文ちゃん

社会人になって1ヶ月と4日、弟が亡くなりました。

令和が始まって4日、社会人になって1ヶ月と4日。令和元年5月4日午前3時、私の弟が亡くなりました。

令和元年5月4日午前8時、高円寺の小さなアパートの布団で目覚め、私はいつものようにケータイを開きました。
母からのラインを確認して、それから返信もせずに無意識にTwitterをスクロールしました。その頃SNSには少し嫌気がさしていて、前日に時間制限のフィルターをかけたばかりでした。それなのにその制限を解除して、ひたすら他人の情報を身体中に吸収しました。
インスタやTwitter、facebook。意味もなく一通り目を走らせました。そうやって、ベッドの上でおそらく1時間は過ぎたと思います。

「どうしよう、弟が、もう戻ってこない」

それが朝起きて飛び込んできた、母からのLINEでした。

その意味が分かってしまいたくなくて、1時間は開けなかったLINE。私の返信は、なんだかすごく間抜けなものだったような気がします。
その後「夜に弟が亡くなった」と母から聞いて、私は暫く天井を眺め、またSNSをいじり、そして力尽きて、やっとベッドから出ました。

とりあえず、私は大阪に帰らなくてはいけないからです。実家に帰るために服を着替えている間、「亡くなった」というLINEの文字が頭に反芻して、「亡くなった」ということに関して考えました。

それは全く実感の伴わない言葉で、”言葉”と”それが表すもの”は実際には全く違うものだ、なんていう昔どこぞの学者が言っていたことは、本当にそうなんだな、なんて人生で初めて実感しました。「亡くなった」と亡くなった、の間には途方もない距離がありました。家を出る前に、彼に「今から大阪に帰ることになった。」と連絡をいれ、電話をしました。

「これから大阪帰ってくるの!どうしたん?何があったん?」

彼が笑いながらそう言って、私は初めて何があったかのを、考え直しました。

「弟が、亡くなったの」

言葉とその出来事の間には、距離があったはずでした。

それでも自分の口からその言葉がこぼれ落ちる時、私は”弟が死んだんだ”、と思いました。その言葉とともに涙が、こぼれました。

ほとんど荷物も持たず、私は大阪の実家に向かいました。その日はとてもいいお天気で、陽の光が暖かく、肌に太陽の熱を感じました。
また嫌なことに、いつもなら気にもしない、近所の植木鉢のパンジーの匂いがその日に限って鼻をくすぐりました。

その時、否応無く私は生きていて、そして事実として弟は死んでいました。

街ゆく人も、新幹線の乗客も皆んな生きていて、そして弟だけが死んでいました。

実家に帰ったら、その事実は、もう戻れない現実になってしまいそうで、新幹線のなかで足がずっと震えていました。
車内で、いろんな人に用事のお断りや再調整の連絡を送りました。その日は、なぜか会社のパソコンがすごく重くて、機械が苦手な私は、困って彼に相談をしました。

「再起動してみ。重くなってるかもよ」

言われるがままに再起動をしたら、パソコンはあっさり元に戻りました。
それはたった一つのボタンを押すだけの作業。
それがそこまで衝撃的だったのは、後にも先にもこの時だけであると思います。弟の命は簡単に再起動なんてできない、そのことがパソコンの再起動の、いとも簡単な様子によって際だった、からです。

そうして私は自宅に着きました。
家に着いたら、祖母が泣いてわたしの胸に飛び込んできました。

「代わってあげたい、自分が死んでしまいたい、なんて死ぬなんてことをしたんだ、弟が死んだんじゃない、病気が弟を殺したんだ」

と彼女は泣きました。母は

「なぜ気づいてあげられなかったのか、何もしてあげられなかったのか。どうしよう.....」

と言いました。

苛立ってもしょうがないと分かっていて、それでも、それらの言葉がやけに私を苛立たせました。

後悔しても遅いのだと、どうしようと言ってもどうしようもなくて、代わってあげるなんてことはできなくて、後悔をしても自分を慰めても、泣いても、もう弟に伝えられることは何もないのだと。
そう思いました。
涙とは一体誰のためにあるのか、自分がそれを流して綺麗さっぱり生きていくためにあるのではないのかと、そんな、嫌なことも考えました。

