見出し画像

ハンガリー映画史① 黎明期(1896~1910)

ハンガリー映画といえばネメシュ・ラースロー『サンセット』が公開され、エニェディ・イルディコ『私の20世紀』やタル・ベーラ『サタンタンゴ』がリバイバル上映される今年は正にハンガリー映画イヤーと言えるかもしれない。

ハンガリーと世界映画史の関わりは一見謎に包まれている。ハンガリー映画で有名な作品は何かと言われると、ファーブリ・ゾルタンやヤンチョー・ミクロシュなどが挙げられるが、日本ではイマイチ知られていない。しかし、20世紀フォックスの創設者ウィリアム・フォックスも、パラマウントの創設者アドルフ・ズーカーも、英国映画協会(BFI)設立に重大な役を担ったアレクサンダー・コルダも、皆海を渡ったハンガリー人だった。

・ハンガリー映画史の始まり

ハンガリーの映画の歴史は1896年に始まる。アウスグライヒによる安定と平和や建国千年の記念式典などによって支えられて比較的容易に受け入れられ、以降もコンスタントに上映・配給・製作が行われ続けている。

1896年5月10日、ブダペストにあるロイヤルホテルのカフェで、リュミエール兄弟の映画が上映されたのだ。入場料は50ペンス、日に何度か上映されていたらしい。その年の6月にはSziklai兄弟がアンドラーシュ通りに初の映画館"Okonograph"をオープンした。このOkonograph自体はインテリ層住民の反発によってすぐ閉館してしまうものの、映画の上映はポピュラーなものとなり、翌年にはハンガリー中の都市に映画館が出来始めた。

・初の国産映画

初の国産映画も1896年に撮影されており、これはハンガリー建国千年記念式典でブダ王宮に入場するフラン=ヨーゼフ1世を記録した作品であった。これを撮影したのは上記Sziklai兄弟のZsigmondだった。この後もアウスグライヒによる安定と平和によってコンスタントにニュースリールは作られていく。

ニュースリール以外の映画を考えた場合、Zsitkovszky Bélaの『A tánc (The Dance)』(1901)が最初の映画だと言われている。これ↓

画像1

これはUrania Scientific Societyによって、有名な物書きで政治家のPekár Gyulaによって行われたダンスの講義のために製作され、Urania Hungarian Scientific Theatreで上映された作品である。当時の舞台スターや24種類のダンスを含んでおり、講義は大変人気となった。この成功によってZsitkovszky Bélaは同じ劇場で講義用フィルムを撮りまくったらしい。

・映画鑑賞国家ハンガリー

1910年頃にはハンガリー全土に270近い映画館がオープンし、中には600人収容できるような大きい劇場があった。定期的に映画がリリースされるようになると、それに続いて配給制度も組織されていく。国内初の配給会社は1908年にUngerleider Mórによって設立された"Projectograph"社だった。ハンガリーは映画製作国というよりも映画鑑賞国家であった。これはオーストリア=ハンガリー帝国の経済が"厳格"なものであり、映画を作るためにお金が集まるようなアメリカとは根本的に異なっていたのだ。このような背景から、"Projectograph"社はドキュメンタリーやニュースリールを主に製作していた。

映画の発展の次のステップは映像と物語のマリアージュであり、ニュースリールやコミカルなスケッチは長編映画となるのは自然の流れである。

・増えた映画の味方

1910年代の初頭、アスタ・ニールセン(デンマークの女優)主演の映画のおかげでハンガリー映画界にも新たな潮流が生まれる。文壇や舞台・芸術におけるエリート層が"新しい表現の手段"として映画の熱狂的なフォロワーとなったのだ。例えば"Nyugat (West)"と呼ばれるインフルエンサー作家集団が熱心な映画鑑賞者となって、映画産業の発展を後押しした。この集団の中にいた"ハンガリーのボルヘス"と呼ばれるKarinthy Frigyesはハンガリー時代のコルダ・シャーンドル(Korda Sándor)作品に脚本家として参加していた。

しかし、ハンガリーの大衆文化には浸透せず、カフェ・ソサエティ文化の一部に留まっていた。映画製作者たちは"フィルム・カルチャー"が有益で教育的だと信じていたが、批評家やモラリストたちはアメリカ映画は低俗でアスタ・ニールセンの映画をつまらないものとして、若者を映画から遠ざけようとした。1911年にVígszínház theatreから派生して設立された"Hunnia Studio"は、そうした芸術的な野望から誕生したスタジオだが、外国から映画を輸入していた"配給マフィア"に妨害され、翌年には閉鎖されてしまった。

