと思った。上があんな一介のシングルマザーの事件に首を突っ込んできたのにも裏があるのかもしれない。しかし、ここで引き返すわけにはいかない。黒田は触っていた右手を曲がった手すりから離し、再び非常階段を駆け上がった。

 「やっと見つけたぞ」

ジョシュアは最上階フロアの非常口を蹴破った。足跡型にへこんだ鉄製のドアが勢いよくフロアの中に吹き飛んだ。ドクター蔵雅はフロアの廊下の真ん中に突っ立っていた。
 「随分と潔いじゃないか。観念したのか?」
 「わたしも一応、科学者だ。君たちの性能はおおよそ把握している。とても人間が敵う相手ではないし、逃げ切れないということは初めから分かっていた」
 「その割には随分と手間取らせてくれたようだが?」
 「君たちの狙いも分かっていたんでね」
 「ならば、話は早い。プロトタイプの居場所はどこだ? 設計図と一緒か?」
 「こんなに優れたエオニオティタイドを何体も持っているロシアが、今更プロトタイプに何の用だ?」
 「質問に答えろ。お前に質問する権利はない。答えないなら貴様の脳天をぶち抜くだけだ」
ジョシュアはトレンチコートを翻し、革製のガンホルダーからMP-448を引き抜いて銃口をドクター蔵雅に向けた。黒く冷たい鉄製の銃口には目をくれず、ドクター蔵雅は両手を挙げてジョシュアの目を見据えた。
 「俺を殺したってプロトタイプは手に入らない」
 「……どういう意味だ?」
ドクター蔵雅がジョシュアの背後に視線を送った瞬間、ジョシュアの背中に物凄い勢いで飛んで来た何かがぶつかり、ジョシュアは前に宙天しながら吹き飛んだ。ドクター蔵雅の前に転がって来たMP-448を彼は急いで拾った。仰向けに倒れたジョシュアは、ゆっくりと起き上がった。その後ろには吹き飛んで来た……人、大柄な男が俯きに倒れていた。
 「悪い悪い。力入れ過ぎた」
ドクター蔵雅が声の聞こえた、非常口の方に目を向けると三メートルはあろうかという巨大な熊のような男が入り口を破壊して入って来た。
 「貴様、今度俺の邪魔をしたらスクラップにするぞ!」
 「まあまあ、落ち着けよ」
二人の間で倒れていた男が、両手で赤い絨毯の敷き詰められた廊下を押しながらゆっくりと立ち上がろうとしているのを見てジョシュアはその男の脇腹を右足で蹴り上げた。「グフっ」と男は声をあげて再び倒れ込んだ。よく見ると彼は黒田だった。
 「黒田刑事!」
ドクター蔵雅はMP-448の引き金に指を添えたまま、叫んだ。黒田はうめきながら、再び立ち上がろうとしたが、ジョシュアは右足で彼のスキンヘッドの頭部を踏みつけた。
 「彼から離れろ!」
ドクター蔵雅はジョシュアに銃口を向けながら叫んだ。
 「ほほう。勇ましいな」
ジョシュアは笑みを浮かべながら、ドクター蔵雅の方を振り返った。そして再び黒田の脇腹を蹴り上げた。それを見て、ドクター蔵雅はジョシュアに向けて発砲した。弾はジョシュアの左肩の辺りに命中し、ジョシュアは前方によろめいた。その発砲とほぼ同時に黒田はSIG SAUER P230をバクチンに向けて発砲した。バクチンは左わき腹に弾を受け、後ろにのけぞり、そのまま非常階段入り口からマンションの下へ落下した。

 ドシンという音が少しの時間差を持って遠くから聞こえた。その音が聞こえるとほぼ同時に、ジョシュアは崩れた姿勢から両手を広げて素早く回転し、そのまま左足でドクター蔵雅の右手に握られたMP-448を蹴り落とした。振り向きざまにバク宙から右足の踵を立ち上がっていた黒田の左肩にめり込ませた。「っガ!」と声を上げ、黒田は両膝をついた。間髪を入れず、ジョシュアは右足を軸に回し蹴りで左足の甲を黒田の顔面に向かって放った。黒田は頭から勢いよく吹き飛び、マンションの壁に激突し倒れ込んだ。
 「少し人間を見くびり過ぎたか……」
ジョシュアはだらりとぶら下がった左腕をゆっくりと回し、めり込んだ銃弾を弾き飛ばした。ダメージは全くない様だ。