でも、それらの苛立ちははっきりと、自分に対する苛立ちと絶望と嫌悪になって帰ってきました。皆んなの言動を見て苛立ったのは、それはその時、私が私自身のほとんど全てに対して苛立ち、責め、絶望していたからだと思います。

何をしても、それは自分のためのような気がしてしまって、私は家族を目の前にして、何も言えませんでした。
気の利いた慰めの言葉も、悲しみの言葉も口にすることができず、涙が目から流れ落ちるのを頬に感じながら、ただただ押し黙っていました。

弟は亡くなる直前に私の東京の家に泊まりに来ました。
大好きなアニメ『ペルソナ』のライブに参加するために。
ライブがすごく楽しかったらしく、弟が嬉しそうに興奮して帰って来た日、私は仕事がいっぱいいっぱいで、弟が帰ってくる前に布団に入ってしまっていました。
実家に帰る日の朝、玄関先で「ちゃんと食べてね、元気でね」と言った弟。最後まで人の心配をする奴でした。「元気でね」って、まるでこれが最後のお別れみたいに言うなと、思ったけど、あまりに不謹慎だなと思ったので、それは言えませんでした。

そして、それが本当に弟との最後のお別れになりました。

あの時、私がライブの話を聞いて、夜中までお酒でも一緒に飲んで話をして入れば、何かが変わったでしょうか。
「私の弟は最高だ」といつも彼に話していたその言葉を、本人にしっかり伝えていれば、何かが変わったでしょうか。
「元気でね」という弟を「そういう最後のお別れみたいなのはやめなよ」と抱きしめていれば、何かが変わったでしょうか。
そもそも私が東京になんかに出てこないで、側にいてやったら、何かが変わったでしょうか。

弟がなくなる前日、私はちょっとした近状報告文をfacebookに投稿しました。大学時代の振り返りと、少しの未来への期待を込めて。それを読んで久しぶりに知り合いが連絡をくれたりして、facebookから通知が来ることが嬉しかったのを覚えています。
GWには、彼が東京に遊びに来ていました。とても大事に、甘やかしてもらいました。その時に彼と一緒に見にいった野球の試合の、弟が昔好きだったはずの野球の写真を弟に送りました。
そのLINEの返事は、ついにもう永久に帰ってこないものになりました。

弟が死を考えた時間を、私はそうやって過ごしていました。

クソだと思いました。

自分がやっていたことすべてが。
やりたかったことすべてが自己中心的で、弟の死を前に、全く意味のないもののように思えました。
入社して間もない研修中に考えた自分のミッションステートメントも、30歳までのアクションシートも、大好きで欲しかった服も、仕事も夢も趣味も、全てがおもちゃのガラクタのように感じました。

弟の誕生日は5月19日でした。
今年は社会人になったから奮発しようと、東京から送るつもりだったラコステのシャツのプレゼントと、ウザいぐらい弟を褒めた誕生日の手紙は、まだ私の部屋に身を狭くして居座っています。

5月4日18時、家族で弟に会いに行きました。

ここまで「会いにいく」という動詞に違和感を感じた事はありません。
正直、生きてはいない弟に会いに行くことはどうしようもなく怖くて、会いに行きたくないとも思いました。
それでも、会いに行かなくては、と思いました。弟が死んだ事をきちんと自分の目で見なくてはいけない。それは一体なんの義務感だったのは私にもよく分かりません。でも弟が、私たちに会いに来て欲しかったのかどうかは、考えても考えても、ついに分かりませんでした。

弟は白い棺の中にいました。その時、あ、と思いました。
身近なの人の死を体験したことのなかった私にとって、死はもっと不安定で、儚くて消えていきそうな、そんなものだと思っていました。
でも、弟の遺体を目の前にした時、私は死んでいる、つまりもう存在しない、ということは、
存在しない、つまり死んでいるということがずっと在る、
ということなんだなと思いました。
それはないのではなく、確実に、無いこと、が在るのでした。
そこには重さ、がありました。

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