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ハンガリー映画史③ 戦間前期 来なかった黄金時代(1919~1925)

ハンガリー映画といえばネメシュ・ラースロー『サンセット』が公開され、エニェディ・イルディコ『私の20世紀』やタル・ベーラ『サタンタンゴ』がリバイバル上映される今年は正にハンガリー映画イヤーと言えるかもしれない。

今回は繁栄しまくった無声映画時代から一転、戦争に負けてしまったせいでハンガリー映画が辿ってしまった才能流出時代のお話。

・敗戦と没落

新たな手法やスタイルの試験・構築をほとんど行わなかったにも関わらず、1910年代の映画製作事業の発展は目覚ましいものだった。質より量の時代であったが、新しいジャンルが花開いた最初の時代になるはずだった。しかし、そうはならなかった。

ハンガリーは第一次世界大戦に負けたのだ。

広大な領土を失い、"量より質"の時代の到来を前にしてハンガリーの映画産業は崩壊してしまった。加えて第一次世界大戦後、1919年には共産主義革命が起こり、映画産業はソビエトのように国有化されてしまった。しかし共産主義政権が長続きしなかったこともあってか、彼らの野望はそこまで叶うことなく、製作中だった"中産階級向け"のコメディは完成させてもらえたし、ケルテース・ミハーイ監督作『Jön az öcsém (My Brother Is Coming)』やLázár Lajos監督作『Tegnap (Yesterday)』などといったプロパガンダ映画が製作されたのに留まった。共産主義政権崩壊後、プロパガンダ映画製作に携わったクリエイターは国外退去を余儀なくされた。

1920年代に始まったホルティ・ミクローシュとその右派政権時代、ハンガリーにはオーストリアのコロヴラート伯爵のような映画製作を組織・主導できる人間がいなかったため、ハンガリー映画業界は守りに入る時代になってしまった。"中産階級"は古き良き時代の復興を目指す人々とモダン化を目指す人々に別れてしまったが、最終的には前者に落ち着いた。主にヨーロッパの人々が敗者に対して背を向け始めたのと、知識的統合に反する罰を与え始めたからだとされている。

20年代におけるハンガリー映画の凋落は10年代における発展と同じくらい唐突なものであった。

・才能流出時代の幕開け

1910年代における急速な発展の中では、国内でその最高到達点に達することが出来なかったが、その経歴を持った監督たちはウィーンやベルリン、ハリウッドに追放されたり出ていったりしてしまう。コルダ、ケルテースは既出の通りであるが、コルダの妻マリアや
・Lucy Doraine (Ilona Kovács)
・ラホス・ビロ (Biró Lajos)
・ヴィクター・ヴァルコニ (Várkonyi Mihály)
・ラディスラオ・バホダ (Vajda László)
・パル・ルカーチ (Lukács Pál)
などはその後ウィーンで仕事をしていたし、UFAがベルリンに
・コルダ兄弟(シャーンドル、ゾルタン)
・Lucy Doraine (Ilona Kovács)
・Putty Lia (リア・デ・プッティ)
などを呼んで仕事をしていた。また、当時ベルリンと張り合っていたミュンヘンに招かれた監督・俳優たちもいた。

無声映画時代、アート系映画は一本も作られなかった。20年代は芸術的な機運が高まっていたのだが、ハンガリーでは相手にされず、漸く映画産業が復興した30~40年代は10年代の映画に近い作品を作り直すだけに終わってしまった。

・外国映画の解禁

1919年、4年振りにアメリカ・フランス・イタリア・デンマーク映画の公開が解禁された。外国映画が相当数流入したのもハンガリー映画業界の崩壊に一役買ってしまった。同時に映画製作会社も次々と倒産し始め、20年代には大手のスタジオも次々を閉鎖されてしまった(Astra: 1921、Uher: 1922、Corvin: 1926、Star: 1929)。映画そのものも作られる数が減っていき、長編映画では1922年には4本、1925年は2本、1928年は1本しか作られていない。しかし、こんな時代でも素晴らしい映画は登場しうるのだ。

・20年代にデビューした監督たち

この頃にハリウッド的な作品を作ろうとしていたGaál Bélaは1920年の監督デビュー以来20年でスクリューボール・コメディの名手としてその地位を確固たるものとした。1924年に映画界に参入したZilahy Lajosはメロドラマとハンガリアン・ノワール映画の騎手として活躍した。後にコメディやオペレッタの巨匠として有名になるゲツァ・フォン・ボルヴァリー(Bolváry Géza)も1920年にハンガリーでキャリアを開始している。
また、後に『都会の哀愁 (Lonesome)』をハリウッドで監督するパウル・フェヨシュ(Fejős Pál)も1920年にデビューし、フランス的なアート系作品を作ろうと試行錯誤していた。
ボルヴァリーとフェヨシュは1923年に国を去るが、前者がドイツでいい契約が取れたのに対し、後者はハリウッドに渡って『ラスト・モーメント』(1927)を監督する。これは低予算で作られたアート系映画(溺死する男が過去を回想する無字幕の映画)である。本作品の批評的成功によってフェヨシュは国際的なキャリアを開始し、ムルナウのライバルとまで言われていた。
ちなみに、Gaál Bélaはブダペストに残って1926年までに5本の映画を完成させ、トーキー映画の波がやってくるまでは劇場で仕事をして糊口をしのいでいた。