 「しかし、バクチンの野郎のトロさの方が予想外だな」

 飛鳥マコたち三人がマンション入り口に着いた時には、多くの人々が群がっており何台ものパトカーが停まり、警官の姿が数多くみられる騒然とした状況になっていた。
 「これ、もう殺されてるんじゃ……」
ユキトは不安な気持ちをそのまま言葉にした。
 「大丈夫だ。死んだら、私のマイクロチップに搭載されているデータファイルに送られている彼のバイタルサインが消えて分かるようになっている」
 「……へえ」
飛鳥マコはやはり感情なんて全く無関係な場所で存在しているんだなと、ユキトは思った。
 「しかし、危険な状態であることは間違いないみたいだな。急ごう」
飛鳥准教授が、早足で黄色いビニールテープで仕切られている方へそそくさと歩いていく。

 寺岡は、管理人室でマンションの警備会社から送られてきた映像ファイルをパソコンで確認していた。映像には外国人と思われる二人組が映っていた。一人は熊のような考えられない大男で、寺岡は黒田がもう殺されているのではないかと思った。
 「外人か……超面倒くさい案件になるな、これ」
寺岡はため息交じりに独り言を呟いた。
 「寺岡さん、何か黒田さんのお知り合いだという方々がいらしているんですが……」
現場を見張っていた所轄の警察官が、管理人室に入って来るなり、そう報告した。
 「ええ? 何だって」
寺岡はもはや悪いことしか起こらない気がしていたが、渋々、警察官について行った。中年の貧相で分厚い黒縁眼鏡をかけた小柄な男性と、パーカー姿の中高生とみられる男、そして制服姿の女子高生という、どこから見ても黒田と関係無さそうな三人組の登場は寺岡をさらに混乱させた。
 「どうも。警視庁の寺岡と申します。黒田のお知り合いというのは?」
 「あの、母親が殺され……自殺して、その時お世話になった蔵雅と言います」
黒田さんが追ってた事件の遺族か、マジでこの件と繋がってんのか?
 「あ、ああ。えーと、只今黒田は手を離せない状況でして……」

ドスン!

軽い揺れとともに大きな何かが落ちる音が響いた。その場にいた誰もがそちらの方へ振り向いた。飛鳥マコは素早くその音の鳴った方へビニールテープをくぐり抜けて、駆け出した。残る二人も彼女に続いた。
 「ちょ、ちょっと! 立ち入り禁止だって!」
寺岡は慌てて三人を追った。

 一五

 ユキトは生まれて初めて土煙というものを見た。立ち上る煙のように粉塵が彼の視界を遮っていて一メートル先で何が起こっているのか全く見えない。飛鳥マコはその粉塵の中に消えた。
 「何だ? 一体どうなってるんだ?」
隣で飛鳥准教授が狼狽えていた。次第に粉塵は風に流され、大きな熊のようなシルエットが浮かび上がる。その右手に飛鳥マコと思われる人影が首の辺りを掴まれて持ち上げられているように見えた。
 「マコちゃん!」
飛鳥准教授が叫びながら、走り寄ろうとしたので、ユキトは反射的に左手で止めた。相手は殺戮マシーンだ。人間の敵う相手じゃないし、飛鳥マコも軍事用に開発されたわけではない。絶望的な気持ちがユキトの中に溢れた。
 土煙が収まり、巨大な白人男性(?)が右手一本で飛鳥マコの首根っこを掴んで持ち上げていた。大男の背中からは何やらヒューズや千切れたパイプなどが飛び出していた。あり得ない。漫画の世界だ。飛鳥マコは両手をゆっくりと上げて、大男の右手の親指と人差し指を掴んだ。そして、ゆっくりと外側へ折り曲げていく。バチバチと電流の流れる音とともに、大男の指が飛鳥マコの首から離れていく。
 「うわー!」
ユキトは叫びながら、大男の右足に掴みかかろうとした。大男は周りを覆っていた皮膚型バイオ細胞が剥がれ落ち、剥き出しとなった赤く点滅する右眼らしきものをユキトに向け、右足を振り上げた。右足がユキトの身体に飛び込む前に、飛鳥マコが大男の右手首に両手をつき逆立ちしながら飛び出して、両手をクロスして右足の蹴りを受け止めた。ユキトとともに凄い勢いで吹き飛ばされ、マンションの外壁に打ちつけられた。飛鳥准教授が二人が吹き飛んだ場所に駆け寄った。
 
