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ポシュチャン・フラドニク『雨の中のダンス』 "理想の女"の幻想に気が付くとき

さて今回はスロヴェニア映画である。いつ上映されたかは定かでないが、しっかりカタカナ表記まで当てられているポシュチャン・フラドニクはスロヴェニア出身の映画監督であるが、20代の頃一時期フランスに居たことがあり、そこでクロード・シャブロルやフィリップ・ド・ブロカ、ロバート・シオドマクなどの下で働いたことがあるらしい。そこでの経験を活かした長編一作目である本作品は、確かにヌーヴェルヴァーグ的な側面も見て取れる。2005年に実施された批評家による20世紀ベストでは多くの人が本作品を1位に挙げた。スロヴェニア映画史、引いてはユーゴスラビア映画史に最も重要な作品の一つだと言えるだろう。

基本飲んだくれている美術教師ペトルには、女優を目指す年上のマルーシャが友達以上恋人未満の存在としてまとわりついていた(ペトル目線)。ペトルはそんなマルーシャの存在を煙たがっていて、もっと若くて可愛い女が人生に現れると信じている。マルーシャは女優になって大成しようとしていたが、鳴かず飛ばずでここまで来てしまった。マルーシャには熱心なフォロワーの興行主がいて、彼女にべったりつきまとっているが、ペトルが大好きなマルーシャには届きそうで届かない。マルーシャにぐじゃぐじゃ言っている割に、ペトルは興行主のことが気になっているようで、二人のデート的なものを邪魔したりしている。そこに、全く関係ない存在として、ペトルの隣人アントンが加わる。彼は、頭の中で道行く人の破滅を願いながら(モノローグで"死んじまえ"って何度も言ってる)、ペトルの部屋にやってくる娼婦やらマルーシャやらを覗き見ている変態だ。そんな、クソ野郎と変態と残念美人で織りなす地獄への道筋が本作品である。

一つの特異な特徴として、『野いちご』的な悪夢が、映画として現実と陸続きにしているという点がある。ペトルが繰り返し夢に見る理想の女に対する妄想が、一回目は窓辺に立つ裸の女のシルエットとして、二回目は同じ夢だが新たに大量の棺に囲まれた広場が登場し、窓をくぐり抜けても同じ棺の広場を通り抜けることになる無限回廊に変化する。ペトルの理想がどんどん高くなっていった到底現れそうにない女性像の具現化だろう。翻って、マルーシャも出身の村で"おう!赤毛のマルーシャな!知ってる!"と云われて顔をほころばせる夢のシーンがある。そう、夢なのだ。なんとも痛々しい。

ショットも面白いものが多い。主要人物たちが街を歩くのを追っていたかと思うと、対向から来た別の人に乗り換えて、また対向から来た人に乗り換えて会話する主要人物たちに戻ってきたり。或いは、静かなレストランでゲラゲラ笑うマルーシャから、笑い声が響く店内を順に映していき、長回しの末ペトルに戻って切り返しを完成させたり。現実と陸続きの幻想に加えた、このショット遊びが本作品に不思議な魅力を与えている。

やがて、マルーシャはペトルに三行半を突きつけられ、劇場も追い出されて絶望する。しかし、マルーシャへの思いを言語化していったペトルは、自分の秘めたる思いに気が付いて、自宅に返ってしまった彼女の後を追う。神出鬼没の変態アントンもなぜかペトルに付いて行く。そして、ペトルは自分がしでかしたことに気が付くのだった。理想の女性がいなくなるという悪夢が現実になった瞬間だった。

物語には破滅へ向かうペトルとマルーシャの関係と対比するように、イチャイチャする一組の同じカップルが随所に登場する。ラストショットは雨の中幸せそうに踊り続けるこの二人が、起こりうる一つの未来を背景に去っていくのだ。

理想の女とは、自分を理解し愛してくれる女性のことだろう。果たして、それがマルーシャにとっていい結果になるかは不明だが(ハッピーエンドになるとしても)、全ての男が犯すであろう"理想の女"の現実を映画は100分で提示してくれるのだ。

・作品データ

原題:Ples v dezju
上映時間:100分
監督:Boštjan Hladnik
公開:1961年3月27日(ユーゴスラビア)

・評価:77点

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