・"シネマ・スケッチ"

この頃のハンガリー映画の形態は"シネマ・スケッチ"と呼ばれるジャンルを採用していた。通常、舞台でで映画を用いる場合は背景として利用することが多かったが、この"シネマ・スケッチ"は上映と演劇を交互に挟み、映画の中の人物をそのまま舞台に登場させるという方法をとった。Molnár FerencやKarinthy Frigyesといった作家たちも盛んにスケッチを書き始め、"Theatre Life"誌は後者を"ハンガリーのスケッチピア(シェイクスピアのパロディ)"と呼んだらしい。また、Gózon Gyulaなどのコメディアンもスケッチを使ったジョークなどを頻繁に披露していた。

・映画専門誌

映画の専門雑誌も登場し始める。初の配給会社を設立したUngerleider Mórは初の映画専門誌"Mozgófénykép Hiradó"を1908年に発刊。この雑誌に寄稿していた有名なライターの一人にコルダ・シャーンドルがいた。また、ケルテース・ミハーイ(Kertész Mihály)もこの雑誌に寄稿しており、デンマークで当地での映画産業について数ヶ月学び、それについての記事などを書いている。コルダとケルテースの専門紙との関係はちょうどトリュフォーとゴダールに対する"カイエ・デュ・シネマ"誌のような関係らしい。映画監督を目指す前に批評を書いていたということだ。

しかし、結局"Mozgófénykép Hiradó"誌でライターが提示した"映画の芸術的なポテンシャル"は当時のハンガリー映画界で満たされることはなかった(勿論世界的にみても60年代位までは理想が果たされることはないのだが)。最初のちゃんとした映画理論が登場したのは1915年に"Mozihét"誌にTörök Jenőが寄稿した記事(コルダが発見し編集した)であり、1910年代に出版された以下の本を補完するような内容のものだった。
・A mozgószinház, mint a népművelés eszköze (Keleti Adolf, 1913)
・A mozgófénykép (Beck Szilárd, 1913)
・A mozi (Körmendy Ékes Lajos,1915)


ハンガリー映画史② 繁栄の時代 に続く。

※ハンガリー映画史これまで

ハンガリー映画史① 黎明期(1896~1910)
ハンガリー映画史② 繁栄の時代(1910~1919)
ハンガリー映画史③ 戦間前期 来なかった黄金時代(1919~1925)
ハンガリー映画史④ 戦間中期 復活の兆し(1925~1932)
ハンガリー映画史⑤ 戦間後期 コメディ黄金時代(1932~1939)
ハンガリー映画史⑥ 第二次大戦期 メロドラマの時代(1939~1945)
ハンガリー映画史⑦ 第二共和国時代の短い期間(1945~1948)
ハンガリー映画史⑧ ステレオタイプと復古戦前の時代(1948~1953)
ハンガリー映画史⑨ 社会批判と詩的リアリズムの時代(1953~1956)
ハンガリー映画史⑩ 人民共和国時代初期 静かなる移行期(1956~1963)
ハンガリー映画史⑪-A ハンガリー映画黄金時代 社会批判、リアリズム、歴史の分析(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-B ハンガリー映画黄金時代 ハンガリアン・ニューウェーブ!!(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-C ハンガリー映画黄金時代 日常の映画と商業映画(1963~1970)
ハンガリー映画史⑫-A 新たな道を探して 耽美主義と寓話(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-B 新たな道を探して ドキュメンタリーとフィクション(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-C 新たな道を探して ドキュメンタリー、風刺、実験映画(1970~1978)
ハンガリー映画史⑬-A 二度目の黄金時代へ 芸術的な大衆映画(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-B 二度目の黄金時代へ 80年代のドキュメンタリー(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-C 二度目の黄金時代へ 格差の拡大と映画の発展(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-D 二度目の黄金時代へ 新たな語り口とその様式化(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-E 二度目の黄金時代へ 繊細さを持った映画たち(1979~1989)
ハンガリー映画史⑭ そして現代へ (1990~)

よろしければサポートお願いします!新しく海外版DVDを買う資金にさせていただきます!