 「プロトタイプか……“飛んで火に入る夏の虫”って日本語では言うんだろ? こういうの」

 バクチンは半分皮膚細胞が剥がれ落ちた顔をニヤつかせたように見えた。ユキトは目の前に倒れている飛鳥マコの身体を掴み揺さぶった。
 「ねえ! しっかり!」
飛鳥マコの両腕は先程の一撃で外側に折れ曲がっていた。折れ曲がった場所からバチバチと電流が流れている……改めて彼女が本当に人間ではないことがユキトには分かった。
 「なんてことだ……マコちゃん」
飛鳥准教授はただ二人の隣で茫然と立ち尽くしていた。
 「二人とも……ここから逃げて」
飛鳥マコはゆっくりと立ち上がりながら、二人に呼びかけた。
 「ここは警察に任せよう。みんなで逃げるんだ。奴らの狙いはマコちゃんなんだから」飛鳥准教授はそう言って、飛鳥マコの左肩に手を置いた。
 「いいから、早く!」
飛鳥マコは、今まで見たことのない様な形相で巨大な敵を睨みながら、大きな声で叫ぶと飛鳥准教授の手を振り払って、駆け出した。バクチンは両手を大きく広げて駆け寄る飛鳥マコを叩き潰そうと勢いよくその両手を閉じた。彼の両手が体を捉える瞬間に飛鳥マコは、大きく飛び上がり、回転しながらバクチンの右肩に右足を振り下ろした。そして、よろめくバクチンに向かって両腕を投げるように顔面に叩き込んだ。飛鳥マコの両腕はその一撃で完全に肘から下が千切れてしまった。バクチンはその巨体を浮かび上がらせて後方に吹き飛んだ。再び土煙が上がり、その巨体を覆い隠した。

 「何なんだよ……これ?」

 やっと追いついた寺岡は、両腕を失った女子高生と血だらけの男子、そして狼狽える幸の薄そうな男と土煙の舞い上がる大震災の後のようなマンションの中庭の情景を見て茫然とした。
 「さあ、みんなは帰って。奴らの狙いは私なんだから」
飛鳥マコの千切れた両腕の断面から流れ出る電流がバチバチと音を立て、銅線が赤や緑のビニールカバーから飛び出ている。
 「何で狙われてるんだ? あいつら何なんだよ?」
ユキトは額から流れる血を手のひらで拭いながら飛鳥マコに尋ねる。
 「彼らがどこの誰だかは分からないが、マコちゃんは世界で初めて製造されたエオニオティタイドという人造人間で何だか分からないけど、今になって何か他の国にない機能を彼女が持っていると分かったんじゃないかな。これは私の推測だけど」
飛鳥准教授が飛鳥マコに代わり答えた。
 「ちょ、ちょっと待ってください! 日本でエオニオティタイドの開発は許可されてませんよ」
寺岡が割って入る。
 「もちろん。政府の極秘プロジェクトだったそうですよ。この事件もきっともみ消されるでしょう……助かっても、我々の身は以前として危険であることは間違いない」
 「黒田さんが捜査から外されたのは、じゃあ……」
 「何らかの圧力があったことは間違いないでしょう」
 「今はそんなことはどうでもいいよ……」
ユキトは警察とか日本とか国家なんて大きな話が、ユキトの家族と飛鳥マコを巻き込んでいることに言い様のない怒りを覚えた。そしてその中で誰一人守れない自分自身に一番腹が立った。そして、その情けなさに涙がこみ上げてくるのを必死でこらえようと両拳を強く握りしめた。飛鳥マコの背後に巨大な影が映るのが見え、ユキトは駆け出した。
 「危ない!」
寺岡は、背広の内側のガンホルダーに収めていたSIG SAUER P230のグリップに手をかけてそれを引き抜いた。頭部の半分を失ったバクチンが、背後から飛鳥マコにその巨体からは想像できないスピードで襲い掛かって来た。寺岡が放った銃弾はバクチンの左肩に命中したが、バクチンは止まらず、飛鳥マコの後ろに飛び込んだユキトの腹部にバクチンの右拳が突き刺さった。

