R.Kellyの逮捕と、音楽や作品に罪はないのかという話

R.Kellyが複数の女性に対する性的虐待などの罪で有罪判決を受けることが確定した。
数年前まで自分の中でR&BといえばR.Kellyという認識はゆるぎないもので、小さいころに見たSpace Jamの主題歌I Believe I Can Flyから高校生のころにやられたIgnition Remix, 朝方のDJで何回もかけたRadio Messageなど、時代時代で何度も繰り返しはまった曲が何曲もある。客演やプロデュースの曲も大量にあるし、R.Kellyの曲抜きではHip Hop/R&BのDJをすることは自分にとっては不可能なんじゃないかとすら思う。
それだけに彼の犯罪が明るみに出た時はショックだったし、今の状況に対しては複雑な思いを持ち続けてる。ただ、彼がやったことは許されることではないということははっきり理解している。

作品には罪はないものなのか?

アーティストが逮捕されると、日本ではたいてい作品の回収だったりストリーミングの中止だったりという措置がとられる。その一方で、それに対して作品には罪はないんだからそのような措置をとることはない!という声も必ず出てくる。(今回のR.Kellyの一件で彼の音楽は一体どのように扱われるのだろうか?ということはまた別の話で、もしかしたら何事もなく明日からも流れ続けるかもしれない)
作品に罪はないというのは、罪を犯したのはあくまでアーティストであり、作品はそれとは切り離してとらえられるべきで、例えばそのアーティストの曲を聴きたいと思う人がいるなら聴けるようにするべきだ、という考え方だ。これはこれで一理ある。個人の楽しみの範囲で曲を聴いたり映画を見たりすることは阻害されるべきではない。一方で、やはり作品とアーティストは分かちがたく存在するものであり、そうやって割り切って考えることができない部分も大いにある。

曲を聴かせるということは経済活動であり意見表明である

現代において、ストリーミングで曲を聴くということは経済活動と切り離すことができない。YoutubeやSpotifyなどで曲が聞かれれば、その分だけアーティストに利益が還元される。ストリーミングを放置することは犯罪者に対して利益を供与し続けることに直結する。ストリーミングを行う会社などはそのような行為に対してどういうスタンスをとるのかを問われるといっても過言ではない。また、例えばDJのセットの中にそのようなアーティストの曲を含めることは、そのアーティストの犯罪行為をどのようにとらえるのかというスタンスを表すことにもなるし、曲を聴かせる者としてはその曲を聴いた人がどう考えるのかということにも考えを巡らせるべきだ。個人的な楽しみの範疇を越えて人に音楽を聞かせるということになった瞬間に、その行為は経済活動であり社会に対する意見表明なのだ。それを踏まえた上で、なんでもかんでも抹消してしまえばよいかというとそれもおかしい。要は、曲がいいからと言って盲目的にアーティストの重大な犯罪を無視して「作品に罪はない!」と声高に叫ぶことはおかしいし、大したことないトラブルに対しても目くじらを立てて回収、自粛を機械的にやってしまうのはおかしい。

結局は一個一個のケースを考えていくしかない

この問題に関しては、決まった線引きをすることは難しく、一個一個のケースで考えていくしかない。大事なのは、曲を聴かせることが経済的社会的活動なのだということをしっかり考えることだろう。
DJとしての自分の立場で考えると、例えばちょっと大麻で捕まった人がいたからと言ってその行為で直接誰かを傷つけるものではないので、犯罪として罪を償うこと以上の罰を与える必要はないと考える。その人の曲を聴いて本当に嫌な気持ちになる人もそんなにいないのではないだろうか。一方で、今回のR.Kellyの件に関しては、自分も大好きな曲が本当に多いからこそ苦しいのだけれど、やはり他の人がいるところでかけるべきものではないだろう。せめて、彼のやったことをしっかり考えた上で、または考えながら、自分の部屋でこっそり聞く程度にとどめておかなければいけないと思う。

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