・無声映画時代に大量生産支えた職人監督たち

1910年代、コルダやケルテースなどの有名監督たち他にも大量生産を支えた職人監督たちがいた。その監督たちの多くは苦難の20年代を乗り越えてハンガリーに残り続けた。
Deésy Alfrédは器用でエレガンスに溢れる人気作品を手がけた監督である。彼はしばしば文学作品を題材にした作品を作り、1947年に引退するまでに77本の映画を監督した。
Balogh Bélaはその整った作風と博愛的な人間描写から批評家に絶賛されていた監督である。彼の作品は社会批評や今日では誇張とも取れるようなセンチメンタリズムで構成されることが多く、1943年の遺作までの間に50本の無声映画と17本のトーキー映画を監督した。
ここで、Lajthay Károlyにも触れておこう。『Drakula halála (Dracula's Death)』(1921)はブラム・ストーカーの原作には全く則っておらず、しかも散逸しているため現在では鑑賞手段がないが、ムルナウの『吸血鬼ノスフェラートゥ』よりも先にドラキュラを映画化した作品であるらしい。Lajthayは1944年の遺作までに30本の映画を監督している。

・映画学校の創設

当初、演劇学校出身の俳優たちが多く映画に出演していた。ゲツァ・フォン・ボルヴァリーとGaál Bélaは最初の映画学校を設立し、それぞれが将来の映画俳優たちに向けた指南本を執筆している。
・ボルヴァリー:"Filmszínész"
・Gaál:"Filmelmélet"

・そんな中でも…

長編映画が生き残りをかけて悪戦苦闘していく頃、政府の助力を得た"教育用映画"産業は重要なものとなっていく。ニュースリール製作は1924年に政府がプロジェクトを開始させてから1989年まで続いた。

国産映画が衰退しても、映画産業そのものは繁栄を極めた。ハリウッド映画が優勢というわけでもなく、ヨーロッパ各国の映画も頻繁に上映された。演劇関係者、作家、インテリ層は10年代に続いて映画に興味を示し続けた。映画に対する興味が少し薄くなるのは、1930年代後半の"白い電話"コメディが作られ始めた頃以降らしい。

・ハンガリアン・アヴァンギャルド!

戦後期間中に状況が厳しくなるにつれて、資金のせいで映画製作が制限されているのにインテリ層は手を貸さないのか、と疑問に持ち始める人も出てきた。敗戦と後の世界恐慌は大衆が"現実逃避"を求めるきっかけともなったが、大衆の求める安直な逃避に文化そのものをくれてやるわけにはいかなかった。ハンガリーのアヴァンギャルド作家たちは常に欧州の文化を見習って故国に芸術文化を根付かせようとしていたが、土着の文化との融合を完全に無視していたため、結局は教師と生徒のような関係を抜け出せなかった。そのため、ハンガリーのアヴァンギャルド映画には全く以て協賛者がいなかった。敢えて触れておくのであれば、構造主義的芸術表現をしていたモホリ=ナジ・ラースロー(Moholy-Nagy László)はアヴァンギャルド映画『A nagyváros dinamikája (Dynamics of a Big City)』の脚本を書いていたとのことである。結局、この映画は撮影されなかったものの、ヴァルター・ルットマン『伯林 大都市交響楽』で言及されている。

何度も言及している通り、無声映画時代にアート系映画は製作されなかったのだが、それでもジャンルものが世界に与えた影響は大きかった。映画の最初の熱狂的なフォロワーだった"Nyugat"グループの例えば、カシャーク・ラヨシュ(Kassák Lajos)の『伯林 大都市交響楽』の書評などからも確認できる。また、20年代になってHevesy Ivánは映画論についての記事を書いている。彼のキャリアで最も重要な仕事はハンガリー人読者に対して映画史の重要なトレンドとその"ホンモノの"品質について紹介したことだろうか。1925年に出版された"A filmjáték esztétikája és dramaturgiája (Aesthetics and Dramaturgy of Film)"の中で、彼は様々な映画を引用しつつ映画論をまとめている。


ハンガリー映画史④ 戦間中期 復活の兆し に続く

※ハンガリー映画史これまで

ハンガリー映画史① 黎明期(1896~1910)
ハンガリー映画史② 繁栄の時代(1910~1919)
ハンガリー映画史③ 戦間前期 来なかった黄金時代(1919~1925)
ハンガリー映画史④ 戦間中期 復活の兆し(1925~1932)
ハンガリー映画史⑤ 戦間後期 コメディ黄金時代(1932~1939)
ハンガリー映画史⑥ 第二次大戦期 メロドラマの時代(1939~1945)
ハンガリー映画史⑦ 第二共和国時代の短い期間(1945~1948)
ハンガリー映画史⑧ ステレオタイプと復古戦前の時代(1948~1953)
ハンガリー映画史⑨ 社会批判と詩的リアリズムの時代(1953~1956)
ハンガリー映画史⑩ 人民共和国時代初期 静かなる移行期(1956~1963)
ハンガリー映画史⑪-A ハンガリー映画黄金時代 社会批判、リアリズム、歴史の分析(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-B ハンガリー映画黄金時代 ハンガリアン・ニューウェーブ!!(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-C ハンガリー映画黄金時代 日常の映画と商業映画(1963~1970)
ハンガリー映画史⑫-A 新たな道を探して 耽美主義と寓話(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-B 新たな道を探して ドキュメンタリーとフィクション(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-C 新たな道を探して ドキュメンタリー、風刺、実験映画(1970~1978)
ハンガリー映画史⑬-A 二度目の黄金時代へ 芸術的な大衆映画(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-B 二度目の黄金時代へ 80年代のドキュメンタリー(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-C 二度目の黄金時代へ 格差の拡大と映画の発展(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-D 二度目の黄金時代へ 新たな語り口とその様式化(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-E 二度目の黄金時代へ 繊細さを持った映画たち(1979~1989)
ハンガリー映画史⑭ そして現代へ (1990~)

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