 一六

 ジョシュアに毛髪を掴まれ、ドクター蔵雅は持ち上げられた。
 「さあ、もう無駄な抵抗は止めて、正直に話したらどうだ?」
ドクター蔵雅は、ジョシュアの目を見ず、その後方に倒れている黒田の方に視線を送った。ピクりともしない彼から視線を外し、それからジョシュアの目を見た。
 「何が狙いだ? どうしてここまでして……」
右手でジョシュアがドクター蔵雅の顎を掴み、そのまま壁に押し付けた。
 「それはこっちの台詞だ! 何故ここまで無駄な抵抗をするんだ? こんな採算性の取れない論拠不能な行動が人類の生産性を著しく落としているということは明白な事実ではないか。我々の存在に貴様らが取って代わられるのも時間の問題だぞ! 開発者としてそのくらいのことにも気づかなかったのか」
 「フっ、ふふふふ」ドクター蔵雅が彼の右手の中で笑うのを見て、ジョシュアは右手を高く掲げてそのまま黒田の方に向かって投げた。勢い良くドクター蔵雅の身体は飛び、地面でピクりともしない黒田の上に落ちた。
 「……もういい。貴様の脳みそに直接聞くことにしよう」
ジョシュアが右拳を握りしめ、パッと開くと手のひらから鋭いニードルが飛び出した。ゆっくりと歩み寄るジョシュアの足音を聞きながら、ドクター蔵雅は両手を地面に付け踏ん張りながらよろよろと立ち上がった。
 「皮肉なもんだ……自分が開発したエオニオティタイドに殺されるなんて」
 「全くだよ。人間でしかなかったという、自分の運命を呪えよ」

 パンっ

乾いた銃声が響き、ジョシュアは後方に仰向けのまま倒れた。黒田がドクター蔵雅が放り投げられた際に、コートのポケットに忍ばせたMP-448をうつ伏せのまま発砲していた。黒田は倒れたジョシュアの姿を見て、MP-448から手を離して壁に寄りかかって座り込んだ。 「蔵雅さん、あんた一体何者なんだ?」
 「しがない研究者ですよ」

 ぐわあああああああ

断末魔の慟哭が響き渡り、二人は目を合わせ、銃を手に取った。ジョシュアは身体全体を細かく痙攣させながら、そのまま跳ね起きて瞬間移動するように二人に飛びかかった。黒田は右アッパーで天井近くまで飛ばされ、ドクター蔵雅は頭を彼の右手で鷲掴みにされた。ジョシュアの手のひらの真ん中に穴が開き、中から細いニードルが再びゆっくりと眉間に向かってせり上がって来るのがドクター蔵雅には見えた。彼は目を閉じた……

 身体を揺さぶる衝撃で目を開けると、ドクター蔵雅の目にはシャンデリアが映った。彼の身体は浮いていた……いや正確に言うと飛び上がっていた。意識が戻るとスローモーションだった感覚が元に戻り、彼の身体は床に打ち付けられ再び衝撃と痛みが走った。「うっ!」と声が漏れた。まだ生きているようだ。とにかく状況を把握しようと辺りを見回す。建物の中にも関わらず、凄い土煙で半径一メートルくらいの範囲しか見渡せない。その場から動こうと試みたが、身体がいうことをきかない。今のケガの状況を調べるために彼は胸からゆっくりと下半身に向かって両手で触ってみる。左足に激しい痛みを感じた。どうも折れてしまっている様だ。左足をかばうように右足に力を入れ、右手を地面に着き、上半身をゆっくりと起こす。土煙が次第に収まり、周りを見渡せるようになってきた。
 少し離れたところに黒田がうつ伏せに倒れている。彼はそこへ向かってほふく前進で地面を這った。「黒田さん!」懸命に呼びかけるが、彼はピクりともしない。両手で彼の肩を揺さぶるが駄目だ。再び周りを見渡す。ジョシュアは見当たらない。巨大な人影が見えた。もう一体のエオニオティタイド、まだ生きていたのか、まあ彼らが壊れることはあっても死ぬということはないが。この場所から地面に落ちてまだ動くとはロシアはとんでもないものを造り上げたようだ。しかし、よく見るとその頭部はなく、しかもその巨体の下に奴は倒れていた。どうなってるんだ?

 シュルルルルルルルル

 奇妙な音の方に視線を向けると、両腕から無数の蛇のように動き回る管を突き出したマコが立っていた。「マコ!」と呼びかけて、こちらを向いた彼女の表情はまるで阿修羅と観音の同居したような何とも形容し難いものだった。そうか、どうやったのかは分からないが覚醒したようだ。あのプログラムが発動したのならば、もう大丈夫だ。しかし、ここも危険かもしれない。
 「フ、フハハハハハ」
ジョシュアはバクチンの下で不敵に笑った。彼の背中から鋼鉄の翼のようなものがコートを突き破り、勢いよく飛び出し、バクチンの巨体を吹き飛ばした。
 「そちらの方からお出ましか」
バクチンには目もくれず、ジョシュアは飛鳥マコを見据える。軍事用のエオニオティタイドには任務遂行の為に余計な感情移入プログラムは設計されていないのだろう。それが逆にこのプロトタイプをいつまでも超えられない原因でもあるのだが。彼の背中の翼のようなものはそれぞれ三つに分かれ、昆虫の足のように三つの関節を持ち、先端が鎌のように尖る独立した攻撃補助器のような姿になった。
 マコは何も言わず先程の表情を崩さないままジョシュアを見るでもなく、どこか異次元を見ているような浮世離れした存在に見えた。一瞬のタメもなく、ジョシュアがマコに襲い掛かった。マコの両腕から飛び出している管が鞭のようにしなり、ジョシュアの右拳に絡みついた。ジョシュアは左拳を間髪入れずマコの顔面に向かって振り下ろすが、急激に管が伸びてマコの身体ごと後方へ勢いよく移動させた。彼女を追う様に、ジョシュアの背中の六本の先端からレーザーのような光線が放たれた。管は地面に向かって素早く伸びて、彼女の身体を持ち上げて光線を躱した。光線は当たった壁を綺麗な六つの円形を残して貫通した。飛び上がったマコは両腕を後方に向かって振り上げ、そこから伸びた管が壁を捉え、マコの身体をジョシュアの方に向かって進める。ジョシュアの胸部に向かってロケットの様に突っ込みその身体を吹き飛ばす。ジョシュアは勢い良く壁にぶつかり、土煙が上がった。
 こんな戦闘能力があるなんて……自身で設計しておきながら、ドクター蔵雅はマコの覚醒モードの能力の高さに驚いた。しかし、どうやって覚醒したのだろうか。
 「……なるほど。これがわが祖国が欲しがる能力か」
土煙の中から素早く飛び出し、ジョシュアは再びマコに飛び掛かる。背中の六本の武器が一点に集中しマコの胸部をめがけて伸びる。管がそれを阻む。その管の勢いに乗り、マコは宙がえりからジョシュアの背後に回り込み、右足を回し蹴りで彼の頭部に叩き込んだ。ジョシュアの頭は無数の管を引き伸ばしながら、そのまま吹き飛んだ。

 「終わった……」

壁にめり込んだジョシュアの頭部を見て、ドクター蔵雅は呟いた。マコの両腕に管が収まりマコは膝をついて床にうつ伏せに倒れた。「マコちゃん!」非常階段の方から飛鳥准教授が駆け込んで来た。その後ろから寺岡が飛び入り、黒田に駆け寄った。

 「まだだ……」

壁にめり込んだジョシュアの右半分が潰れた顔面がつぶやき、頭部を失ったジョシュアの身体が動き出した。頭部とは独立した指示系統を持っているのか、リモートコントロール式か分からないが身体は部屋の真ん中までヨタヨタと歩き、止まった。

 「任務失敗となった今、ここにいる全員生かしてはおけない。プランBだ」

急激にジョシュアの身体が膨張しだした……まずい、爆発する。ジョシュアの身体の内部から眩しい閃光が漏れ出し、その身体を覆っていたシリコン製の皮膚型組織が解けはじめる。飛鳥准教授を押しのけて、マコがその身体を抱きしめて両腕から管を伸ばしグルグルと自分の身体ごと覆った。

 …プスン

ジョシュアの頭部が壁から転げ落ちただけで、何事も起きなかった様にフロア内に静寂が訪れた。そして、床に炭と化したジョシュアの身体とマコの身体が残った。

 一七

 「写真撮ってもいいですか?」
 「すみません、お待ちの方々がいますので……」
ユキトは前に立った編集部の吉岡の肩を軽く叩いた。振り向いた吉岡に向かって、ユキトは頷いた。
 「いいですよ」
女子高生を見ていると、飛鳥マコのことを思い出す。吉岡が持つスマホに向かって、ユキトはぎこちない笑顔を見せた。『MAKO』はこの時代では珍しく紙の書籍での出版も話題となり、一〇万部を超えるベストセラーとなった。ユキトのサイン会は毎回多くのファンが列を成す盛況ぶりで、ユキトもようやくファンに対する接し方に慣れてきたところだ。

 あの巨大な化け物が襲い掛かってきた後からの記憶はなく、気づいたらユキトの顔を覗き込む老け込んだ親父の顔があった。
 「……飛鳥マコは?」
 「良かった。成功だ」
 「え? ここは……」
 「私の研究施設だ。ロシアの暗殺部隊を撃退したことで、皮肉にも私の研究は認められて予算が大幅にアップしたからな。最新鋭の機器が揃っている」
 「いやいやいや……」
 「プロトタイプ、マコは焼失……死んだ」
 「……」
 「私が彼女に施した覚醒モードは、“愛”によって発動するものだった。それが鍵だった」
 「ちょっと何言ってるか分からない」
 「同じプログラムがお前にも組み込まれている」
 「え?」
 「お前は死んだ。それが彼女を覚醒させた。エオニオティタイドの問題点、いや、全てのテクノロジーの問題点は、効率化だけが追及されることによって本来人間の役に立つための技術がいつの間にか、人間が全く非効率な存在であるという認識に至りその存在を排除する動きへとシフトしてしまうリスクがあるということだ。そこで、マコには人間と同じように生活していく中で“情”、人間の存在意義といった哲学的命題を特別に消去せずにため込んでいくシステム構築をおこなった。そこで生まれたプログラミングを超える答えのない何かが、リミッターを外し暴走するようにした。つまり人間を殺戮することに最大限のパワーを使用することはない設計だ。そして、そのリミッターを外すものを“Autocracy Idea”、“AI”と名付けた」

 ドクター蔵雅は死んだが、脳死前の脳を移植されたユキトは、一連の事件で教授となった飛鳥教授のもとで飛鳥マコとの約束を果たすため、ディープラーニング式の小説執筆プログラムをアップロードし続けて『MAKO』の原稿を完成させた。ウェブで公開されていた『MAKO』は女子中高生の間で話題となり、当時、漫画の編集部だった吉岡が漫画化のためにユキトに声を掛けた。『MAKO』は劇場映画化するほどヒットし、来年にはハリウッドでの映画化も決定している。文芸部に移った吉岡はユキトの担当となり、ユキトは現在『AI』という書き下ろし小説を執筆中だ。

 「もしもし?」
 「あ、寺岡さん? ちょっと新作の為に取材したいんだけど、警察組織の黒い部分をよりリアルに書きたくてさ」
 「そういう話なら、喜んで協力するよ」
黒田刑事の死に立ち会った寺岡は、その後の警察の処置に不満を抱き警察内で煙たがれる生前の黒田のようになっていた。
 「じゃあ、いつもの場所で」
 「分かった」

 カランカラン…

昔懐かしい鐘の音が心地よく響く喫茶店でユキトはいつも執筆している。
 「いらっしゃいま……あ、ユキトか」
 「何だよ、それが客に対する態度かよ? てか俺意外に客来んのか?」
 「来るさ。今逆に古いのが流行ってんだよ」
 「そっか。いつもの」
ユキトの目の前に陶器のコーヒーカップとソーサが置かれる。シンゴが淹れるウィンナーコーヒーは格別だ。
 「ありがとう」
ユキトは最後に飛鳥マコの家で飲んだコーヒーのほろ苦さを紛らわすために、生クリームをかき回し続ける。この感情は何と言うのだろうか? ノスタルジーかトラウマか……今度アップデートする際に確かめよう。

                                     了  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?